第31話 夜空

「ああー、すっきりしたぁ! …だろ?」


 そう言って、藤の運転する車の後部座席に、隣り合って座った壱輝を見返す。


「…ありがとう」


 壱輝は小さな声で返した。


「てか。お前に蹴らせれば良かったけどさ。あんな奴、触りたくもないだろ? あいつのしてきたこと考えれば、もっとこう、けちょんけちょんに、顔なんかぱんぱんに膨れ上がるくらいにしてやったっていいくらいだった。──けど、後は警察に任せよう。それに、今後、二度と壱輝達には手出してこないから。安心しろよ?」


「どう…やったんだ?」


「いや。知り合いの人に相談しただけだ。たまに一緒に散歩する友だちなんだけど、何かあればいつでも相談に乗るって言われててさ。こういう関係には強い人だから、どうしたらいいかって…」


 俺はとある散歩仲間を思い出す。

 彼は磯谷と言い、八十近いがいまだにぴんしゃんとし、口で言う割には、そちらの世界にいまだ力をもつ人物で。会長、と呼ばれているが、俺は下の名前の『鴻三こうぞうさん』としか呼んだことがない。

 人のいいお祖父さんとしか見えないが、こちらの世界で何かあった時は、その鴻三に相談するのが手っ取り早かった。

 代わりにデートを申し込まれるのは致し方ないことだが。そのデートと称するお出かけも、すべて鴻三のおごりで、俺の希望を聞いて貰えるのだから、お礼になっているのかは疑問だが、鴻三がそれでいいというのだから仕方ない。

 ちなみに、このデートは岳も公認だ。流石の岳も彼には逆らえず。それでも、夜とアルコールだけはだめだと念を押されていた。


 いったい、何を警戒しているんだ。岳。


「…それってさ…。いや、聞かない…」


「ま、万事うまくいけば良しとしないとな? 壱輝、怖かったろ? ごめんな。すぐに行けなくて。藤がどうやったって引かないからさ」


 すると、藤が。


「大和を一人では行かせない」


「って、一点張りでさ。俺、先に着いてたのに、行くなら腹を切るとか訳の分かんねーこと電話で言うからさ。遅くなった。ごめんな?」


 肩をすくませ、壱輝の顔を覗き込み頭をポンと軽く叩くと、


「な…。いつかみたいに、ぎゅってして欲しい…」


 そう言って、こちらを見つめて来る。


「へ? それって──」


「俺からは手は出さない。──ならいいだろ?」


「って、壱輝、それ嫌なんじゃ──」


「…いい」


「いいぞー。俺でよければぎゅうくらい。それで遅れは帳消しか?」


「多分…」


「多分かよ。仕方ねぇ。取り合えずハグな? ──無事で良かった」


 そう言って、そっと腕を回し改めて抱きしめた。さっきは遠慮して出来なかったのだ。

 口では平気そうなそぶりを見せていても、身体は微かに震えていて。すると、壱輝が肩口で。


「…俺のせいで、飛行機。乗れなかっただろ?」


「気にすんな。俺はこっちで壱輝や初奈、亜貴と一緒に待つ。な? それだけのことだ」


 俺はさらに抱き寄せると、


「壱輝に何かあったらさ。後悔してもしきれなかったって。もう大丈夫だからな?」


「…ありがとう」


 涙声になったのを、俺は気付かないふりをした。

 

+++


 夜九時過ぎ、壱輝、藤と共に家に帰ってきた。

 玄関先に取り付けられている、淡い光を放つ丸い裸電球にほっと息をつく。警察からの事情聴取は後日となる。真琴が帰ってきてからだ。


「大和も壱輝も、無事で良かった…」


 玄関先に出迎えに出た亜貴が、ほっとした顔を見せた。すでに倖江は帰っていて家には亜貴と初奈だけだ。


「おかえり」


 初奈も出迎えに来る。


「ただいま。心配しただろ?」


「うん…。でも、大和お兄ちゃんがいるから大丈夫だって、亜貴ちゃんが…」


 するとそれを受けた亜貴が。


「だって、大和はその辺の奴に負けるはずないだろ? そこは大丈夫だって安心してた」


 俺はニッと笑むと。


「分かってんな。──初奈」


 呼ばれた初奈は神妙な面持ちで見上げてくる。俺は笑顔を向けると。


「壱輝、ちょっと色々あってな。悪い奴らに絡まれたんだ。でも、もう大丈夫。それも無事解決した。明日からは送迎なしで登校できるぞ?」


「ほんと?」


「ああ。本当だ。全部、壱輝が頑張ったおかげだ。しばらく壱輝には面倒かけるし、嫌な思いもさせると思うけどな」


 真琴が帰って来れば、早々に警察に聴取されたり、裁判の為に出向いたりしなければならないだろう。そう言って壱輝を振り返るが、壱輝は首を振って、


「気にしない。あいつが裁かれるならなんだってする…」


 俺はぐいと壱輝の肩を引き寄せ、頭を寄せた。


「ありがとうな」


 壱輝は照れた様に俯いて見せる。もう、触れても大丈夫なのだろう。

 けれど、もう一つの心配事は解決を見せていない。円堂と岳の安否だ。明日、真琴が現地に到着予定する。


 それから詳しい事がわかるはず──。


 皆にとって、不安な日々が続く。

 壱輝も亜貴も。その他、岳や円堂に関わった全ての人間にとって。唯一、初奈には知らせていないが。

 皆がその無事を願っている。

 その後、雑事を終えた俺は、隣の棟にある部屋に戻るとテラスに出た。

 外の空気はシンと冷え切っている。庭木の広葉樹の葉もすっかり落ちていた。来月はもう冬。十二月だ。俺は空を見上げる。


 岳。どこかで、この空。見上げているんだろ?


 空には星が瞬いている。冬の空は空気が澄んでいて星がよく見えた。きっと、あちらも天気が良ければもっとずっと星が見えているはず。


「俺、ずっと待ってるから…」


 必ず戻って来てくれ。岳──。


 遠い岳を思った。


+++


 次の日、普段と変わらぬ一日が過ぎて行った。皆を送り出し、掃除洗濯食事の用意。岳がいない事を抜かせば、いつもの日常だった。

 皆が帰宅し、夕飯を食べ終え、今か今かと連絡を待っていたが、真琴からの音沙汰はなく。

 期待と不安。何とか振り払う様にはしているけれど、どちらかと言うと不安が強い。

 

 やっぱり、何かあったのか…。


 こちらに、伝え辛い何かが。

 しかし、そうは思っても、顔には出せない。壱輝を不安にさせるし、いまだ何があったかは伝えて居ない初奈も不思議に思うだろう。

 初奈はいつものように亜貴に勉強を見てもらった後、テレビを少しだけ見て、後は部屋に戻って行った。

 急な用と言ってはあったが、真琴だけが現地に向かったのには何か事情があると察している様で。けれど、どうしてかは聞いてこない。兄壱輝もどこかいつもと様子が違うのにも気付いているのだろう。

 亜貴には何かあったのかと尋ねた様だが、ちゃんと報告するべき時が来たら報告するといい、何も心配しなくていいと言ったらしい。その対応でいいと思った。


 まだ、何もわかっていない。


 その姿も確認できてはいないのだ。

 今日もまたリビングのテラスに出て夜空を眺めた。空には雲もなく、星の姿をはっきりと見ることが出来る。

 きっと、岳もどこからかこの夜空を眺めていると思って。──そう思いたいのだ。

 そろそろ部屋の中へ戻ろうかと思った矢先、リビングにあった固定電話が鳴った。俺は飛びつく様にして直ぐに出る。


「真琴さん、お疲れ。無事に着いたんだな」


『ああ。明日は車でベースキャンプに近い村に移動予定だ。それで、大和。先に伝えて置きたいことがあるんだが──』


「うん…」


 手のひらに嫌な汗が滲んだ。


『明日、発見出来なければ、捜索を打ち切るそうだ』


「打ち切り…」


 それが何を意味するのか、認めたくなかった。普段、やわらかく耳障りのいい真琴の声が、それとは裏腹に非情な情報を伝える。


『そうだ。天候が回復した僅かな間、岳たちがいた地点に向かったが、二人は発見できなかったそうだ。その時、二人が滑落したと思われる状況を確認したらしい。そのあとも、周辺の捜索をしたが、見つける事が出来なかった様だ。天候も悪化し、暫く回復の見込みがない。このまま続ければ二次遭難に繋がる。それで…その判断に至ったそうだ』


「…わかっ、…た」


 喉が乾いて声が張り付いてしまったようだ。何とか声を絞り出す。


『できる限り、捜索は続けるそうだ。…大和、まだ気を落とすな?』


「うん。大丈夫だ。亜貴には? それと──壱輝にも」


『俺が話そう。電話を替わってもらえるか?』


「うん。ちょっと待ってて…」


 そうして、二階の亜貴に真琴からの電話だと告げ、すぐに階下へと降りた亜貴の後ろ姿を見送ったあと、壱輝にも声を──そう思い、戸口に立ったところで、向こうからドアが開いた。


「何かあったのか?」


 心配そうな顔が隙間から覗く。俺は真琴からの報告を思い、いたたまれなくなったが、一息ついてから顔を上げると。


「真琴から──電話だ。亜貴の後に出てくれ」


 すぐに察した壱輝は、部屋のドアをそっと閉め、廊下に出るとこちらをじっと見つめ。


「父さんのことだろ?」


 俺は心を決めて口を開く。


「捜索してるけど、二人が見つからないって…。天候も良くないらしい。それで、明日で捜索を打ち切ることになったらしい」


「打ち切り? それって──」


「うん。なんか、信じられねぇけど、そうらしい…。天気も悪くて、二次遭難につながりかねないって。けど、まだどうなるか分からない」


「分からないって、そんなの、もう死んだって言ってる様なもんだろ? 諦めろって、事だろ?」


「まだ…わからない」


 俺は繰り返す。


「……」


 壱輝は押し黙って、拳を作って握り締めている。と、そこへ亜貴が階下から声をかけてきた。


「壱輝。電話、真琴から」


 亜貴の声に踵を返すと、壱輝は急ぐように階下へと降りていった。俺はため息をひとつ吐き出した。吐き出す息も震える。

 まるで他人事のよう。目を閉じて開ければ、これは夢で。現実じゃなければいいのにと思う。けれど、事実だ。


 岳が見つからない。


 壱輝が言うように、それは死を意味している。壱輝と初奈は父を、亜貴は兄を失うことになる。


 そして俺は。


 頭をぶんぶんと振る。

 岳が帰って来ないなんて、信じたくない。


 約束、したくせに。


『大和は俺だけのものだ。誰にも渡さない。だから、大和を置いて何処かに行くことは絶対ない』


 岳の言葉が脳裏に蘇る。


 岳…。


 それで、俺は自分の考えを打ち消した。岳は嘘をつかない。そう言う男だ。


 俺は、信じる。


 僅かな望みかもしれない。


 けれど──。


 落ち込みかけた自身を奮い立たせた。岳の亡骸が見つかった訳じゃない。


 俺は信じる。


 きっと帰って来ると。

 俺はパンと頰を両手のひらで叩いた。弱気になる自分を振り払う。


 岳は生きている──。


 それを決定的な事実が判明するまで信じる事に決めた。でなければ、今、この時。帰ろうとしているかも知れない岳に申し訳ない。


 俺が信じずに、誰が信じると言うのだ。


 もう一度、深く息を吐き出し、気合を入れると階下へと向かった。


+++


 階下では、亜貴がソファに座り込み、俯き額に手をあてていた。壱輝はまだ真琴と話している。亜貴は俺の姿を認めると。


「なんか…。信じられないんだけど」


「まだ、決まったわけじゃない」


「でも…」


 俺は亜貴の傍らまできて、その足元に片膝をつくと視線を合わせる。疲れた表情だ。そんな亜貴をじっと見つめると。


「岳はきっと帰ってくる。約束したんだ。──だから信じる」


 亜貴は苦笑して視線を伏せると。


「大和は…。そうだね。俺も──信じてみようかな…」


 そう言った亜貴と俺の傍に、真琴との話の終えた壱輝が立つ。ぐっと手の平を握り締めたままだ。


「俺は──信じない。あんな奴。最低な奴だ」


「壱輝…」


 俺の呼びかけには答えず、それだけ言い残すと、さっと踵を返し部屋へ駆けるように戻って行った。亜貴はそれを見送った後。


「まあ、難しいよね。実際。壱輝にしてみれば放っておかれた挙句、勝手に死なれたらさ…」


「死んでない。まだ、決まっていないんだ」


 亜貴は少し悲しげに笑うと。


「そうだった…。でも大和」


「なんだ?」


「全部はっきりして、思う結果じゃなかったら…。俺も真琴もいる。大和はひとりきりじゃないんだからね?」


 いつか亜貴に言われた事を思い出す。俺は笑って。


「…わかってる。ありがとう、亜貴」


 そう返した。


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