1ピリオド ~決意の先に②~

 翌日。亮多はいつものように、一人で講義を受けていた。

 大学生活には少しずつ慣れたが、周囲と積極的に関わろうという気にはなれない。

 ――それでも、昨日の決意が足取りをわずかに軽くしていた。


 授業が終わると、教室を足早に後にする。


(……まだ、時間あるな)


 時計は午後3時20分。

 駅前のカフェで遅めの昼食をとりながら、鞄からクリアファイルを取り出す。中には、昨晩遅くまで作った練習メニューのメモ。相手は経験者。個々の技術をどうチームとして繋げるか。かつて使っていたバスケノートを広げながら、亮多は思考を巡らせた。


 15時50分。カフェを出る。


 傾き始めた陽を背に住宅街を抜け、鶴賀中の正門をくぐったとき、ちょうど午後4時。

 体育館のほうからボールが弾む音が聞こえる。その音が、胸の奥に小さな熱を灯した。


(今日から、ちゃんとやるか)


 体育館の扉を開けると、昨日と同じように四人は黙々と個人練習に没頭していた。


 三久は黙々とレイアップ。

 二乃はリングを見据えてフォームを確認する。

 五月とかずみは、吸い付くようにボールを扱いながらドリブル練習。


 誰も言葉を発さず、視線すら交わらない。

 だが、動きには迷いがなく、基礎技術の高さがはっきりとわかった。


(上手い。……けど、誰かとやる感覚がない)


 体育館の隅から様子を見守りながら、亮多は一度取り出したメモをしまった。


(……まだ、見極める必要がるな)


 そのとき、かずみが気づいてボールを止める。


「りょうたさん、今日は何やるの?」


 亮多は一歩前へ出る。


「今日は対人中心。まず2on2をやろう。三久と二乃、かずみと五月。5分を3本」


 一瞬、静寂。

 だが誰も反論せず、淡々とポジションに散っていく。

 その様子に、亮多は改めて彼女たちの個人主義を感じた。


 1本目が自然と始まる。


 三久がドリブルでかずみに迫る。視線はかずみだけ。

 45度にいる二乃が軽く手を出すが――三久はまったく見ていない。


(……こないな)


 二乃はゆっくり手を下ろす。


 三久はテンポを変え、鋭く右へドライブ。

 かずみがわずかに反応が遅れた瞬間――


 バッ。


 かずみの手が軌道を読み、正確にカット。跳ねたボールを五月が拾う。


「かずみちゃん!」


 五月が走り出し、かずみも無言で続く。

 背後で、三久が小さく舌打ちした。二乃はそれを黙って見つめる。


(……合わせようとしていない。最初から一緒にやる気がない)


 亮多はメモを取り出す。

 課題をひとつ、書き込む。


 次はかずみ&五月のオフェンス。

 かずみが中央へ持ち上がり、ちらりと左を見る。五月は45度――だが手を上げず、じっと構えるだけ。


(……出さない)


 次の瞬間、かずみがギアを上げ右へ。

 三久が遅れた。だが――


 インサイドで構えた二乃が道を塞ぐ。


 かずみがわずかに減速し、体を揺らしてフェイク。

 そして、右手から放たれたワンバウンドパスが、五月の足元へぴたり。


 五月が迷いなくジャンプシュート。

 綺麗な弧を描き、ネットが揺れる。


「ナイス、かずみちゃん」


 五月が微笑むと、かずみはほんの一瞬だけ頷いた。


(……この二人は合わせる意識がある。でも、言葉がない)


 さらに線を引く。


(この子たち、バスケはできる。けど、チームになってない)


 2本目、3本目も状況は同じだった。

 正確で、無駄がない。

 だが声がない。視線が交わらない。


 響くのはボールの音とシューズの摩擦音だけ。


 3本目が終わると、亮多は無言でボールを拾った。

 四人は淡々と呼吸を整え、片付けを始める。


(……さて。どうする)


 メモを見返す。技術は十分。信頼はゼロ。


(……声をかけてみるか)


 一瞬迷うが、首を振る。


(まだ何かを求める段階じゃない)


「みんな、ちょっと休憩しよう」


 その声に、全員がようやくベンチへ向かった。


 休憩後。


「次はパス練習。フィニッシュまで持っていく。ただし一つだけルールをつける」


 四人の瞳が向く。


「パスを出す相手は、俺が名前を呼んだ人だけ。違えばやり直し。ちゃんとタイミング見て」


 全員が小さく頷く。


 最初のボールは、かずみ。


「かずみ、五月!」


 即座にパス。五月が戸惑いながらも動き出す。


「五月、三久!」


 三久は逡巡しながらボールを放る――が、二乃の少し後ろへずれる。

 二乃が拾ってレイアップ。しかし外れる。


「惜しい! もう一回!」


 何度か繰り返すうち、わずかに流れが生まれてきた。

 名前を聞き、相手を見て、タイミングを合わせる――それだけが、今はまだ不器用だ。


(これが自然になれば……)


 やがてパスは、かずみ→五月→三久→二乃と繋がる。


「二乃、シュート!」


 二乃が踏み込み、しなやかなレイアップ。

 ボールが吸い込まれ、ネットがふわり。


 初めて四人で作った得点だった。


 ほんの少しだけ、空気が変わる。

 張りつめていた何かが、解けたように。


「今の、すごくよかった。全員、相手を見てた」


 亮多が声をかけると、五月が弾んだ声を出す。


「二乃ちゃん、ナイスー!」


 二乃は赤くなり、小さく頷く。

 三久はタオルで顔をぬぐい、視線を逸らした。


 しばらく黙っていた三久が、ふいに顔を上げる。


「……もう一本だけ、やらせてほしい」


 その言葉に、全員が驚いた。

 三久が自分から言ったのは初めてだ。


「いいよ。頭からいこう」


 かずみにボール。視線は自然と三久へ。


 かずみが迷わずパス。

 三久が受け、視線を上げる。左に五月、右に二乃。


「……二乃」


 小さな声が響く。

 初めて呼んだ名前。


 次の瞬間、三久のパスは――少し強く、少しズレて、指先をすり抜けた。


「──ごめんっ!」


 二乃が追いながら叫ぶが、三久は短く返すだけ。


「……いい」


 ボールを拾いに行く背中は、何かを振り切るようだった。


(まだぎこちない。でも、今のは……確かな一歩だ)


 亮多は胸の奥で小さくつぶやく。


「……少しずつでいい。焦るな」


 その声は誰にも届かなかったが、体育館の温度は確かに変わり始めていた。


 やがて練習が終わり、亮多が声をかける。


「……今日はここまで」


 かずみは笑顔で汗を拭く。


「ありがと、りょうたさん」


 五月は息を吐きながら、二乃の肩を軽く抱く。


「二乃ちゃん、シュートきれいだったねー」


「そ、そんな……たまたまだし」


 そう言う二乃は、隠しきれない笑みを浮かべていた。


 一方で、三久は無言のまま荷物を整理していた。


 亮多は四人を見渡し、静かに言う。


「最後のプレー、すごくよかったよ。少しずつ、形になってきてる。焦らなくていい。大事なのは続けることだ」


 誰も返事はしなかったが、かずみと五月はしっかり頷いた。


 だが――三久だけが、ぽつりと落とす。


「……でも、間に合わなかったら意味ないでしょ」


 空気が一瞬止まる。


「三久……?」


 二乃が声をかけるが、三久は背を向ける。


「また明日。……私、先に帰るね」


 その小さな背中を、亮多は黙って見つめた。


 焦り。

 だが、その根っこはまだ見えていない。


「……亮多さん」


 心配げなかずみが声をかける。


「三久、最近……ちょっとピリピリしてるよね。前からだけど……もっと、かな」


 亮多は短く答える。


「そう、なのか」


「うん。何かあるのかな……」


 その問いには、答えられなかった。


 けれど亮多の中には、確かな感触があった。


 ――繋がり始めている。

 だが、ほどけるのも一瞬。


 それでも間に合うと信じたい。

 彼女たちに灯っているものを。

 ボールのように、手から手へ渡っていく想いを。


「じゃあ、また明日」


 短く告げて、亮多は体育館を後にした。

 背後で扉が閉まる音が、静かに響いた。

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