1ピリオド ~決意の先に①~
亮多side
少し遅く起きた木曜の朝。
亮多は食パンをくわえたまま慌ただしく家を飛び出した。外の空気はひんやりと冷たく、まだ眠たいまぶたをこすりながら歩くその足取りに、わずかに心地よさが混じる。
――けれど、いつもと変わらないはずの朝が、なぜか鉛のように重かった。
大学までは電車を三本乗り継ぎ、降りてからは坂を十五分歩く。
何百回と往復したはずの通学路も、今日だけはどこか違って見えた。曇天の下、街の色も心の中も同じようにグレーに沈んでいる。
イヤホンを耳に差し込み、流れる曲に身を預ける。
周囲の雑音が遠のき、代わりに静かな沈黙だけが広がっていく。
(……このままでいいのかな)
何を目指しているのか。どこへ向かっているのか。
自分でもよく分からないまま、流れに任せて歩いているだけのような気がした。その思いが胸をわずかに締めつける。
だが、その考えを深追いする気力も湧かない。
――もう少しだけ、立ち止まっていてもいい。
そう自分に言い聞かせ、坂を登り切る。昨日の雨の名残がアスファルトに光を残していた。
大学のキャンパスに着き、文学部棟へ入る。
教室のドアを開けると、すでに数人が席についていた。誰とも視線を合わせず、一番後ろに腰を下ろす。気づけば、そこが一番落ち着く場所になっていた。
筆箱を机に置き、向きを無意識に整える。隣席から微かな談笑が聞こえてくるが、亮多は窓の外に視線を向けた。曇り空の端だけ少し明るい。
(……木曜のこの授業、あと何回だっけ)
毎週の繰り返し。変わらない風景。
大学に入ってから挑戦したものは何もなく、ただ日々が流れていく。それに薄く焦りを覚えながらも、何かを始める気力もなかった。
そのとき、不意に声がかかった。
「中谷くん……だよね?」
横の列の女子学生が、軽く首を傾げて覗き込んでくる。
先週の社会調査法のグループワークで一緒だったことを思い出し、亮多は小さく頷いた。
「あ……うん。社会調査法で、一緒だったよね」
「そうそう。よろしくね」
その微笑みで、教室の空気がわずかに柔らかくなる。
しかし彼女はすぐに自分の席に戻り、その一瞬の温度だけが胸に残った。
ノートを開いたまま、亮多の思考はふと別の場所へ飛んだ。
――昨日の夕方。体育館。
泉二乃の、あの少し照れた笑み。
そして、中学校時代の友人たちと過ごした、昼休みの光景が脳裏に蘇る。
* * *
中学生side
中学校二年の教室。窓の外からは、グラウンドでサッカーをする男子の声が響く。昼休みの空気はのんびりとしていた。
「はあ〜……今日の数学、なんであんなに問題多いの……」
窓際で和田五月が机に突っ伏した。シャーペンと消しゴムが机の端で危うく踏みとどまる。
「ん。途中で終わると思ったのに、終わらなかったね」
上星かずみがくすっと笑いながら、パンを半分に割って羽沢三久へ差し出す。
「みく、食べる?」
「ありがとう、かずみ」
三久が受け取ったパンにかじりつく。机には開いたままの数学ノートがあるが、もう彼女の意識はそこにはなかった。
「このあと体育って、体育館だっけ?」
「うん。バレーのテスト。動ける?」
「バスケよりはマシ」
三久の言葉に、かずみが小さく笑う。
ふと三久の視線の先、泉二乃が振り返る。
「何? 見てた?」
「……ノート、きれいだなって」
「あ、これ? 家でやっただけだよ」
少し照れたように笑う二乃。机の端には消しゴムのカスが丸められていて、どこか彼女らしかった。
「二乃ちゃん、家でちゃんと勉強してるの、えらい〜」
五月が顔を上げると、二乃はふにゃっと笑った。
「勉強はしてるけど……ちゃんとしてるかはわかんないよ。ほら、亮君もさ――」
その名前が出た瞬間、三久の眉がわずかに動いた。
かずみは気づいたのか、空気を切り替えるように声を弾ませる。
「でも、私たち、仲いいよねー。出会ってそんなに経ってないのに」
誰がリーダーというわけでもない。それでも自然と四人の机が寄っていた。
* * *
◆亮多side(講義後)
その日の講義が終わり、亮多は誰とも話すことなく校舎を出た。
イヤホンをつけるのも面倒で、今日は音楽すら聴かない。冷たい風が頬をかすめ、夕陽が雲の切れ間から差し込む。
(あの人……名前、なんだっけ)
午前中、話しかけてきた女子学生の顔が浮かぶ。
明るめの髪、少し人懐っこい笑顔。グループワークで、黙っている自分に何度か助け舟を出してくれた。
(大学生活にも……何かあっていいのかもしれない)
そう思った瞬間、体育館で見た四人の姿がよみがえる。
五月の力強いドリブル。
かずみの正確なボール運び。
二乃の美しいシュート。
三久の鋭いドライブ――。
そして、あの空間に満ちていた熱。
(……明日だ。行こう。練習に)
胸の奥に、小さな灯がともる。
改札を抜けて電車に乗り込み、スマートフォンを取り出す。
スケジュールアプリに――
【金曜:バスケ部練習】
と小さく書き込む。
ただのメモ。それでも、亮多にとっては確かな「一歩」だった。
* * *
◆中学生side(木曜放課後)
最後の授業が終わり、教室に緩やかな空気が流れる。
「木曜って……一番うれしい日かも」
かずみが机に身体を倒しながら言う。
「金曜に備えて、休める日ってこと?」
五月が笑って問い返すと、かずみは大きく頷いた。
「そう……。金曜、体育とダンスでしんどい」
三久は教科書をしまいながら、小さく顔を上げた。
「……なら今日は、ちゃんと足を休ませたほうがいいと思う」
「え、ちゃんとって?」
「寄り道しないで帰るとか。ストレッチして、早く寝るとか」
二乃が苦笑混じりにぼそっと言う。
「真面目モード入った」
「真面目じゃない。効率的なだけ」
そのやりとりに、五月がふわりと笑う。
「明日から亮多さんが見てくれるんだもんね……ちょっと特別な感じする」
「だね。三久ちゃんのメニューも好きだけど、新しいのも楽しみ」
四人の空気がやわらかくまとまる。
「……ねえ、亮多さんって練習ない日、何してるんだろ」
かずみがぽつりとつぶやき、三久が視線をそらす。
「大学生って暇そうで忙しそう……よく分かんないけど」
「亮君は……最近は知らないけど、高一の頃は外でドリブル練習してたよ。あと、竹刀も振ってた。武道が剣道だったから」
「えー、まじめすぎでしょ」
窓の向こうで、夕焼けが校舎を染め始めていた。
かずみが立ち上がって声をかける。
「みく、今日も一緒に帰る?」
「……どっちでもいい」
「じゃ、帰ろ」
「うん」
鞄を肩にかける音が重なり、木曜日の放課後が静かに流れていく。
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