第5話 痴話喧嘩

その日、店は静かだった。


週の中日だから客足が少なく、カウンターの向こうで佐藤が軽く伸びをする。

酒瓶の並ぶ棚の奥に、テレビのスポーツニュースが流れている。


「もう帰っていいぞ」


不意に、佐藤が声をかける。


「僕、大丈夫です」


淡々と返すと、佐藤が顔をしかめた。


「顔色が悪いぞ。無理しすぎだ、家で寝ろ」


そう言われ、健太郎は少し迷う。


疲れているのは自覚していた。あの女を向かいの店で見てから毎日茉莉花の夢を見るので寝不足になった。自分のせいだった


だからそれを理由に帰るのは、どこか「甘え」だと感じた。


けれど、佐藤の視線は変わらず鋭いままだった。


「……わかりました」

「わかればよし」


エプロンを外し、静かに店を出た。


夜道は冷えていた。


店を出たばかりの熱が、肌を刺す冷気の中で少しずつ消えていく。いつになったら暖かくなるんだと思う


いつもの帰り道を歩く。


その途中で、前方に人影が見えた。


──口論している。


3人。


男1人、女2人。


そのうちの1人に、見覚えがあった。


──コインランドリーの女。


健太郎は歩みを緩める。


もう1人の女は30代前半くらい。


主に彼女の声が、夜の静寂の中で響いた。


「あんたみたいな根無草に敷金も礼金もなしで部屋を貸してやったってのに、旦那を寝取るとはどういうこと!?」


怒鳴りながら、ヒステリックに詰め寄る。


男は「落ち着いてくれ」と宥めようとしているが、30代の女は聞く耳を持たない。


一方で、コインランドリーの女は、どこか退屈そうにその様子を眺めていた。

手にしたタバコの火が、ぼんやりと揺れる。


「旦那じゃなくて、ヒモでしょ?」


彼女は淡々と言った。


「あんたら一緒に住んでるだけで、結婚してないじゃん」


「彼を奪うつもりなの!?」


30代の女が怒鳴る。


コインランドリーの女は、肩をすくめた。


「別に。一回寝ただけだし」


あまりにも無造作な口調。


「今からもう一回寝ようと思ってたけど、付き合う気はないよ。だから安心しなよ」


健太郎は、その場の空気が一瞬で変わるのを感じた。


目の色を変えた男が、一歩前に出る。


「……ふざけんな」


男の声が低くなる。


「俺のことは遊びだったってことか?」


コインランドリーの女は煙を吐きながら、軽く首を傾げた。


「いや、そんなたいそうなもんじゃないよ」


「は?」


「遊びとか、そんなことも考えなかった。もちろん、あんたが気に入ったとか、好きとか、そんな大げさな理由じゃないよ」


「……じゃあどういう理由?」


「大家なんであんたにぞっこんなのかなって、知りたかっただけ。別に顔も良くないし? チャラいだけじゃないかなって。一口味見してみただけ。結局わかんなかったけど」


男の顔色が変わる。


「俺、本気だったんだけど……」


唇の端がわずかに吊り上がる。


「あはっ」


女が、小さく吹き出す。


「本気だったの? マジで? すっごいね、あんた」


あえてらしくもない言葉を使う。嘲るように、馬鹿にするように。


男の目が揺れる。


「お前も、ちょっとは……」


「ちょっとは?」


女は、男の言葉をわざと真似るように繰り返した。


「ちょっとは、何?」


軽く首を傾げる。唇の端に浮かぶ笑みが、ますます残酷なものに変わっていく。


「もしかして、私が少しはあんたに気があると思った? いや、まさかね。だって、そこまでバカじゃないでしょ?」


男の指が微かに震える。


「……じゃあ、なんで今日も誘いに乗ったんだよ?」


コインランドリーの女はタバコの火を落とし、肩をすくめた。


「他の男が捕まらなかったから。たまたま暇だったし、まあ、手頃かなーって」


軽い口調で言う。男の顔色が暗く沈む。


「え、何、そんな深刻な顔しないでよ。別に特別扱いしてほしかったわけじゃないよね?」


男の瞳が揺れた。



次の瞬間、男の手が振り上げられ、乾いた音が夜の静寂を裂いた。


──平手打ち。


コインランドリーの女はバランスを崩し、片膝をつく。タバコが舞って地面に落ちる。


健太郎は一瞬迷い、それから息をついて倒れた女と男の間に入った。


「……お前、誰だ?」


男が健太郎を睨みつけ、低く唸る。


「暴力は良くない」


「こいつの男か?」


敵意のこもった視線。


「違うけど、暴力は良くないだろ」


健太郎は淡々と言った。


「関係ない奴はどっか行け」


男は苛立ったように、肩を小突いてくる。


健太郎は微動だにしない。


「落ち着け」


静かに、しかし確かな声で言う。


だが、男の怒りはさらに増す。


「は? 何様だよ、お前」


声を荒げ、一歩踏み出してくる。


「何様でもない。ただ、暴力はやめろ」


男の拳が握られるのを、健太郎は見た。

仕方ないか。1発軽く殴られて、その後制圧する。


そう決めた瞬間、背後で靴音が響いた。


床に座り込んでいたコインランドリーの女が、無言で立ち上がる音だった。


健太郎の肩に軽く手が置かれる。


そして──


次の瞬間、鋭い拳が男の頬を打ち抜いた。


鈍い音。


男が一瞬、呆然とし、そのまま地面に尻餅をつく。


「……は?」


男の瞳が揺れた。


助けるのはこっちの男だったかもしれないと、健太郎は一瞬思った。


「……うるせえな」


コインランドリーの女は低く吐き捨てる。それから地面に落ちたタバコを拾って口に咥えた。まだ火はついていた。


男が頬を押さえながら睨み返す。


だが、女はまるで気にする様子もなく、淡々と言葉を続ける。殴った手が痛いのか左手で少し抑えた


「つーかさ、あんたも私だけじゃなくて、205号室のキャバ嬢、208号室のソープ嬢、307号の大学生、それから105のシングルマザーにも手出してるでしょ?」


その場が一瞬、凍りつく。


それまで男の激昂の勢いに少し意気消沈していた大家の顔色が変わる。


「は?」


一瞬、信じられないというように男を見つめる。


だが、次の瞬間、感情が爆発した。


「嘘でしょ……? あんた!」


大家が倒れた男の胸ぐらを掴む。


「ち、違う! そいつが適当なこと言ってるだけだって!」


男は必死に否定しようとするが、大家はもう聞く耳を持たない。


ここまでくると暴力の連鎖だ


「ふざけんな!」


怒鳴ると同時に、大家の拳が男の顔を直撃する。


再び鈍い音が響く。


男の鼻血がアスファルトに飛び散った。


通りを歩いていた数人が足を止め、何事かと視線を向ける。


コインランドリーの女は、その様子を見て肩を揺らして笑った。


「やめなよ、こんなとこで大声張り上げて……みっともない」


「あんた!!」


大家の怒鳴り声が響く。

怒りの矛先は、コインランドリーの女に向けられていた。


「部屋から出て行ってもらうからね!!」


けれど、女は気にも留めず、タバコを咥えたまま軽く息を吐いた。


「出てくよ」


淡々とした声。


短くなったタバコを地面に投げて踏み潰す。


「つーかさ、女性専用マンションにヒモ住ませてる時点で、あんたも大概じゃない?」


そう言いながら、ぱんぱんと服の汚れを払った。


「でも、あと4人も出て行かせたほうがいいんじゃない? まあ、私が知ってるだけでこれだけだから、一回全員退去させたほうがスッキリするかもね」


そして皮肉たっぷりに笑う。


大家の女は、男を睨んだまま、顔を真っ赤にして震えていた。


次の瞬間、再び拳を振り上げる。


「落ち着…」


「じゃ、行こっか」


健太郎が大家を止めようと足を動かしかけた瞬間、不意にコインランドリーの女が健太郎の手を取った。


「……は?」


思考が追いつく前に、手を引かれる。


あまりにも自然な動作だったせいで、抵抗するタイミングを逃した。


背後では、男と大家の口論が再び激しくなっていく。


「嘘だろ、お前、本当にそんなに浮気してたの!?」


「違うんだって! あれは……!」


騒ぎが続く中、コインランドリーの女は鼻で笑った。


「あーあ、騒がしい」


「おい」


「ほっときなよ。どうせ散々殴ったあと、大家が絆されて元通り。2時間後にはベッドで抱き合ってるよ」


ただの痴話喧嘩なんだから──と、女は吐き捨てた。


健太郎は、複雑な表情のまま流されていく。


しばらく無言だった。


コインランドリーの女は、健太郎の手を引いたまま淡々と歩く。

細い指先が、無理やりではないけれど、迷いなく健太郎を導いていた。



耐えきれず、健太郎は口を開いた。


「……どこに行くんだ?」


女は振り返りもせず、軽く肩をすくめる。


「あんたの家」


あまりにも当然のような言い方だった。


健太郎の足が止まる。


そのまま、彼女の手を振り払う。


「ふざけるな」


冷静な声で言うと、女も立ち止まり、ようやく正面から向き合った。


女は少しだけ目を細めると、ゆっくりと片腕をまくった。


暗がりの中でもはっきりとわかる、青紫色の腫れ。


「……殴るのに慣れてないから、変な風に手を痛めたみたい」


軽く拳を開閉しながら、淡々とした口調で言う。


健太郎は黙ったまま、それを見つめた。


「救急箱ぐらいあるでしょ?」


挑むような視線。


まるで、試すような目。


健太郎は、深く息を吐く。


拒否する理由は山ほどあった。


けれど、拒否はしなかった。そういう生き方だったからだ


「……ついてこい」


それだけ言い、アパートの方へ歩き出す。


女はその背中をじっと見つめ、ふっと小さく笑った。


「本当、素直でかわいいね、あんた」

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