第2話

 正義は、自動車部品を作る会社に勤めており、旋盤、フライス盤を使って、油まみれの仕事を黙々と熟す。そして、夕方5時になると真っ直ぐに帰宅する。たまに同僚の足立が

「山口、一杯付き合わんか」

すると、大岡が

「よせよせ、どうせ断るに決まってるんや。今までいくら誘っても、一回も付き合ったことがないんやから」

と、正義にわざと、聞こえるように言った声を、背に受けたにも関わらず無視をして。


 正義の家は、築三十年はゆうに越えているアパートの二階で、一階、二階と各五軒ずつあるうちの階段を上がって二軒目だ。

 その日、正義が仕事を終えて、アパートの階段を上がってゆくと、従兄妹のひとみが、正義の住まいの前でこちらを向いて立っていた。たぶん階段を上がる足音で、ひとみは気付いたんだろう。正義は、ひとみの顔を見るなり

「どうした?」

 ひとみは、今にも泣き出しそう顔をして、正義を見ている。真っ青なワンピースに、大きな赤いカバンを肩から下げて。髪は幼い頃からショートカットのままで、おでこは広く瞳は大きく一重瞼で鼻は低く、とても美人とはいえないが、笑顔がとても可愛いと、正義はずっと以前から思っている。

「どうした?」

と、正義がもう一度聞くと、ひとみは急に泣き出して

「彼は、私と結婚すると言ったのに、奥さんと別れてなかったの。私には離婚したといってたくせに、まだ別れてなかったの」

 ひとみの彼というのは、ひとみの会社の上司だった男だ。

(よくある話しやな)

と、正義は思ったが

「まあ、うちに入れや。ゆっくり話しを聞くから」

正義は、家の鍵を開けてひとみを導き入れて

「汚い部屋やけど」

 ひとみは、部屋に入って辺りを見廻してみた。五年程前に、遊びに来た時以来だ。靴を四足も置いたらいっぱいになりそうな玄関には、正義が毎朝走るためのランニングシューズがあるだけで

「おっと、忘れたらあかん」

と、正義は今朝、ランニングシューズに詰め込んでいた新聞紙を抜き取った。それを見ていたひとみは「何してるの」

「これか」

と、正義はランニングシューズから、新聞紙を抜き取りながら

「見てみろ。新聞紙がよく濡れてるやろ。今朝、雨の中を走ったんで、靴がびしょびしょやったから。靴の中に新聞紙を突っ込んでたら、水分をたくさん吸い取ってくれるんや。これで明日も走れるやろ」

 ひとみは、あきれながら改めて部屋の中を見廻してみると、壁はもう煤けたどす黒い色で、小さな玄関の横に、こじんまりとした台所があって、ポットと電子レンジと、その上にどんぶりと箸が一膳ずつ並べてある。その横は六畳一間だけで、コタツとテレビと、小さな冷蔵庫が。そして窓際に、今朝走ったヤッケとジャージに、シャツやパンツの下着も干してある。正義は急いで下着だけを手に取って、押入れに突っ込みながら

「それで、家を出たのか」

「そう」

と、ひとみは涙で顔をクシャクシャにして言った。

「まあ、涙を拭けや。可愛い顔が、台無しやぞ」

と、ひとみに正義はポケットから取り出したハンカチを渡すと、ひとみは正義のくれたハンカチを見てから涙を拭いて

「どうして俺のとこへ?」

「私たち、親の反対を押し切って駆け落ちしたのよ。今更、家へ帰れないじゃないの」

「それで俺のとこへか」

「そうよ」

「そうよと言っても、こんな小さな家じゃ。しかも俺は独身だぜ」

「お兄ちゃんしか、頼れるひとがいないんだもん」

正義は、しばらく考えて

「まあ、今日のところは泊まって行けや」

「ありがとう」

「そうと決まれば早速やけど、ここは風呂がないから、銭湯へでも行くか」

「うん」

 ひとみが、カバンの中から下着を取り出しているのを見て、正義は目のやり場に困り、押入れから自分の下着を出してからテレビを点けて、その場を取り作った。一方、ひとみはカバンから下着を取り出すと

「お兄ちゃん、着替えたいんだけど」

「えっ」

「お風呂へ行くのに、この格好じゃ」

「そっ、そうやな。なら俺、トイレに入ってるから、着替えたら声掛けてくれ」

「うん」

正義はトイレに入って

(自分の家やのに、何でこんなことをしなけりゃならんのや)

と、思ってしまった。

しばらくして

「お兄ちゃん、お待たせ」

というひとみの声で、正義がトイレから出てみると、ひとみはこれも持ってきたのか、グレーのジャージの上下を着ている。

「それじゃあ、銭湯に行こか」

と、タオルをひとみに渡して

「よく考えたら、シャンプーとかリンスは持ってるんか。男物しかないけど」

「そこは抜け目ないわよ。家から大概の物は持ってきたもん」

と、ひとみは片手に、何処かのスポーツ店のビニール袋を持っている。

(これに、下着とか入ってるんやな。それで、あれだけの大きなカバンか。ひとみは昔からしっかりしてたけど、ほんとうにあきれてしまうわ)

「まさか、パジャマも」

「勿論よ」

「おみそれしました」

 ひとみは、ビニール袋からサンダルを玄関に置いて履きながら

「銭湯なんて、入ったことないから、なんかワクワクするわ」

と、嬉しそうに話すのを見て、正義は

(この先、いったいどうなるんやろう)

と、思ったけれど。

(一日だけや。うん一日だけ)

と、思い直し

(俺を頼ってきたんやからなぁ)



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