第1章 第4話
1
桑咲駅前の商店街は、いつものように静かだった。平日の昼間とあって、人通りはまばらだが、洋服店の店先には冬物のワゴンセールが並び、どこかのんびりとした雰囲気が漂っている。
三人の住む若葉住宅の商店街に比べると、桑咲駅前は人が多い。と言っても綾宮駅に比べると雲泥の差である。
「ほら、こっちのお店の方が安いって言ったじゃん」
アンナが意気揚々と袋を掲げる。特売の牛乳と卵が入っているのを見て、チエが苦笑した。
「た、確かに安かったね……。で、でも、わざわざ駅前まで来なくても……」
「いいじゃん、ついでにいろいろ見られるしさ」
そんな二人のやりとりをよそに、サキはふと足を止めた。視線の先には、古めかしい呉服屋の店構え。軒先には「アルバイト募集」の紙が貼られていた。
「サキ、呉服屋でバイトするの?」
サキが張り紙を見ていると、耳元でアンナの声が聞こえた。チエも足を止めて紙を覗き込む。
「き、着付けとかやるのかな……? な、なんか難しそう……」
チエが戸惑いがちに言うと、アンナも腕を組んだ。
「着物のこと知らなくてもできるのかな? ていうか、地味な店だね」
サキはじっと店の入り口を見つめる。古びた木の看板、ショーウィンドウには美しく畳まれた反物が並んでいる。通りがかりに何度も目にしていたはずなのに、今まで気に留めたことはなかった。
「……私、働いてみようかな」
「は?」
「え、えっ……?」
二人が同時に声を上げる。サキは口元に小さく笑みを浮かべ、アンナに自分の買い物袋を押し付けた。
「ごめん、ちょっと行ってくる。先に帰ってて――」
「え、待っ──」
アンナたちの制止も聞かず、荷物をアンナに預けると、サキは呉服屋の引き戸に手をかけた。ギィ、と控えめな音を立てて戸が開く。
ほんのりとお香の香りが漂う店内に、一歩踏み込む。
「いらっしゃいませ」
低く落ち着いた声が響いた。カウンターの奥から、着物姿の老婦人がゆっくりとこちらを見上げる。
サキはまっすぐに彼女の目を見て、静かに口を開いた。
「あの、ここで働きたいです」
2
サキが足を踏み入れた店内は、外の喧騒とは別世界のように静かだった。薄暗い店内には、畳まれた反物が整然と並び、ほんのりとお香の香りが鼻をくすぐる。
呉服屋の店主――柿崎志乃の目がわずかに細められた。
「アルバイト募集の貼り紙を見て?」
「はい」
「経験は?」
「ありません。でも、やる気はあります」
志乃はサキをじっと見つめる。厳しい視線に、少し緊張が走る。しかし、サキは視線をそらさなかった。
「着物を着たことは?」
「七五三くらいです」
「着物に興味は?」
「……今までは特になかったです」
正直に答えると、志乃は少し眉をひそめた。
「では、なぜここで働きたいと?」
サキは一瞬、言葉に詰まる。なぜだろう。さっき、店の前を通りかかったとき、まるで何かに引き寄せられるように扉を開けた。その理由を、まだ自分でも説明しきれていなかった。
けれど――
「着物のことは、よくわかりません。でも、ここで働いたら何か変わる気がするんです」
「何か?」
「……うまく言えません。でも、なんとなく、運命みたいなものを感じて」
志乃の眉がわずかに上がる。そして、短く息をついてから、ゆっくりと口を開いた。
「うちの仕事は、ただ服を売るだけじゃない」
「はい」
「着物を扱うというのは、その人の人生に関わるということ。礼装、晴れ着、日常着……どんな着物でも、それを身につける人の覚悟がある」
「……」
「本当にやる気があるのなら、明日からおいで」
サキの目がわずかに見開く。
「働かせてもらえるんですか?」
「働けるかどうかは、私が決めることだ。お前さんが、着物を知ろうとする気があるかどうか、見極めさせてもらう」
厳しい言葉だったが、そこに拒絶の色はなかった。
サキは口元に笑みを浮かべ、軽く頭を下げる。
「ありがとうございます。……よろしくお願いします」
こうして、サキの呉服屋でのアルバイトが始まった。
3
翌日、サキは朝から呉服屋「柿崎」を訪れた。開店前の店内はひんやりとしていて、畳の上に並ぶ反物の香りが静かに漂っている。
カウンターの奥に立つ柿崎志乃は、昨日と変わらない厳しい表情でサキを見やった。
「よく来たね」
「おはようございます」
「じゃあ、早速だけど、まずは掃除からだ」
サキは少し驚いたが、すぐに頷いた。
「わかりました」
志乃は箒と雑巾を渡しながら言う。
「着物を扱う店では、まず清潔さが何より大事だよ。ホコリがつけば台無しになる」
サキは素直に受け取り、店内の掃除を始めた。畳の上を丁寧に掃き、ショーケースを拭き、棚の上の埃もきちんと落とす。普段の掃除とは違う、細かい作業だった。
ふと、志乃が棚の着物を整えながら言った。
「昨日、なぜここで働こうと思ったのかと聞いたね」
「はい」
「もう少し、ちゃんと考えてみたかい?」
サキは手を止め、少し考えてから答えた。
「まだ、はっきりとはわかりません。でも、ただの思いつきではないです。ここで働けば、何かわかる気がするんです」
志乃はしばらくサキを見つめ、それから小さく頷いた。
「なら、しばらくは様子を見てみよう」
サキは心の中で安堵し、再び手を動かし始めた。昔ながらの木造の店は、手入れを怠るとすぐにほこりが溜まる。けれど、丁寧に拭いていくと木の温もりがよみがえり、店が少しずつ輝いて見えるような気がした。
しばらくすると、志乃が店内に戻ってきて、ふと呟いた。
「随分ときれいになったね」
サキは驚いた。志乃に褒められるとは思っていなかった。
「ありがとうございます」
「掃除ひとつにしても、やり方ひとつで店の雰囲気は変わる。着物も同じ。ちょっと着方を変えるだけで、人の印象が変わるんだから」
志乃はサキを見て、少し考えるように頷いた。
「実際に着物を着てみるかい?」
サキの胸が高鳴った。
「良いんですか?」
「呉服屋の店員が洋服ってわけにはいかないだろう」
4
「さあ、腕を広げて」
志乃が選んだのは、淡い藤色の小紋だった。普段着ている洋服とはまるで違う感触に、サキは少し緊張する。
「息を吸って、ゆっくり吐いて」
帯が締められると、背筋がすっと伸びるような感覚があった。姿見の前に立つと、そこにはいつもの自分とは違う、自分がいた。
「……なんか、不思議」
「どう?」
「背筋が伸びるというか……気が引き締まる感じです」
志乃は満足そうに頷いた。
「着物にはそういう力があるの。服はただの布じゃない。着る人の心持ちまで変えるものなのよ」
サキはじっと鏡を見つめた。
――幼い頃の記憶にある、祖母の着物姿。彼女が纏っていた気品や美しさは、こういうものだったのかもしれない。
「よし、せっかくだから、このまま働きなさい」
「えっ!」
突然の提案に驚くサキ。しかし、志乃は穏やかながらも真剣な表情で言った。
「実際に着てみないと、お客様に説明なんてできないでしょう?」
サキは息を整え、小さく頷いた。
「……はい」
新しい扉が開いた気がした。サキは着物姿のまま、店番をすることになった。
いつもなら「働いている」という実感が湧くはずなのに、今日はなぜかそわそわする。
店内は静かで、時計の秒針の音さえ聞こえそうなほどだった。
(意外と……お客さん、来ないんだな)
少しでもお店の役に立ちたいのに、ただじっとしているだけでは落ち着かない。
「志乃さん、店番をしながら、お手伝いできることは?」
奥にいる志乃に尋ねると「店番も仕事。座っていなさい」と言われた。
志乃の厳しく静かな声に、サキは口をつぐむ。
とはいえ、椅子に座っていても落ち着かない。
(アンナじゃないけど、じっとしてるの、向いてないんだよなあ)
サキはそっと立ち上がった。
「……少し、店の中を見てもいいですか?」
志乃はちらりと視線を向けたが、何も言わずに頷いた。
サキはゆっくりと歩き出す。
先ほど着せてもらった着物は、体にぴったりと馴染んでいる。裾がするりと足元を流れ、帯が背筋をしゃんと伸ばしてくれる。
(歩きやすい……こんなに動きやすいなんて思わなかった)
最初は少し窮屈だと思っていた帯の締め付けも、今ではすっかり心地よく感じる。
(なるほど、着物って動きにくいんじゃなくて、動き方を整えてくれるんだ)
ふわりと袖を揺らしながら、サキは店の隅々を見て回った。
反物がきれいに並んでいる。
帯や小物が、ひとつひとつ丁寧に箱に収められている。
それらを見ていると、不思議と気持ちが落ち着いてくる。
(なんか……いいな)
自然と背筋が伸び、指先の動きまで慎重になる。
「サキ」
不意に、志乃が名前を呼んだ。
サキが振り向くと、志乃はじっとこちらを見つめていた。
「やっと、呉服屋の顔になったわね」
「え?」
「さっきまでのあんたはアルバイトの子だった。でも今は、ちゃんと着物を着る人になってる」
サキは少し考え、それから納得する。
(そうか、ただ服を着るんじゃなくて、着物は自分の動きや気持ちまで変えてくれるんだ)
「……ありがとうございます」
思わず頭を下げると、帯が背中を支えてくれた気がした。
5
サキが呉服屋で働くようになって数日が過ぎたある日の昼下がり、呉服屋の引き戸が静かに開いた。入ってきたのは三人連れの女性たちだった。
一番年配の女性は髪をきっちりまとめ、品のある和装をしている。その隣には、洋服姿の中年女性と、そのさらに娘らしき若い女性。一番若い和装の女性の孫娘はサキと同じような年齢である。孫娘は少し退屈そうに店内を見回していた。
「いらっしゃいませ」
サキは背筋を伸ばし、丁寧に頭を下げた。
「孫に着物を買ってやりたいんですよ」
和装の女性がにこやかに言う。
「えぇ……でもお母さん、買っても着る機会がないでしょ? レンタルで十分だって」
中年の女性は気乗りしない様子で腕を組んだ。
「そうだよ、おばあちゃん。成人式の振袖はみんなレンタルするって……」
孫娘も続く。
祖母は苦笑しながら、「やっぱり今の子は着物に馴染みがないわねぇ」とつぶやいた。
サキはそのやり取りを聞きながら、自分も最初は同じように思っていたことを思い出す。けれど、着てみて初めてわかったことがある。
「確かに、着物は着るのが大変だと思うかもしれません」
サキは静かに言葉を挟んだ。
「でも、実際に着てみると気持ちが変わるんです。姿勢が自然と正されて、ちょっと特別な気分になれるというか……」
サキのまっすぐな言葉に、孫娘は興味を持ったのか、少しだけ表情を和らげた。
「……そんなもの?」
「ええ。私は働き始めたばかりで、まだまだ勉強中ですけど……最初は『面倒くさい』って思ってたんです。でも、実際に着物を着てみて、その感覚が変わりました」
孫娘はちらりと祖母を見た。
「おばあちゃんは、どうしてそんなに私に着物を着てほしいの?」
祖母は優しく微笑んだ。
「きれいな着物を着たあなたを見たいのよ。それに、着物はね、着てみると、案外良いものよ」
孫娘は少し考え込み、サキの着物姿をじっと見つめた。
「……そういうものなのかな」
孫娘の母親はまだ迷っているようだったが、孫娘がそっと祖母の方へ歩み寄った。
「……じゃあ、おばあちゃんが選んでくれるなら、着てみようかな」
祖母の顔がぱっと明るくなった。
「本当に? それじゃあ、店員さん、この子に似合いそうな着物を見せてもらえる?」
「はい!」
サキは嬉しくなり、店主の方を振り返る。
志乃はじっとその様子を見ていたが、目を細めると静かにうなずいた。
「サキ、あなたが選んであげなさい」
「えっ?」
「さっきの言葉、なかなかよかったよ。だったら、どれがいいか考えて、お客さんにおすすめしなさい」
サキは驚いたが、深呼吸をして気持ちを落ち着かせた。
(私が、選ぶ……?)
けれど、このお店に来てから学んできたことが、少しずつ形になっている気がした。
「……かしこまりました」
サキは微笑み、店の奥に並んだ着物へと歩み寄った。
6
サキは慎重に着物を選んだ。
――この人が初めて着物を着るなら、あまり派手すぎず、それでいて若々しさを引き立てるものがいい。
何枚か手に取りながら悩んだ末に、淡い桜色の小紋を選ぶ。
「こちらはいかがでしょうか?」
サキが差し出すと、祖母は嬉しそうに目を細めた。
「まぁ、かわいらしいわねぇ」
孫娘もまじまじと着物を見つめる。
「意外と悪くないかも……」
「試着してみますか?」
サキの言葉に、娘は少し躊躇ったが、祖母に背中を押されるように試着室へ向かった。
しばらくして、娘が着物姿で姿を現す。
鏡の前に立った彼女は、驚いたように自分の姿を見つめていた。
「……思ったよりいいかも」
母親も娘の姿を見て、少し感心したようだった。
「確かに……姿勢が良くなっていつもより凛として見えますね」
祖母は嬉しそうに孫の手を握る。
「似合うわよ、すごく」
サキはその様子を見ながら、内心わくわくしていた。
(もしかしたら、買ってくれるのかな?)
だが、その期待は次の母親の一言で揺らぐ。
「でも、やっぱり高いわよね……」
母親は値札を見て、少しためらうように祖母へ視線を送った。
「そうねぇ……確かに、すぐに決められる金額じゃないわね」
祖母は考え込むように頷く。
孫娘も、「うーん……」と口ごもった。
「今日はちょっと考えます」
祖母が申し訳なさそうに言い、娘も着物を脱ぐために試着室に向かった。
サキは心のどこかで「決まる」と思っていた分、肩を落としてしまう。
(ダメだった……)
着物をたたみながら、サキは少しがっかりした気持ちを隠せなかった。
「ありがとうございました」
三人が店を出るのを見送り、静かになった店内。
ため息をつこうとしたそのとき、志乃が声をかけた。
「買ってくれなくて残念だって思ってる?」
「……はい」
サキは悔しそうに答える。
「でも、あの娘さん、最後には自分から、悪くないかもって言ってたわね」
志乃の言葉に、サキははっとする。そうだ。最初は「レンタルで十分」と言っていたのに、試着をして気持ちが変わっていた。
「それは、あなたの言葉が届いたからだと思うわ」
志乃は微笑み、静かに続ける。
「商売はね、一回で決まるものじゃないの。呉服屋は特にお直しがあるから、お客さまとは長い付き合いになるの。今日のことがきっかけになって、また来てくれるかもしれない。彼女が将来、着物を買うときに思い出してくれるかもしれない」
「……そう、なんですね」
「だから、落ち込むことはないわ。あなたの接客、悪くなかったわよ」
志乃にそう言われて、サキの胸の奥にじんわりと温かいものが広がる。
(私、ちゃんとこの店の店員になれてるのかも……)
そう思ったら、さっきの悔しさが、少しだけ誇らしさに変わった。
「……ありがとうございます」
サキは志乃に向かって深く頭を下げた。
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