第7話 再会と暗転
冷たい朝の空気が、肌を刺す。いつになったら暖かくなるのだと健太郎は思う。
アパートの廊下を歩き、隣の部屋のドアをノックした。
少しの間を置いて、扉の隙間から絹代が顔を出す。
「あら、おはよう。ちょうど良かった」
「どうかした?」
健太郎は軽く頷き、手を伸ばしてゴミ袋を受け取る。
そのとき、絹代がリビングの方を指差した。
「リビングの蛍光灯、そろそろ切れそうなんだよ」
ちらりと部屋の奥を見ると、確かに光がチカチカと明滅している。
「今日のうちに買ってくるよ」
そう言うと、絹代は嬉しそうに笑った。
「助かるねぇ。ところで、今日は顔色が悪いね」
健太郎は小さく笑う。
「まあね」
「どうかしたのかい?
「捨てたと思ってたものが、戻ってきた」
「まあ」
絹代は笑った。
「そういうこともあるよねぇ」
「あるのかな」
「なんのことか、わからないけどね。しばらく付き合う運命だと思って、もうすこし持ってみたらどう?」
悪くない考えに思えた。
同時に悪い考えにも思えた
「考えておく」
そう言って、ゴミ袋を持ち、ゴミ捨て場へ向かった。
ゴミを捨て終え、ポケットの中を探る。
指先に触れた、冷たい金属。
銀色のデュポン。
馴染みのある感触が、妙に指に馴染んでいた。
健太郎はしばらくそれを見つめる。
「燃えるゴミの日」
ふと、燃え盛るゴミの中にライターを放り込む未来を想像する。
けれど、手が止まった。
嫌悪感。
そして、それと同時に湧き上がる微かな安堵感に、自分自身で戸惑う。
「……何やってんだ」
小さく呟く。
ため息をつき、ライターをポケットに戻した。
*
電気屋で蛍光灯を購入し、ついでに食料品も買い足す。
店を出て、ポケットの中のライターに指を這わせる。それから昨日の女のことを思い出した
あの後無事宿を見つけられただろうか、深夜を回っていたので、泊まるところはほとんどなかったかもしれない。
あの状況であれ以上自分にしてやれることはなかったが。
自嘲気味に鼻を鳴らしながら、アパートに戻り、絹代の部屋のドアをノックする。
扉が開いた。
出てきたのは絹代ではなかった。
「よっ」
前髪をかき上げながら、薄く笑うコインランドリーの女。
健太郎は仰天して足を浮かせた。
思考が追いつかないまま、部屋の中を覗き込む。
奥で絹代が椅子に座り、お茶を飲んでいた。
「ああ、健太郎、おかえり」
「あの…」
「この子、あんたの部屋に忘れ物したってさ」
「忘れ物……」
ストールとタバコとライター。すぐに思い当たった。
「私の買い物に行ってもらってたし、外で待たせるのも申し訳ないから、この部屋で待っててもらったよ」
のんびりとした声で絹代は言った。
健太郎は女の顔を見る。
彼女はどこか飄々とした表情で、こちらを見返していた。
「綺麗な彼女さんだねぇ」
「……違うよ」
即座に否定すると、絹代はからかうように笑った。
「なんだい、照れちゃって」
「……違うって」
うんざりした。軽く頭を掻きながら
「電球、あとでつけるから」
そう言って、女に視線を移した。
「……忘れ物だろ。行くぞ」
女は口元に笑みを浮かべながら、「はいはい」と軽く返事をし、健太郎の後をついてきた。
絹代の興味深そうな視線が背中に刺さった
部屋に入ると、女はすぐに棚の上を指差した。
「忘れ物」
健太郎は指の先を追い、棚の上を見た。
「ストールだな」
手に取ると、一緒にタバコの箱も落ちてきた。
それを拾い上げ、無言で女に差し出す。
女は何も言わず、それを受け取った。
健太郎は少し躊躇いながら、ポケットの中の冷たい金属を取り出す。
「これも」
ライター。
銀色のデュポン。
女はそれを見て、眉をひそめた。
「それはいらない」
健太郎は少し食い下がる。
「でももうあげたものだから」
女は呆れたように健太郎を見つめる。
「ねぇ、それ呪いのライターか何かなの?」
「え?」
「あんた私と付き合いたいわけでも、ワンナイトしたいわけでとないのに、なんでそんなに頑張ってそのライター渡そうとするの? 普通に怖いんだけど」
ぐうの音も出ない。
「…もういい悪かった」
健太郎は観念して、ライターをポケットに戻した。
「昨日はちゃんとホテルに泊まれたのか?」
話題を変えるように、健太郎は問いかけた。
女は軽く肩をすくめる。
「どこもチェックインには遅すぎたから別の男の部屋に泊まった」
「路上で寝てなくてよかった」
健太郎は一息つき、視線を上げる。本音だった。路上で女の凍死体なんかが見つかったらもしかしてと気に病むところだった。
「用が済んだなら出て行ってくれ」
さりげなく手でジェスチャーしながら促す。
女がむっとする。
「……」
しかし、次の瞬間、何か思いついたようにニヤリと笑った。
「なんだ?」
女は健太郎の脇を抜け、ベッドにダイブした
「……何やってんだ?」
健太郎は呆然と立ち尽くす。
枕に顔を埋めたまま、女はくぐもった声で言う。
「男の家に泊まったのは嘘。結局カラオケで夜明かしした」
ぐるっとベッドに仰向けになり、顔の横に両手を置く。
「ソファじゃ全然眠れなかった。硬いんだもん。だから、少しだけでいいから、ここで寝させて」
「おい」
「できればシャワーも浴びさせて」
顔の前で手を合わせる。
健太郎は深いため息をつく。
諦めた。
今朝、絹代から言われたセリフを思い出した。
せっかく戻ってきたんだから、もう少し付き合ってみたら?
不本意だがそうする。あと単純に相手をするのに疲れた。
「……好きにしろ」
「本当に?」
「でも、夕方には仕事に行くから、それまでに出て行ってくれ」
女の顔が少し明るくなる。
健太郎はため息をついて部屋を出ようとする。
女がベッドの上から顔を上げた。
「どこ行くの?」
ドアノブを握ったまま、健太郎は答える。
「絹代さんの蛍光灯を替えに行く」
女がクスクスと笑う。
「仲いいのね。あんたもしかして、そういう趣味?」
からかうように笑いながら、ベッドの上でタバコに火をつける。
「早く寝ろよ」
「一緒に寝る?」
「全く」
健太郎は呆れて、そのまま部屋を出た。
絹代の部屋のインターフォンを押す。
返事がない。
もう一度、少し強めに押す。
「……絹代さん?」
それでも反応がない。
嫌な予感がした。
ドアノブを回すと、鍵は開いていた。
ゆっくりとドアを押し入った。
部屋の中は静かだった。
嫌な静寂。
リビングの奥に視線を向ける。
絹代が倒れていた。
「絹代さん!」
駆け寄る。
横たわる絹代の顔は青白く、呼吸をしていない。
胸に手を当てる。
心臓が、動いていない。
健太郎は膝をつき、両手を組み、胸の上に置いた。
「絹代さん!」
力強く圧迫を加える。
リズムを刻むように、胸を押す。
後ろから足音が聞こえた。
振り返る余裕はなかった。
「……どうしたの?」
背後から女の声。
息を呑む気配。
「救急車を呼んでくれ!」
健太郎は振り返らず、ただ叫んだ。
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