第32話 あなたへ

 落盤と雪崩の後。岳の提案に、円堂はニヤリと笑みを浮かべると。


「俺がそんなこと、受け入れると思うか?」


「先輩?」


「俺の子ども達に気を使ったんだろうが、それはお前も同じだろ? ふたりとも大事な奴が待ってる…。帰ってこそ、一人前の登山家だ」


「でも…」


「岳。お前がそんな弱気な奴だとは思わなかったな。──いや。どっちかと言えば、慎重派だったか…。それで上手く行ってきたんだろうが、俺は積極的な方向で上手く行ってきた。俺の勘は、ここは行けと言ってる」


 言いながら、残ったテントの中からザイルを取り出し、ザックを背負うとこちらに向かう準備をし始める。円堂の今いる側に渡れば、その先は安全だった。円堂は岳をこちら側へ渡らせる気だ。


「こっちに支点をとる。大丈夫だ。お前と一緒に山を下りる」


「先輩! それは危険です! 今だって雪崩が収まらない…」


 頭上からパラパラと雪の欠片が落ちてくるが。


「こうして言いあっているうちにも、気温は上がって雪は溶けていく。さっさとそっちに行くぞ」


「先輩!」


「いいから腹を決めろ。俺はもう決めた」


 そうして、硬い壁面へスノーバーを打ち込み支点をとると、そこへカラビナやスリング、ザイルを通し、自身のハーネスへもつなげていく。

 そうしてすっかり準備が整うと、手に持ったピッケルと、履いているアイゼンを効かせてこちらに渡ってきた。一歩ずつ、確実に進んでくる。

 岳は息を飲んで見守った。


「……」


 それは確かな動作で、まったく迷いがなかった。

 上に乗った軽い雪をはねのけ、下のしっかり凍り付いた雪へピッケルを叩きつけ差し込む。それからアイゼンを履いた足を移動させ。

 気が付けばこちらに渡ってきていた。その度に落ちて行く雪が怖くもあったが。


「な? 上手く行ったろ?」


 渡り終えた円堂はニッと笑みを浮かべて見せる。サングラス越しに得意げな表情をしているのが分かった。


「降参です…」


 岳は苦笑して肩をすくめる。そうして、二人でロープを結び合い、今度はこちら側に支点をとると、


「岳、行けるか?」


「もちろん」


 先に岳が向こうへ移動する。すでに心は決めていた。ここまできて、迷っている場合ではない。

 円堂がたどった道を同じようにアイゼンとピッケルを効かせながら渡っていく。岳が無事に渡り終えると次は円堂の番だ。

 岳が渡る時、雪が緩み始めているのがわかった。日も高くなってきている。少しそれが気にはなったのだが。


「先輩、少し緩んできてます。気を付けて下さい」


 岳はもしもに備え、しっかりとザイルを掴み確保する。


「おう」


 そう答えて、円堂が行きと同じように、アイゼンを効かそうと雪を蹴り上げた矢先、ズッと足をかけた雪面が滑った。


「!」


「先輩──」


 そのまま徐々に周囲に亀裂が入り、力のかかった分の雪がずるずると滑り落ちようとする。

 それはスローモーションのようでもあり。岳はぐっとザイルにテンションをかけたが、それでは持ちこたえられなかった。


「くっ──!」


 そのまま、ザイルごと身体を持って行かれそうになる。支点を取った箇所が外れ掛かっていた。

 このままでは──そう思い、ザイルを離しピッケルを雪面に全体重をかけ叩きつけると同時に足を跳ね上げた。ザイルは円堂と繋がっている。手を離してもバラバラになることはない。

 円堂も静止の体勢を取っていた。が、急斜面の滑落は簡単に止まる筈もなく。


 大和──。


 心の中でその名を呼ぶ。

 そうして、崩れる雪と共に、そのまま、円堂共々雪に埋まる谷を滑り落ちていった。


+++


 どれ程の時間が経ったのか。

 ようやく長い滑落が停止した。落ちた場所はかなり上方に見える。

 岳は自身の状態を確認した。大きな怪我はない。多少の打ち身はあるが、手足は動く。奇跡的に滑り落ちた斜面に大きな岩など障害物がなかった為だろう。それに、一緒に滑り落ちた雪がいいクッションになったらしい。

 サングラスは飛ばされたが、手にはピッケルもあり、足のアイゼンも脱げてはいなかった。背負っていたザックも飛ばされてはいない。ラッキーとしか言いようがなかった。


 円堂は?


「先輩! どこにいますか!」


 止まった斜面は先ほどより急ではない。腰のハーネスに取り付けたザイルを引いて居場所を探る。が、途中でスルリと手元に戻って来たそれは、切れてもう一方の主を無くしていた。


 先輩…。


 岳はもう一度、声を張り上げた。


「先輩! 聞こえますか? いたら返事して下さい! 先輩!」

 

 意識を失っていれば、それも無理だが──。


 と、雪に覆われた岩陰に、声を聞いた気がした。良く見れば僅かに着ていた赤いジャケットが見えている。

 積もった雪をラッセルしながら、そこへ向かった。雪は深く腰近くまで埋まる。一歩進むのもやっとだ。

 どうにかして近くまで行くと、雪に埋もれた円堂の身体一部を見つける。急いで雪を払うと、ようやく顔を確認することが出来た。

 サングラスは飛ばされ、額に血が滲んでいる。


「先輩、怪我は? 大丈夫ですか?」


「…っ、少し、背中を、打った…」


 息があるのにホッとする。

 円堂は雪の上に伏せていた身体をゆっくり起こそうとしたが、途中、痛みが走ったのかビクリと肩を揺らし大きく咳き込む。口の端から血が滲んだ。岳は手を貸す。


「先輩、痛みは背中だけですか?」


 僅かにうなづく。


「止まりかけに、岩に当たった…。それほど、強くは、なかったけどな…」


 息も絶えだえだ。日差しは昼過ぎを示している。地形を見て何とか記憶の糸を辿った。覚えている範囲で、ここは先に張ったロープの箇所より谷側の位置。


 ベースキャンプまで戻るには、来た時より数時間、多目にかかるだろう。円堂の状態から、上部へ再び登り返すのは無理だった。

 岳は円堂を振り返ると、


「少し休んだ後、下山しましょう。俺が担ぎます」


 すると円堂が痛みに顔を歪めながらも笑った。


「無理だ…。俺を何キロだと思ってる? 俺をここへ置いて、お前は下山しろ」


 しかし、岳は首を振ると。


「俺はあなたの後を継いだんですよ? 見くびらないで下さい」


「岳…。無理だ。お前は先に行け」


「諦めが悪いのも、引き継ぎました」


 そう言うと、円堂のザックを背中から外し、中から必要なものだけ取り出す。食料と保温ボトル、ピッケル。その他、今は必要ないアイテムは全て置いていく。

 そうして、全て準備を整えてから、もう一度、円堂の怪我の具合を確認した。


「痛むのは背中だけですか? 首や手足は?」


 首や背中を軽く起こし、身体の他の具合も見る。


「ああ、背中だけだ。動かせない程じゃない。だが岳、俺はいい。覚悟はしている…」


「なに格好つけているんですか。帰ってこそ、でしょう? ここからは傾斜も緩い。降りきった先のクレバスさえ気をつければ行けます」


「お前も…、言うようになったな」


「少し水分を取ってださい。それから行きましょう」


 岳は保温ボトルの口を開け、円堂に手渡す。中には温かい紅茶が入っている。

 岩によりかかっていた円堂は、手を伸ばしそれを受け取り一口含むと、ボトルを返しながら視線を伏せ苦笑いを浮かべた。


「わかった。お前に任せる…。けど、無理だとわかったら、遠慮せず置いて行け。いいな?」


「分かりました。さあ、少し身体を起こしますよ? 少しの痛みは我慢して下さい」


 そうして、保温ボトルをザックにしまうと、代わりにザイルを取り出し、簡易の背負子を作る様にして、円堂を背負った。

 軽くしたとはいえ、ザック分の重みもある。背中から腰、足まで体全体にずしりとかなりの重量がかかったが、歯を食いしばり立ち上がった。


「くっ…!」


 滑落したお陰で、随分高度も下がり、傾斜もなだらかになっている。途中口を開くだろう、雪に隠れたクレパスにさえ気を付ければ、ピッケルとアイゼンで下山は可能だった。


 あとは、気力だけだ。


 ふと、笑っている大和が目の前に現れた。


 必ず、帰るから。待っていてくれ。


 午後から天候が崩れる予報を思い、岳はそれでも慌てはせず、確実にゆっくりと一歩踏み出した。


+++


 その夜。夢を見た。

 何処かわからない暗闇の中。揺れる視界。ぎゅうぎゅうと押しつぶされそうになっている自分自身。


 息苦しい。早く外に出たい。


 けれど、当分出られないことを知っている。

 と、突然、眩しい光が差し込んできた。すっと刺すような冷たい空気。


 外だ。


 そう思い、ホッとしたのもつかの間、何かが自身の傍に押し込められて、さらにぎゅうぎゅうになる。きっと、次、外に出た時。自分は形を成していないだろうと思った。


 それでも、いいか。


 そう思えたのは、一瞬、岳の顔が見えたからだ。ひどく真剣な顔をした岳。俺のことなど気付きもせず、さらに何かを詰め込んで、周囲はまた暗闇と息苦しさに覆われた。


 なんだ。岳。生きているじゃないか。


 そう思った所で、目が覚めた。

 そして、目覚めてしまうと、あっという間に今見たばかりの夢を忘れてしまう。


 なんだろう。覚えていない…。


 けれど、とてもホッとしたのだけは確かだ。きっと、岳のでてくる夢だったのだろうと思う。

 カーテンの向こうはうっすらと明るくなり、夜明けを示していた。

 

 今日が始まる。


 そして、その一日を終える時、すべてが決まるのだ。


 けど、どんな結果になろうと、俺は岳が生きているって信じる──。


 起き上がったベットの上で、空になった傍らに目を向ける。


 岳はきっと帰ってくる。


 そっとそこへ手を這わせると、唇を噛みしめた。


「帰ってくる…」


 滲みそうになった涙を堪え、俺は起きた。一日の始まりだ。


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