第6話 勘違い
部屋に入るなり、女はためらいもなくソファに腰を下ろした。
まるで前から知っている部屋かのように、馴染んだ動作だった。
健太郎は何も言わず、棚から救急箱を取り出す。
テーブルに置き、椅子にも座らず立ったまま、女の腕を取った。
腫れた部分を冷やしながら湿布を貼る。
女はじっとそれを見つめながら、少し口角を上げた。
「何があったか聞かないの?」
健太郎は軽く眉をひそめたが、すぐに元の無表情に戻る。
「興味ない」
その言葉に、女は笑いながら腕を戻した。
「察してる感じ?」
健太郎は答えず、ただ黙々と処置を続ける。
その無言の反応を面白がるように、女は勝手に話し始めた。
「下宿先の大家の男と寝た。今日2回目寝ようと思ったら、彼女に見つかった」
概要を言えばこんな感じね、と女は笑う。
健太郎は黙って女の腕を冷やした。
反応がなさすぎてつまらないのか、女はわざとため息をつきながら続けた。
「想定よりバレるのが早かったなぁ。あとあいつ、下宿先の女ほぼ全員に手を出してたのに、私は一番最初にバレたのは納得いかない」
健太郎は反応しない。くだらない話を聞きづつけたくはなかった。
「無反応。ま、別にいいんだけど」
健太郎は、一切の感情を見せないまま、手当てを終える。
女はつまらなさそうに視線を彷徨わせる。
やがて、本棚へと目を向けた。
指先で背表紙をなぞる。
「読書家なのね。おすすめある?」
健太郎は一瞥し、低い声で答える。
「好きなのがあれば持っていっていい」
女は一瞬、怪訝な顔をする。
「随分と気前がいいのね」
健太郎は淡々と返した。
「全部すでに読んだ本だから。僕にはもう必要ない」
本棚に目をくれて、すぐに視線を外す。
「別にいらないから、やってもいいだけ」
女は棚から一冊取り出し、パラパラとページをめくる。
その途中で、いつの間にか取り出していたデュポンのライターを弾いた。
「このライターも数十万するよね」
「そうだな」
「ミニマリストにしては、物の捨て方が過激すぎない?」
健太郎は、それを無視した。
女は本を軽く閉じ、じっと健太郎を見つめる。
口角をわずかに上げ、揶揄うように言った。
「ねぇ、私のこと非難しないの?」
「非難?」
「何度か別の男といるところも見てるでしょ?」
健太郎はタオルを片付けながら、ふっと息を吐いた。
「僕に何を非難しろてっんだ。君がどこの誰かもわからないのに性生活の乱れを注意する立場にない」
時計をみる。時間は深夜1時を廻っていた。
「痛みがなくなったら、早く帰ったほうがいい」
健太郎がそう言うと、女はわざと足を引きずるように見せながら、ソファに深く腰を落とした。
軽く肩をすくめ、悪びれる様子もなく笑う。
「足が痛くて歩けそうにない」
健太郎の視線が、女の足元に落ちる。
右手は確かに腫れていたが、足は無傷のはずだった。
「足は怪我してないはずだ」
指摘すると、女はクスクスと笑いながら、ポケットからタバコを取り出した。
「ねぇ、ここに泊めてよ」
健太郎は即座に拒否した。
「家に帰れ。夜道が不安なら送ってやる」
「さっき、あいつに出ていけって言われたし」
ため息混じりに言いながら、女はタバコを咥える。
健太郎は一瞬だけ表情を変えたが、すぐに冷静な声で返す。
「今日の今日で丸裸で出て行かせられるはずがない。荷物だってあるだろう」
女は眉を寄せる。
「でも、さっき私をぶった男と、その女がいる家よ? 絶対イヤ」
そう言って、デュポンのライターで火をつける。
煙草の煙が部屋に広がる。健太郎は空き缶を台所から持ってきて女のそばに置いた。
「じゃあホテルにでも泊まれ」
女は軽く首を傾げた。
「お金持ってなーい。全部部屋にある」
ふっと煙を吐く。
「男と遊ぶときに金は持ち歩かないから」
健太郎は静かに息を吐き、本棚の上に置いてある封筒を取り出す。
そこから、無造作に十万円を抜き出し、女に差し出した。
女の表情が変わる。
「……なにこれ?」
健太郎は平然と答える。
「これで安いビジネスホテルにでも泊まれ。連泊なら1週間くらいは泊まれるだろ」
女は、健太郎の顔をじっと見つめる。
「マジで言ってるの?」
無表情のまま、健太郎は頷いた。
しかし、女は突然真顔になり、差し出された金を押し返した。
「金は借りない。返せる当てがないもの」
健太郎は戸惑う。
女が金を受け取らないとは思っていなかった。
「じゃあ、どうするんだ?」
女は軽く口角を上げながら、タバコの煙をゆっくりと吐き出した。
それからゆっくりとストールを外し、それをソファに投げた。
肩を軽く回しながら、健太郎を見つめる。
「ねぇ、あんたさ、もう大人なんだから、わかるでしょ?」
低く、挑発的な声。
健太郎は視線を逸らした。
「なんで助けてくれたの?」
少し間を置いてから、淡々と答える。
「あの状況だったら誰でも助ける」
女は鼻で笑う。
「あんた以外は間に入らなかったけど?」
「僕が先に入ったから、入る必要がなかっただけだろ」
女はじっと健太郎の顔を見つめる。
「……あんた、私のこと気になってるよね?」
「違う」
「嘘つき」
女は一歩、距離を詰めた。
「ライターくれたのも、助けてくれたのも、私に興味があるからでしょ?」
「違う」
「じゃあ、なんで?」
茉莉花。押し付けた。
思いを。悲しみを。忘れられない過去を。
押し付けて忘れようとしただけだ。
健太郎は答えない。答えられない。
「……ほんと、意地悪」
女は息を吐くように笑いながら、視線を落とした。そしてタイミングを測るようにタバコを空き缶に放り込む
「2回誘っても乗ってこなかったのは、本命じゃないと嫌だから?」
「は?」
健太郎は顔を上げる。女の顔。ぼやけて見える。煙が滞留しているから。違う。
茉莉花。違う。
違うのに、動けない。
煙草の匂い。茉莉花の匂い。同じだった。
「そういうことなら、私も考えるよ」
女が薄い煙の向こうで軽く肩をすくめる。
「他の男、全部切るってことにしてもいい」
言葉が静かに落ちる。
「そしたら、もう何の問題もないでしょ?」
「何を……」
言いかけて、次の瞬間、彼女の唇が重なった。
タバコの味。
口の中に広がる苦味。
──茉莉花。
彼女がタバコをくゆらせる姿が完全に脳裏に映る。
煙の向こうで微笑む。
ぼやけた記憶の中で、茉莉花は静かに笑っていた。
何かを言おうとしている。
煙が晴れる。
首を吊った茉莉花が現れる。
行かないで。
顔の潰れた女。知る由もない表情でいう。
やめてくれ。
健太郎は反射的に、女を突き飛ばした。
手に持っていた一万円札が宙に舞い、床にばら撒かれる。
「……なにすんの?」
女が少し驚いた顔で、健太郎を見つめる。。
「……ごめん」
健太郎は、数秒の沈黙の後、低く息を吐いた。動悸。治らない。
「そういう気はないんだ」
女の表情が固まる。
「そういう気はない?」
静かに問い返される。
健太郎は、深呼吸をしてしっかりと彼女を見つめた。
「そういうつもりでここに連れてきたんじゃない。ライターをあげたことも、今日のことも。勘違いさせたならごめん」
女の目が細くなる。
ふっと鼻で笑った。
「……舐めないで」
低く呟くと、ゆっくりと立ち上がる。
健太郎を見下ろしながら、静かに腕を組む。
「別に。少し良い男に見えたから、からかってやろうとしただけよ」
突然、思い出したように皮肉げに笑う。
「ホテル代?」
「あんた、本気で下心なしで、今日こんな面倒ごとに巻き込まれたわけ?」
健太郎は何も言わない。
沈黙が流れる。
女が床にばら撒かれた金を拾い集め、無造作に健太郎に突き返す。
「……バカじゃない?」
健太郎は金を受け取りながら、女の背中を見つめた。
「どこに行くんだ?」
女はドアノブに手をかけたまま、振り返らずに答える。
「ホテルに泊まる」
健太郎は一瞬だけ眉を寄せた。
「金は?」
「バカじゃない? あるに決まってるじゃん」
女は、短く鼻を鳴らす。
「嘘。口実だよ」
それだけ言い残し、女は部屋を出ていった。
ドアが静かに閉まる。
健太郎はしばらくその場に立ち尽くしていた。
ゆっくりと椅子に腰を下ろし、ため息をつく。
手に残った金を、封筒に戻す。
そのとき、ふと視界の端に見覚えのあるものが映る。
ライター
タバコの箱
ストール
女が置き忘れていったもの。
健太郎は、手に取ったライターをしばらく見つめる。
そして、深く息を吐き出した。
指先でライターを転がしながら、目を閉じる。
茉莉花。もう首を吊ってはいない。裸でもない。後ろで髪を括り、メガネをかけた茉莉花がタバコをつけるイメージが浮かぶ。
タバコの香りが、まだ微かに部屋に漂っていた。
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