第1章 第3話

   1


 アンナは空を見上げた。夜明け前の空は、まだ藍色の闇をまとっている。遠くに見える地平線がわずかに白み始めているが、秋が深まってきた空気はひんやりと冷たかった。街はまだ静まり返っている。


 新聞販売店の前で店主と数名のアルバイトが並んで印刷所から新聞を運ぶトラックを待っていた。アンナも同じようにトラックのヘッドライトが見えるのを待っている。新聞配達の仕事は覚えてしまえば変化がなかった。


 店主に仕事をしたいと言ったら、すぐに「じゃあ、明日から来い」と言われた。朝と夕方の新聞配達は、午前中のともしびの弁当配達とタイミングも良かった。特に履歴書も面接もなし。そういうゆるさも、アンナにはありがたかった。


「もう慣れたか?」


 店主の坂本が煙草をくわえながらアンナに聞いた。朝の冷たい空気の中で、煙がゆっくりと上っていく。


 アンナが頷くと「配る順番さえ覚えれば楽だろ。でも油断して配り間違えるなよ、クレーム来るからな」と言った。


「うん、わかった」


 アンナが返事をすると新聞を積んだトラックがやってきた。総出で紙の束を荷台から降ろすと、開封する。そして地域のチラシを一部ずつ差し込んでいく。大きな販売店では機械化されている作業だが、桑咲町の規模では人海戦術だった。


 新聞にチラシを折り込むとあとは配達作業である。アンナは自転車のカゴに新聞を積むと、ハンドルを握り直した。


 坂本の「気をつけてな」という声を背中に聞きながら、アンナはペダルを踏み出す。


 街はまだ眠っているようだった。街灯のオレンジ色の光だけが、道路の端をぼんやりと照らしている。時折、車が一台、二台と通り過ぎるが、人の気配はない。


 アンナは地図を頭の中に思い描きながら、一軒一軒新聞を投函していく。ポストの形も家の作りも違うから、最初は迷いそうになる。新聞を丸めて放り込むのが難しいポストもあれば、口が広くて楽に入るポストもある。


「だんだん身体が温まってきたなー」


 小さく呟きながら、次の家へ向かう。冷たい風が頬をかすめ、再び体の熱を奪っていく。配達作業の邪魔になるので手袋をしていない指先がかじかむ。でも、不思議と嫌な感じはしなかった。むしろ、まだ誰も動き出していないこの時間に、一人で街を走っているのが心地よかった。


 やがて、若葉住宅に辿り着く。


 広い敷地の中に、似たような団地が並んでいる。静まり返った建物は、夜の闇をそのまま抱えているように見えた。アンナは自転車を止め、一つずつ新聞を投函していく。


 ポストに新聞を差し込んだ瞬間、ふとカーテンが揺れるのが見えた。誰かがこちらを見ている気がする。


「……起きてるんだ」


 新聞を配る時間には、ほとんどの住人がまだ寝ていると思っていた。けれど、今の揺れ方は、ただの風ではない。


 もしかして、待っているのかもしれない――新聞が届くのを。


 アンナはポストに新聞を押し込む手を少しだけ優しくした。


 再びペダルを踏む。東の空が、わずかに明るくなってきていた。


   2


 毎朝の新聞配達を終えるとそのまま、アンナはすぐに「ともしび」へ向かった。


 店の入り口をくぐると、厨房から弁当の詰め作業をしている音が聞こえてくる。店内には湯気の立つ温かな香りが漂い、朝の冷たい空気を吸い込んだ身体がじんわりとほぐれていくようだった。


「おはようございまーす!」


「アンナちゃん、今日もよろしくね」


 店主の本田修一が、鍋をかき混ぜながら振り返る。その奥では妻の朋子が、弁当箱の蓋を一つずつ閉じていた。


「新聞配達で疲れてるでしょ?」


「ううん、大丈夫ー。何か手伝うよー」


 アンナはそう言いながら弁当箱を運ぶ。


「それならいいけど、無理しないようにな」


 そう言いながらも、本田の表情はどこか嬉しそうだった。アンナが元気に働いてくれて、店にとっても助かっていた。


 アンナは保温箱に詰められた弁当を確認し、リストを見ながら今日の配達先を頭に入れる。若葉住宅の住人たちへ届けるのが主な仕事だ。


「いってきまーす!」


 店を出て、自転車の荷台に弁当を乗せる。朝よりも少し暖かくなった風を感じながら、若葉住宅へ向かってペダルをこいだ。


「こんにちはー、お弁当でーす!」


 扉をノックしながら声をかけると、奥からゆっくりと足音が近づいてくる。


「はいはい、ご苦労さんねぇ……」


 ドアが少しだけ開き、中から皺の刻まれた顔が覗く。


「今日もありがとうねぇ」


「いえいえー、しっかり食べてねー」


 アンナが弁当を渡すと、おばあさんはふっと目を細めた。


「若い子がこうして元気に来てくれるとね、嬉しいんだよ」


 そう言って、飴玉をアンナの手にそっと握らせる。


「えへへー、ありがとうございます」


 若葉住宅の人たちはよくアンナに何かをくれる。飴やせんべい、お茶のペットボトル……どれもささやかなものだけれど、アンナはそれをもらうたびに少しだけ心が温かくなる気がしていた。


 それと同時に、どこか不思議な気持ちになる。


(なんで、みんな何かをくれるんだろう?)


 若葉住宅の住人たちは、新聞を受け取るときも、お弁当を受け取るときも、どこか嬉しそうだった。


 まるで、「誰かに何かを渡せること」が喜びのように見えた。


「それじゃあ、空のお弁当箱、貰っていくねー。また明日ねー!」


 そう言いながら自転車の荷台に空の弁当箱を入れ、サドルに跨るアンナの背中に、おばあさんの小さな声が届いた。


「……うん、待ってるよ」


 その声がやけに優しくて、少し切なかった。


   3


 新聞やお弁当の配達を続けるうちに、アンナは気づき始めた。


 まだ夜が明ける前にもかかわらず、起きて新聞を待っている。そしてお昼前には――。


「こんにちはー、お弁当でーす!」


 扉をノックすると、ほんの数秒でドアが開いた。


「待ってたよ、今日もありがとうねぇ」


 杖をついたおじいさんが、少し猫背のまま微笑んでいる。


「こんにちは! 今日のおかずは煮魚だよー」


 アンナが温かいお弁当を手渡すと、おじいさんは「へぇ、楽しみだねえ」と言いながら、そっと受け取る。


「そうだ、ちょっと待ってな」


 奥へ引っ込むと、しばらくして手に紙袋を持って戻ってきた。


「これ、余ってるから持っていきなさい」


 渡されたのは、小さな箱に入った羊羹だった。


「あ、ありがとー!」


 朝夕の新聞配達でも、昼の弁当配達でも、何かをもらうことが増えてきた。最初は「申し訳ないな」と思っていたが、何度も繰り返されるうちに、アンナはふと考えるようになった。


――もしかして、みんな、私に会うのを楽しみにしてる?


 新聞を配るとき、カーテンの隙間から誰かが覗いていることがある。お弁当や夕刊を届けると、すぐに扉を開けてくれる人がいる。


「また明日も来てくれるんだろう?」


 そんな言葉をかけられるたび、アンナは不思議な気持ちになった。


(私がここに来るのを、待っていてくれるんだ)


 新聞を届けること。お弁当を渡すこと。それはただの仕事のはずなのに、誰かが自分を待っていてくれるという事実が、思った以上に心に響いた。


「……それじゃ、また明日ねー!」


 アンナが笑顔で手を振ると、おじいさんもゆっくりと手を上げた。


 帰り道、自転車を漕ぎながら、アンナはポケットの羊羹を指でなぞった。


 朝、新聞を受け取ったおばあさんも、昼、お弁当を受け取ったおじいさんも、みんな何かを渡そうとする。それはアンナには馴染みのない習慣だった。


(どうして、みんな何かをくれるんだろう?)


 自分だったら、こんな風に人に何かを渡したいと思うだろうか。きっと、お礼の気持ちはあるけれど、それだけじゃない気がする。


 アンナは前を見つめたまま、ゆっくりと息を吐いた。


 今日も誰かが待っていてくれる。そのことが、ほんの少しだけ、嬉しかった。


   4


 夜。アンナはチエとサキと共に、小さなテーブルを囲んで夕食をとっていた。


「今日もお仕事お疲れさま」


 サキが湯気の立つ味噌汁を手にしながら言う。


「つ、疲れてない?」


 チエは毎日心配そうに言う。


「うん。思ったより全然平気。むしろ楽しいくらい」


 アンナは笑いながら、ご飯をかき込んだ。朝の新聞配達に午前中のお弁当配達、そして夕方前に夕刊の配達。確かに忙しい毎日を過ごしているが、誰かが自分を待っていてくれることが不思議と心地良かった。


「でもさ、なんか変な感じなんだよね」


 箸を止めて、アンナは二人を見た。


「へ、変な感じ?」


 チエが小さく首を傾げる。


「うん。新聞を配るときも、お弁当を届けるときも、みんなすごく嬉しそうなんだよ。それで、お礼にって、飴とかお菓子とかをくれるの」


 そう言うと、チエとサキが顔を見合わせた。


「それって、単にアンナが可愛いからじゃない?」


 サキがからかうように笑う。


「最初はそうかと思ったんだけどねー。って、ちがうって!」


 アンナは冗談でノリツッコミをすると、すぐに真面目な顔になった。


「なんていうか……みんな、誰かに何かを渡したがってるように見えるんだよね。それって、なんでなのかなって思って」


 その言葉に、チエが少し考え込むように目を伏せた。


「……だ、誰かと関わりたいから……、じゃ、ないかな」


「関わりたい?」


「う、うん。上手く言えないけど。……お弁当を受け取るだけじゃなくて、何かを渡すことで、……社会とつながっていたいんじゃないかな……」


 チエの声は静かだったが、その言葉は妙に説得力があった。


 サキも腕を組みながら、ゆっくりと頷く。


「確かに、若葉住宅の人たちって、一日中誰とも話さないことが多いのかもね。スーパーに行くのも面倒になるし、家にずっといることも多いだろうし……」


「そっかぁー」


 アンナは箸を置き、ぼんやりと今日のことを思い返した。


 待っている人たち。何かを渡してくれる人たち。その行動の意味が、ようやく少し分かった気がした。


「私たちはさ、まだ夢とかやりたいこととか、これから考えられる。でも……」


 アンナは言葉を探すように、天井を見上げた。


「……あの人たちには、そういうのがないのかもしれない」


 静かな部屋に、三人の呼吸の音だけが響いた。


「でも、誰かの役に立つことが、あの人たちの生きがいになってるのかもしれないね」


 サキがぽつりと言った。


 アンナは少し驚いた顔をしたあと、ふっと笑った。


「二人はすごいねー。私、そんな風に考えたこともなかったよー」


 チエも微笑み、そっと湯呑みを手に取る。


「ア、アンナが話してくれたから……き、気付けたことだね」


「そっかぁー」


 アンナは少しだけ誇らしい気持ちになりながら、味噌汁を一口飲んだ。


 新聞を届けること。お弁当を渡すこと。そこに、ただの仕事以上の意味があるなんて、思ってもみなかった。


 でも、もしかしたら――


(私がここにいることが、誰かの支えになってるのかもしれない)


 その考えが、ほんの少しだけ、アンナの胸を温かくした。


   5


 朝の冷たい空気の中、アンナはいつものように新聞を自転車のカゴに積み込み、ペダルを踏み込んだ。まだ薄暗い道を走りながら、昨夜の会話を思い出していた。


「誰かと――社会と関わりたいから、何かを渡す」


 チエの言葉が、心の中にゆっくりと染み込んでいく。


――そうなのかもしれない。


 新聞を届けると、いつものおばあちゃんが玄関の隙間から顔をのぞかせた。


「おはよう、アンナちゃん」


「おはよー!」


 新聞をポストに入れるだけで終わるはずの配達だけれど、このおばあちゃんはいつも顔を見せてくれる。


「寒いでしょう。これ、持っていきなさいな」


 差し出されたのは、小さな缶コーヒーだった。


「わぁ、ありがとー!」


 アンナは素直に喜び、缶を手に取る。ふわりと広がる温かさが、手のひらからじんわりと伝わってくる。


「いつもありがとうね。新聞が届くと、朝が始まる気がするのよ」


 その言葉に、アンナはハッとした。


――新聞が届くことで、朝が始まる。


 それはつまり、生きていることを感じる瞬間なのかもしれない。


「また明日も新聞、持ってくるからねー!」


 アンナは元気よく手を振り、自転車をこぎ出した。


 昼になると、「ともしび」のお弁当をカゴに詰め込み、住宅街を回る。扉をノックすると、ゆっくりと玄関が開いた。


「今日もありがとうね、アンナちゃん」


 年配の女性が、お弁当を受け取りながら微笑む。


「おばあちゃん、今日はおかずがいつもより豪華だと思うよー!」


「あらあら、それは楽しみね」


 すると、奥の方からふらりともう一人のおじいちゃんが顔を出した。


「お、アンナちゃんか。ちょっと待っとれよ」


 そう言うと、古びた戸棚を開け、包みを取り出した。


「これ、好きだったら持っていきなさい」


 包みを開くと、中には懐かしい駄菓子がぎっしりと詰まっていた。


「うわぁー、懐かしい! いいの?」


「あんたが喜んでくれるなら、それが一番うれしいんじゃ」


 アンナは少し考えてから、おじいちゃんの顔をじっと見た。


「ねえ、おじいちゃんも一緒に食べようよ!」


「え?」


「私だけもらうのはなんか悪いし、おじいちゃん、おばあちゃんと一緒に食べる方が、きっと美味しいよ」


 すると、おじいちゃんは驚いたように目を丸くした後、ふっと優しい笑みを浮かべた。


「そうかい。でも、せっかくだから一緒に食べるか」


「夕刊の配達が終わったら食べにくるよー。あっ!そのときさ、一緒に住んでる二人も連れてきていい?」


「もちろんだとも」


 おじいちゃんは最高の笑顔をアンナに向けた。


 その日の夕方、サキとチエはアンナに連れられて縁側に並んで座り、おじいちゃんたちと駄菓子を食べた。昔話を聞いたり、近所の話をしたり――それだけなのに、なんだか心があたたかくなった。


(そっか……こういうことなのかも)


 誰かに何かを渡すこと。誰かと関わること。


 それはただ「誰かの役に立ちたい」だけじゃない。


――社会の一部だと感じたいってことなのかもしれない。


 日が暮れた帰り道、アンナは桑咲町の空を見上げた。


 今日も、新聞を配って、お弁当を配って、たくさんの「ありがとう」をもらった。


「……なんか、悪くないかも」


 誰かのために動くことで、自分もまた、誰かとつながっていく。


 それが、若葉住宅の人たちにとっても、自分にとっても、大事なことなんだと――アンナは少しだけ理解し始めていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る