第8話「地獄のぞき」

 まるで自分がデートをしているような気分で直樹と凛の微笑ましい様子をあかりは温かく見守っていた。

「何よ、学校にお弁当なんて持ってきた事ないじゃない、あの子。フフフ。」

 

 ちょうど昼時ということもあり、簡単なサンドイッチをつまみながら、片手でコメントを書いて動画に見入っていた。直樹と凛も動画の中で食事を終え、「仲むつましい事・・・。」と独り言を残して立ち上がり、キッチンへコーヒーを飲むために向かった。

ペーパードリップを用意しながら、お湯をわかし、しばし動画の余韻を味わいながら電気ケトルから湯気が出るのを待っていた。そんなボーッとしている束の間にあかりの頭の中には何故か真夏の入道雲のように暗雲だ立ち込めて来た。


「待ってよ、もし今度あたしが直樹とデートする事になったらどうなるのかしら・・・。」

ピーっと湯が沸いたことを知らせる電気ケトルの音があかりの頭の中に警報音のように鳴り響いた。

「総当たりって言ってたわよね。全ての男女がこの調子でデートするゲー

ムだったわけよね。」


 カチッと電気ケトルのスイッチが切れ湯が沸いた音は静かに鳴り止んだ。あかりが直樹に手作り弁当を「あーん」と言いながら食べさせている。

「美味しい?じゃあ私にも食べさせて?はい、あーん。」と口を広げている場面を想像してしまった。「それはダメー!」と必死にキーボードを叩いている凛の姿が浮かび上がる。

「そんなの気まずいじゃない!このゲーム異常だわ。なんで今まで気がつかなっかったんだろう。早く辞めさせなくちゃ。」

 

 あかりは沸いた湯もそのままに慌てて自室のラップトップPCの前に座り、コメントを書き込もうとした。

「あーっ。なんて書いたら良いのかわかんない。」そう言ってサラサラとした長い髪をボサボサにかきむしっている。

「ゲームはここで終了?」「それともゲームオーバー?」「違う!違う!違う!」

 動画を見返しながら、何か手掛かりは無いかとあかりは探る。見れば見るほど、凛はどんどん直樹に惹かれているのがよくわかる。

「今の凛はすっかり舞い上がっちゃてるし・・・。それを私が迂闊に現実に引き戻していいのかしら・・。あああ、このままじゃまずいのにどうしたらいいの!」


 あかりは苛立ちパタンとラップトップを閉じて部屋の中をウロウロし始めた。

「あの男子たちならもしかしてこの状況を予測していたかも知れないわよね。あれだけのアプリまで用意して、あっという間に私たちを引き込んで・・。」

腕組みをした右手の親指の爪を噛んでいた。そして、あかりは居酒屋での出来事を思い出していた。なんだか随分前からのサークル仲間のような気がしていたが、実際に言葉を交わしたのはあの居酒屋でだけである。男子たちの人と成りを全く知らない。

「凛と直樹をすぐにゲームから離脱させると、この恋は終わってしまうかも知れないし。動画を見ていた限りではこのままゲームを続けさせて、凛と直樹の恋を応援したいわよね。」

「でも、恋が成就してしまうと、地獄のようなゲームが始まってしまう。女子がよく考えもせず、適当に書いた『男子にしてほしいこと』を直樹が他の女にしている姿を凛は見なければならない。」

「あー、何なのよこのゲーム・・・仁のやつメェ!」

そう声をあげてダン!と地団駄を踏んだのち、

「アイツらを集めて問い詰めないと。」

そう言って再びラップトップの蓋を開いてコメントを書き込み始めた。


「このコメントは直樹と凛も読むわけだから、私たちが秘密会議を開くことを知られたらまずいわ、どうやって他のメンバーに招集かけようかしら。」


 サークルメンバー同士の連絡先を特に交換していなかったので、連絡が取れるのはこのコメント欄のみだ。あかりはとりあえず、女子を味方につけようと狙いを定めコメントを書き始めた。

「ねえみんな。すっごい盛り上がっているし、この続きはみんなで一緒に動画を見ない。?」そうタイプした。

「それもいいかも知れない。」狙い通り、ここなが食いついてきた。ここなは寂しがり屋なので『みんなと一緒』という言葉が大好きなのである。

「ここな、ロイホのストロベリーブリュレ食べたくない?凛たち、ゴディバのチョコフラッペ食べてたじゃん。私も甘いもの食べたくなっちゃった。」

「あー、いいね。食べたーい。」

「でも…このゲーム、この先どうなるんだろう? ちょっと不安だよね。」とあかりはすかさず動画にもっと注意を向けるようにカマをかけてみた。

「…データ分析の結果、いくつかの問題点が浮上している。」と冷徹に悠太。

「と言うことだからさ、男子たちも一緒にロイホで動画見ない?」

「何それ、俺たちに奢れってこと?」仁がコメント。

「ああ、奢れってくれる男子ってカッコいいよね。」そう書きながら、

(しまった、逆にハードル上げちゃった)と内心、あかりはうまくコメントで誘導できない事に、心臓がまるで暴れ馬のようにドキドキなっているのを感じていた。

「いいよ。奢ってあげる。」そう書き込んだのは悠太だった。悠太が抱く杞憂を解消するには女子の協力が絶対に必要だと確信し、このまま直樹のペースでゲームが進んでしまったらその後に待つ最悪の結末が見えているような、とても悠太には似つかない書き込みだった。

 そのコメントを見て仁はコメントの一つ一つにほんの少し違和感を覚えた。

「あかりって、こんな甘えん坊な性格だか?」

「ここなが行くって言っているんだから、デザートを食べたいだけだったら俺たちを誘う理由はない。」

「悠太は冷徹に見えて俺たちの中で、一番人間的な優しい気持ちを持っている。」

「問題点が浮上している。と女子にはわからないよう、男子向きのメッセージ」

「悠太が俺たち意外の人間とあっさり交流を持とうとするのは極めて稀な事だ。」

「まだ会って間もない女子たちにデザートを奢るようなキザな男ではない。」

仁の頭にそんな怪しい世紀末を描いた映画のプロンプトが流れていった。


「きゃーあ、悠太素敵!仁も来るよね。」これでよしとあかりは勝算を見出していた。

仁は女子に会う前の企画会議のことを思い出していた。

「バレたってことか、この悠太の反応は」ラップトップを睨む仁の瞳が揺れた。


 直樹が令和薬科女子を『女子リソースとして使う』と言っていた顔が思い浮かんでいた。「モデルでも靡かない直樹が普通の女子に興味を持つなんて」とずっと疑問に思っていた。母親が死んで以降、心が壊れた直樹が立ち直る良いきっかけになるかも知れないと少し希望を持っていた。そして、凛との良い関係にその希望に光が差し込んできたと思っていたのだ。

 凛も容姿は良くてもモデルには向かない。その器にたくさんの幸せが詰まっている。その幸せを直樹の器に注いであげたい。そんな仁の母親の比喩を思い返していた。


 そして、今、天才悠太が意外な行動をとっている。これは何かのサイン?

「まさか直樹は凛の心を弄ぼうとしているのか?」

直樹にとっては、このゲームの結末は二人の関係を曖昧にしたまま終わらせて、女子の言動を観察できるようにするのが理想だ。しかし、ここまで直樹が凛を惹きつけてしまっては有耶無耶にするイコール興味が無いと言って

いるのと同じだ。

「そんな非人道的な行動を本当にするつもりなのか?所詮ゲームだと言うのに。」

 仁も、あかりが『みんなで動画をみよう』と言い出した裏の意図に気がついた。

「そうだ、俺は一体何をしていたんだ」そう言ってコメントを書き込んだ。


「じゃあ大学の近くのロイホね、今から出るわ。」

仁はそうコメントを書き残してバイクレザージャケットを羽織った。


 真っ先にファミリーレストランに着いた仁は三々五々メンバーが集まるのを待っていた。自分を含めて4人の友人であると店員に伝え、ボックス席に座れるようにしていた。他のメンバーは仁がコーヒーを半分も飲まないうちに集まってきた。


 最初に口火を切ったのはあかりである。

「何してるのよ、アンタたち!」あかりの目は怒りに燃えていた。

「まだ、結果が出たわけじゃない」と悠太が俯き気味に答える。

「まあ、落ち着けよあかり。すぐにルール変更するから。」仁はこの事態の収拾方法のアイディアを持っていた。

「大丈夫じゃない?このままくっつくと思うよ。」ここなはまだこのゲームの残酷な面に気づいていない。

「くっついてもダメなのよ。」そう言って立ちあがろうとするあかりの肩を正面に座っていた仁がなだめた。

「俺がとりあえず説明するから・・・。」

「まあ、ここな以外は気がついていると思うけど、ここで直樹と凛がくっつくとみんな嫌な思いをしながらこのゲームを続けなくちゃいけなくなるんだ。」

「たとえばこの後、俺と凛がデートをするとするだろう?凛はその姿を直樹に見られていると知っているわけだからすごく気まずくなる。」

凛が仁と作り笑顔を浮かべながら淡々とイベントをこなして行く姿を誰しも頭の中に思い浮かべていた。真面目で天然な凛なので「プッ」と吹き出すことはあっても、コメントに困り、今の直樹と凛を見ていた時のような盛り上がりはないだろう。


「ここなは直樹とどんな気持ちでデートするんだ?凛のことが気にならないか?」

「あ、そう言うことか・・・。三角関係観察ゲーム・・・。」

「三角関係観察ゲームか・・・。」

上手いこと言うなと仁は感心しながら話を続けた。

「当事者じゃなければそう言うゲームも面白いよな。でも、俺たち全員当事者なんだぜ。ドロドロの三角関係ゲームをしてみたいか?」

「じゃあ、すぐにこのゲーム辞めさせなくちゃ。」と慌てるここな。

「でも、まだ確定してないんだよ。直樹と凛の関係。」と仁。全員が直樹と凛の恋愛成就を願っているのだ。あと少しと言うところでこの恋愛の行くへを阻む勇気は持てなかった。


 しかし、エンディングで迎えるパターンは3パターン。

「直樹たちの恋愛成就したら三角関係ゲームスタート」

「直樹ふられてもこのままゲームは続行、しかし、いずれ誰かが恋愛成就したら三角関係ゲーム。」

「全員の関係が有耶無耶のまま終わる事のみこのゲームは完遂する。しかし、どう見ても今の凛は直樹に惹かれていて、今回の有耶無耶イコール凛の失恋。」

 いずれもこのゲームを始めた時点で全員が修羅の手のひらに置かれていることになるのだ。

「そうか、だからここでみんなでその行くへを見守る必要があるのかぁ。」ここなも納得がいったようだ。


 いやいや、それだけじゃないんだと手を振りながら悠太は言った。

「凛と直樹がカップルになる確率は統計的に90%以上。」

「直樹が普通の奴だっらそうなんだけどな。アイツにはトラウマがあるんだ。」と仁が付け加える。

「トラウマ?」とあかりが落ち着いて聞いた。

「ああ、あんなに明るく見えて極端な人間不審なんだ。中学の時に母親を目の前で死なせちゃって、奴も含めて周りにいた人間の誰も助けられなかった経験があるんだ。」

「直樹の心はずっと凍りついたままだよ。」と悠太が言った。

「今まで『データ云々』とコンピュータが発するような事しか言わなかったが悠太が?」と女子の目が一斉に悠太の方に向いた。


「寂しいとかそんなレベルの話じゃないと思うんだ、人の気持ちを全く感じていないみたいなことを時々言うんだ。僕にはそれが感情を持たないコンピュータと話しているみたいで心地よかったんだけれどね。」と悠太は目を細めながら女子の顔を交互に見た。


「でも、凛とMMOで出会って、なんだか直樹が少し変わったような気がしたんだよね。絶対に女の子になんか興味を持たないと思っていた直樹が変わった気がしたんだよ。」と仁が付け加える。

「ゲーム作りの仕事なのか、凛に惚れちまったのかって、からかったふりして聞いてみたりはしたんだけどな」

と最初に直樹がこの企画を持ち出したことを思い出しながら言った。


「俺は直樹が凛と出会って変われると信じている。だからこのままゲームを続けて最後まで見守って欲しいんだ。」

「そうしたら、その後はどうするのよみんなで地獄の三角関係ゲームをしろっていうの?」あかりが目の前の仁にくってかかった。

「いや、これも賭けなんだけれどね、後期の試験が終わったらみんなで旅行に行かない?箱根の地獄谷温泉あたり」

「地獄谷で地獄のゲームをするっていうの?あんたマゾじゃないの?」あかりはガタンと立ち上がった。「イター!」とテーブルに膝をぶつけて地獄谷の閻魔様みたいな顔をして仁を睨みつけた。


「あのー。そろそろご注文は良いですか?」と店員が側に立っていた。

「ストロベリーブリュレを2つ、このどうしょうもない仁ってやつの奢りで!」と言い放ちあかりは席についた。

「ああ、俺はコーヒーのお代わり。」と仁は店員に片手で拝むようなポーズをとりながら注文を伝えた。

悠太は「僕もストロベリーブリュレ。」

と別に奢ってあげてもよかったのにと言う顔で言った。直樹たちの作った会社は普通の大学生が稼ぎ出せるような金額では無いくらいの利益を出しているのだった。


 またもや悠太はその場にいた全員の注目を集めた。

「悠太とストロベリーブリュレ。は似合わなすぎ。」と閻魔様は笑った。店員はクスクスと笑ったあと注文を繰り返しカウンターへと立ち去った。

「そんな、地獄のゲームを続けるって言うわけじゃないんだ。今度は6人でゲームの続きをしようと思うんだよ。そうすれば、ゲームをする面目(めんもく)も立つし、全員が地獄のゲームをしなくて済むじゃないか。そこでこのゲームは終了。ちょっとしたルール変更だよ。これならソフトランディングできると思うだよね。」

「ふん、マゾのくせに頭だけは良いんだから・・・。」

あかりは渋々納得したようなポーズを取りながらさっきの店員によって配られたお冷に口をつけていた。


「ただ、頭がいいのは仁だけじゃないんだよね。今回のゲームの結末、結局、直樹が全てのアドバンテージを握れるようにできているんだよね。」悠太もあかりの真似をして納得をしたようなポーズを取りながらお冷に口をつけた。

「最初っから、最後のシーンで直樹はみんなの見本になるように、関係を曖昧にできるようにシナリオを組んでいるんだよ。」

「そうなの?結果ありきでこのゲームが作られていたの?」ここなが目の前の悠太に、そんなことができるの?と言う視線を投げかけた。

「うん、最後のイベントは実際の映画では中盤で主人公が振られるロケーションなんだよ。そのあとで主人公がどうやってヒロインを振り向かせるかがこの物語の面白いところなんだけれどね。」意外にも悠太は饒舌である。


「ヒロインはドライブデートに浮かれておめかししすぎちゃうんだよ。でも沖ノ島公園は人口的に作られた場所がないんだよ。変わった岩場とか絶景の海が見える場所なんだけれどね。でも、モンサンミッシェルみたいに島へは隆起した砂浜を歩いていくんだよ。両岸は海。でも、ヒロインはパンプスを履いていてね。島へ行く時は砂に埋もれちゃうし、帰りは潮が満ちていて靴がぐちゃぐちゃになっちゃうんだよ。それでヒロインは怒っちゃって主人公と帰りの車の中は険悪になっちゃうんだ。」

「うちの事務所の女の子連れて行ったらそのパターンありそう。」と仁が言う。

「えー、それって全部、悪いの女の子の方じゃん、なにその女。」とヒロインをディスり出すあかり。

「まあ、主人公も強引でね。とっておきの景色を見せたがって、結構無理に女の子を誘うんだよ。」

「どっちもどっちと言うことなのね。」ここなが悠太に微笑みかけた。

『あなたは違うよね?』とここなに微笑みかけられたような気がして悠太は俯いた。

「直樹の思惑を打ち壊すには最後の課題にかかっているんだよね。何か決定打になるアクションが当たると良いんだけれど、『壁ドン』みたいな的外れの課題が出てきちゃったら直樹の思う壺。大笑いして終わっちゃうよね。」

「今から差し替えられないの?その課題。」とあかりが小悪魔っぽく聞いた。

「まあ、技術的にはできるけれどルール違反じゃないの?」と悠太は仁に聞く。

「やっちゃえ!」ここなが悠太に顔を近づけて囁く。近くに聞こえるここなの声に悠太は驚き、ここなと見つめ合ってしまう。


「お待たせしました、ストロベリーブリュレ3つとホットコーヒーです。ご注文は以上でよろしいでしょうか?」と店員の声に驚く悠太。

「やっちゃいます。」と思わず店員に返事をしてしまう。



 あかりや仁たちが今後の行方をあーでもない、こーでもないと危惧しているうちに、直樹と凛は「日本一の磨崖仏地獄覗き」と、高校生の文化祭のお化け屋敷の看板のような入り口を目指して歩いていた。この入り口のすぐそばまで車でたどり着く事ができる。ここは鋸山、名前のように鋸の刃のような、ギザギザした山容がはっきり見える山だ。良質な砂岩が取れることから

かつては石切場として栄えた場所だ。切り通しの中の比較的平らな道を歩き、最後のひと押しで地獄覗きのための岩場に登ると言った具合の軽いハイキングコースだ。

「地獄覗きか。我ながらかなりウイットの効いたロケーション選びだと思う。」直樹がそう独り言言うと、「はい?」と凛が怪訝な目を向ける。

「いやいや、別に脅したわけじゃないよ。地獄覗きとかなんかワクワクするだろ?怖いもの見たさっていうか・・・。」

「怖い・・・ですか?ここは霊験あらたかな日本寺の境内の一部ですよね?怖いですか?」

「あの看板を見ると、なんかおどろおどろしいと言うかなんというか」

「うーん、そうですね。参道も通らずいきなり山頂の駐車場まで来てしまいましたからね、でも、ここの御本尊は薬師瑠璃光如来です。薬師様なんです。」

「へえ?詳しいんだね。こう言う神社仏閣に興味があるんだ?」

「いえ、どんな所に連れて行ってもらえるのか楽しみ色々・・・」

なんだかいきなり言葉が萎んでしまう凛だった。カフェイン錠を持ってきた理由がこの場所を調べて行くうちにハマってしまったからなんて言えない。そう思った。

「薬師様と聞いて、私たちが薬剤師の卵だから直樹君たちが選んでくれた場所なのかと思って色々調べてみたのです。」気を取り直して凛は言った。

「薬師様って薬剤師とかお医者さんの意味なんですよね。それで、ここにお坊さんになって薬のことや医療を学びにたくさんの人が集まっていたんです。」

「ああ、まだ医療が呪術とかだった時代の話ね。」

そんな風に話が弾む中、周りは削り取られて切り立つ大きな壁の様な岩肌に変わっていた。最近では「ラピュタの壁」と言われているような場所である。人工的だが、所々に苔が生え、自然の中に埋もれてしまったかつての高度な文明を思わせる様相だ。

「いえ、呪術なんかではありません。かなり科学的なんです。例えば、源頼朝は石橋山の戦いに敗れた後この地に訪れて傷を癒していたのです。その傷がみるみるうちに癒えたのを記念して自らもソテツをここに植えたのです。そのソテツが今も境内に残っています。ソテツには『ホルムアルデヒド』という殺菌作用のある物質が含まれているので傷の手当てにはかなり有効なのです。」

「ふーん。でもちょっと待ってよ。西洋科学が発達したのは千九百年頃だよ。源頼朝って言ったら千百八十年くらいの人だよね。科学が発達する七百年も前にすでに日本の医療はそこまで発達していたってこと?」

「そうなんです。」本と手のひらに拳を叩きつけて凛は目を輝かし始めた。

「おそらく、インドの方からお経として伝わってきたのだと思うのですけれどね。」

「そんなあ、お医者さんはみんな『今時の医療は科学的でなければならない。』なんて言って、科学信仰始めているんだよ。科学よりも先に進歩していた医療がなんで遅れてきた科学に倣おうとするわけ?」

「そうなんです!私も調べていくうちにびっくりしました。」今度は直樹の腕を鷲掴みしてきた。

「確かに『衆生』とか『瑠璃の光』とか宗教めいた言葉がたくさん出てくるのですが、それぞれをよく読むと「虫刺されを治す」とか「傷を癒す」とか「精神を安定させる」とか「社会の病を治す」と言うことまで出てくるのです。」直樹の腕を掴んだまま、すっかり足取りが止まってしまった。

「虫刺されから社会病理まで治せるの?すごいね。」わかった、わかったと腰を軽く押し、足取りを進めるように直樹は促した。

「すごいのはその部分ではないのです。普段の生活の仕方や、食べ物、時には特別に植物を集めて薬のように煎じて飲んだりする方法がかなり細かく記されているのです。これって、今、私たちが大学で習っているようなことばかりなのです。」凛は歩調に合わせて、ギュッギュと直樹の腕を引っ張るが、掴んで離さない。


 なぜか直樹の頭には『研究は教授連中に任せておけばいい。父さんは父さんの仕事をするまでだ。』言っていた父親の顔が浮かんできた。あの時の自分は科学の進歩こそが人類を幸せにすると、不幸のどん底でそう信じていた。しかし、ベテランの医師である父の見ていた方向は直樹と全く違う方向だったと気がつかされた。今まで見せなかった凛の知性の片鱗や情熱的な言葉が「お父さんをそんな風に責めないで」と母が自分に言っているような気

がした。

「じゃあ、科学っていうのは医療の中のほんの一部だってこと?」

「そういう風に私も思えてきてしまったのですよね。宗教だから精神性の部分だけかと思っていたのですが、精神性の上に乗っかる理論的な部分もきちんとあったのですよね。もちろん、科学が発達してからは、新しい発見発明をどんどん求めるようになったので、現代の方が理論的知識の方が多いのですけれどね。」


 「今の医療は昔あった精神性が蔑ろになっていると言いたいのか

な・・・。」今度は直樹の方が尻窄みな口調になってしまった。父が母の解剖を拒んだ精神性。そんなことを考え始めてしまったからである。

「自分が子供じみていたのか?」「父さんが考えていたことには、科学以外のもっともっと深い意味があったのか?」と父に反発していた自分の石像が風化して砂となっていくような感じを受けた。


「私も大変なことを知ってしまったと思いました。薬を買いにくる患者さ

んに対して、『薬の使い方が間違わないように』とか『薬効成分が最大限体に効果的になるように』という視点しか持ち合わせなかったのですが、各患者さんの生活の仕方や、事情と言ったものを想像したり、時には直接聞いてみたりしなければ本当の医療ではないのでは?と思いました。」

「すごいね、凛は・・・。」凛を呼び捨てで読んでしまった事に直樹自身も驚いていた。まるで、仁や悠太と話す時のような脳をフル回転させて理論を組み立てながら話す感覚だった。

「いえいえ、父と母を見ていて、そうではないかとなんとなく感じてはいたのですが、薬師様の話を読んで確信できる様になっただけです。父がシャンプーやトイレットペーパーを買うお客さんでレジに長い行列ができちゃっても、一向に患者さんの話を聞くことをやめないことがよくあるのです。」

「『他の病気で別なお医者さんにかかっていないか』とか、『何時に寝て、何時に起きるのか?』とか・・・。」

「そういう時は母が慌てて、タブレットをレジがわりにして即席のレジを作っちゃたりしているのですけれどね。」

嬉しそうに話す様子を見て、直樹は「ああ、この子は本当に幸せな家庭で育ったんだな」と温かい視線を凛に送った。


 そうして開けた場所に出ると、そこには巨大な観音像が聳え立っていた。その穏やかな口の微笑みが凛のものと重なって見えた。「慈愛に満ちた眼差し」「風化していく岩肌」「空に吸い込まれていくような巨大さ」それは凛の言っていた「霊験あらたか」そのものだった。

「俺は観音様を地獄へ突き落とすつもりなのか?」とハッと目を見開いた。

百尺、つまり30mの圧倒的なスケール感の「百尺観音」を目の前にし、二人は先ほどの熱のこもった会話を忘れて立っていた。「世界戦争、戦死病没殉難者供養。」と「あらゆる交通事故の犠牲者供養」を目的として1966年に完成した比較的新しい観音様だ。比較的新しい観音様に御利益は乏しいだろうと直樹は思っていたのだが、いざ、その巨大な摩崖仏を目の前にすると神々しさを感じざるを得ない。こんな思いをするのは直樹たちだけではなさそうだ。観光

客の姿もちらほら見える。


「凛ちゃん、お参りしていこうか。」そう言って、凛を観音様の前へと誘った。手を合わせ直樹は色々考えていた。

『こんな観音様の前で酷いゲームをするなんて罰当たりかもしれないな。ふ、罰当たりか、凛に感化されちまったのか・・・俺らしくない。でも、あの純粋な凛にこのゲームの結末を見せたら彼女はどうなってしまうんだ・・・。彼女との関係も終わりだな・・・。』

直樹は祈るでもなく、願うでもなく、拝んでいた。


 一方、凛は直樹とは全く違うことを考えていた。

『私が最後まで彼女役を全うして直樹君の役に立てますように。』

『もしできたら、直樹君の本当の・・・。これは厚かまし過ぎかな』

そう、観音様に祈っていた。


「さあ、いこうか」と直樹に促されて、二人はまた歩き始めた。『地獄覗き』までは今まで歩いてきた距離と同じくらいの10分ほどである。

「ここから動画撮っていこうか?」と課題の動画を撮り始める。アプリを開いて録画ボタンを押し、凛にカメラを向ける。

「動画をとられるのってちょっと恥ずかしいよね。」凛はそう言って俯く。

「じゃあ、ここでインタビューです。凛さん、観音様に何をお願いしたのですか?」と百尺観音のを方を振り向いて巨大な観音様の方を写し、再び凛の方に再びカメラを向ける。

「え?」と目を見開き、俯いてしまう。

「内緒・・・。」と小さく呟く。

「えー?みんなも見ているんだし、ちゃんとインタビューに答えてよ」

「ダメ、内緒。はい、次は直樹君にインタビュー」と直樹のスマホを取り上げカメラを向ける。

「えー。俺?まあ、ここは交通安全の観音様だから、『無事に帰れますように』かな。」

「・・・え?そうだったの?し、しまったぁー!」と凛は慌てた声を上げた。


 10分ほどとはいえ、さっきよりも登り階段が多い。長い階段を登り終えた充実感と共に目の前に壮大な景色が広がった。遠くに見える海は本当に青かった。冬の陽の光に照らされて家々の鐘が輝いている。冷たいけれど、少し潮の匂いのする風は心地よい。

 地獄覗きの手前がこの辺り一番の高台になっており、遠くまで一望できる場所なのだ。『地獄覗き』そのものが、かつてこの辺りで石切をしていた、職人の遊び心で作られたものである。切り立つ崖の一部をそのまま残し、崖から岩が飛び出たような不自然な岩を作っていたのだ。かつての職人も、ここで度胸試しのようなことをしていたのかもしれない。


 今は観光化され、周りはしっかりとした柵で囲まれて、安全対策は取られている。しかし、この浮遊感には柵があったとしても、恐怖を感じる人は多いだろう。そんな状況で凛はどんな顔をするのか、いたずら心を持ちながらカメラを向けていた。凛は潮風に美しい髪を靡かせながら遠くを見つめ、無口になっていた。直樹は少し違和感を感じた。


「課題は・・・。ゲッ『壁ドン』だって。」そう言ってこのゲームの課題

を確認した。

「壁のないところで『壁ドン』なんてやっぱりこのゲームバグってるわ」

などと言いながらカメラを岩場に置いて二人が映るようにセッティングする。」

「凛ちゃん、大丈夫?」ぼーっとしている凛に直樹は声をかける。

「壁なんかないからさ、一番先端の柵を使って『壁ドン』しよう」

そういうと、器用に、風化した岩段を数段降りて最先端の柵の前に立つ。先端は先ほど立っていた場所より少し下がって狭くなっている。柵がなかったら勢い余ってそのまま地獄行きだろう。

「凛ちゃん?大丈夫?」直樹はもしかすると、凛は高所恐怖症なのではないかと思い始めた。

「無理だったらこっちに来なくていいから、そこで待ってて」そう言って、引き返そうとした。

「・・・だ、大丈夫。」震える声で凛はそう言い、柵に両手で捕まりながら足元を探り降りてきた。

 一歩足を進めるごとに凛の恐怖は増していく。

『・・怖い・・足がすくんじゃう』

手すりに捕まる手が汗で滑る。手すりに肘まで乗せながら、必死に次の一歩をさがす。呼吸が速く、浅くなる。

『直樹君の本当の彼女さんだったら、こんなことくらい・・・』

そう自分に言い聞かせながら、また一歩足を進める。

『・・せっかくのデートなのに、こんな情けない姿、見せたくない』冷や汗をかいて、涙がこぼれそうになりながらも、そう奮い立った。


 次の瞬間、足を滑らせた。


 その刹那、直樹は凛に向かって飛び出していた。倒れかかる凛を抱き止める。しかし、そのまま滑り降りて柵に『ドン』と鈍い音を響かせる。


 直樹は「うっ」とうめきながらも背中の痛みを堪える。

凛は恐怖のために直樹の腕の中で震えていた。直樹は凛を優しく抱きしめ、「大丈夫、大丈夫」と声をかけ続けていた。凛の恐怖が抱きしめた背中から、細かい振動と共に直樹の手に伝わる。

『ダメだ、凛をもうこれ以上・・・俺にはできない。・・・ゲームなんてどうでもいい。』


 直樹の中でこの『恋愛シミュレーションゲーム』は完全終了した。あの日、手術室の前で、母の死の横で、父が顔を手で覆って俯いていた時の気持ちが理解できた。『もう十分だ』と医師を諦めて、夫になったあの父の気持ちを・・・。


「・・・。凛・・・。好きだ。・・・だからゲームはこれで終わりだ。」


直樹はそう耳元で囁き、ゲームオーバーを告げた。

「・・え・・?」直樹の声を聞き取った凛の耳が真っ赤になった。

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