対称な図形に美を感じる私

島尾

自然界の物体を見て

 一昨日、榛名山の山頂に行った。中央火口丘は榛名富士と呼ばれている。半年ほど前にも行った。前者は真冬、後者は夏であり、人間の数は後者の数が圧倒的に多かった。よって賑わい、すなわち声の交錯度合いも圧倒的に複雑だった。一昨日は私しかいない時間帯もあり、そのときはほぼ無音であった。


 一月、山梨に行った。富士山と北岳、1位と2位を見られたことは旅の興奮材料となった。富士山は対称性の高い円錐形の独立峰、北岳は南北に伸びる赤石山脈の一角をなす峰。


 仙台のとある高台から市街地が一望できる。ビルやタワー、住宅地、丘などが見渡せる。その向こうには蔵王連峰の峰々も見える。そして太白山という円錐形の小山が見える。別名、仙台富士と呼ばれる。


 榛名富士と仙台富士は、ハッと見入ってきれいだなと思う。しかし富士山は、なぜかそれほどでもないと思う。対称性が低い北岳のほうが、鑿でガリガリえぐり取った後の造形に見えて、ふと見たときにハッとする。そういう感覚が私にはある。


 なぜなのか。対称性で美醜が決まるというならば、富士山は一番きれいなはずだ。

 幼少期から、テレビや写真で富士山を幾度も目にした。高校のときの修学旅行で長野に行ったとき、少し見たかもしれない。大学生のときに東海道新幹線の車内で見たことがある。また、雑貨屋で富士山の形をしたぐい呑みを見た。一富士二鷹三茄子び、という訳の分からない言葉。富士山に登る者の行列を白い目で見る私。

 富士山は美しい、皆ちゃんと覚えておけ! と、命令されていたのかもしれない。実際に自分から何か感じ取る以前に、大勢の他人が私の感覚を決めつけていた。自分と富士山との2物体間の相互作用は、最初から別勢力にゆがめられて今なおそのままである。 と考えてみた。

 

 それは寂しいと思い、突如、サン富士というあだ名を付与してみた。もうその時点で私から見た富士山は山ではない、別の何かである。サングラスをグラサン、寿司をシースー、女をナオンと呼ぶ、ビジュアル系バンドがよくやるような感じで、神々しいはずの富士山はビジュアル系の三角に変じた。そうしたら対称性が見出され、ああ良いねと感じ取ることがやっと可能になった。


 対称性は、単純さと関連しているのではないか。無駄に美化すると醜い部分が相対的に縮み、忘却され、対称性は崩れるのではないか。「富士山きれいだなー」と言う人の言葉を耳にした瞬間にそれを全否定して逃げ去り、誰もいない公園でサンふじを食べながら富士山を見ようと計画している。

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