忘却の名探偵
男が目を覚ましたのは、見知らぬホテルの一室だった。
「……ここは?」
頭が割れるように痛い。記憶がない。自分が誰なのかすら思い出せない。
部屋には古びたスーツと黒い手袋が置かれていた。ポケットには財布と拳銃。財布の中には「橘 遼介(たちばな りょうすけ)」と書かれた免許証が入っている。
「俺の名前……なのか?」
混乱しながら、部屋を出る。ロビーのテレビがニュースを流していた。
「昨夜未明、資産家・藤堂圭一氏が自宅で殺害されました。犯人は拳銃を使用し、犯行後に現場から姿を消した模様です」
橘は無意識にポケットの拳銃を握りしめた。
──まさか、俺が?
記憶を失っている以上、否定はできない。だが、もし本当に自分が犯人なら、なぜ今も逃げ続けているのか? なぜ計画的に動いているような形跡がある?
自分で自分の犯罪を解決するしかない。
***
橘は藤堂邸に忍び込んだ。すでに警察が捜査を始めているが、夜の隙をついて裏口から侵入する。
書斎に入り、デスクを調べる。そこには一台のノートパソコンがあった。電源を入れると、暗号化されたファイルが一つ。
橘は何の疑いもなくパスワードを試す。「Tachibana」と入力すると──
ファイルが開いた。
「……なんで?」
映像ファイルが一つだけ保存されている。再生すると、監視カメラの映像が映し出された。
そこには、昨夜の藤堂と「ある男」の姿があった。
「……お前には消えてもらう」
男は拳銃を構え、藤堂の額に狙いを定める。
銃声。藤堂が崩れ落ちる。
そして、次の瞬間──
男が顔を上げた。
それは、橘 遼介だった。
「…………」
言葉が出ない。自分が、自分を見ている。
──俺が、殺したのか?
だが、それだけでは終わらなかった。映像は続いていた。
藤堂を撃ち終えた橘は、ゆっくりと振り返り、カメラに向かって微笑んだ。
「これを見ている頃には、お前はすべてを忘れているだろうな」
……え?
映像の中の自分が、淡々と語る。
「俺は記憶を消すことにした。罪の意識なんて邪魔なだけだからな」
「だが、万が一のために、こうしてメッセージを残しておく」
「お前は探偵気取りで真実を追うだろうが──」
「その真実が”お前自身”だとは思いもしないだろうな」
映像の中の橘が、まるで他人事のように笑う。
「お前は俺だ。『記憶を失った俺』だ」
全身の血の気が引いた。
「……嘘だ」
いや、違う。これは俺自身が仕組んだこと。
俺は、自分の罪を”知らずに生きるために”記憶を消したのだ。
その事実を、“自分の手で”暴いてしまった。
ふと、背後で物音がした。
振り向くと、警察のライトがこちらを照らしていた。
「橘遼介……いや、本当のお前の名前は分からんが、もう終わりだ」
逃げる手はずも整えていない。いや、そもそも俺は──
「逃げる気なんて、最初からなかったのか?」
それすらも、俺自身にしか分からない。
警官の一人が近づきながら言った。
「……まったく、驚いたよ。殺人犯が自分で証拠を集めて、自分で自分を追い詰めるとはな」
橘はゆっくりと息を吐いた。
「……皮肉な話だな」
しかし──
警官が続けた言葉が、橘の思考を止めた。
「それにしても、お前の仲間が勝手に死んでくれて助かったよ」
「……仲間?」
「お前と一緒に藤堂を殺した共犯者だ。遺体で見つかった」
「……俺の”仲間”が?」
「そうだ。拳銃自殺していたよ。まるで、罪の意識に耐えられなかったみたいにな」
──違う。
橘の記憶が、最後のピースを埋めるように蘇る。
思い出した。
俺は、確かに藤堂を殺した。だが、俺は一人じゃなかった。
共犯者がいた。
俺の記憶を消したのは……俺じゃない。
俺が「忘れる」ように仕向けたのは……そいつだった。
そしてそいつは、俺の記憶が戻る前に、勝手に死んだ。
つまり──
真相を知るのは、俺だけになった。
橘はゆっくりと笑った。
「……そうか。そいつは運が悪かったな」
警官たちは、怪訝そうに橘を睨んだ。
「何がおかしい?」
「いや、何でもないさ。ただ──」
橘は、自分を締め上げる警官の手を見下ろしながら、低く囁いた。
「俺は本当に、“すべて”を思い出したのかな?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます