第1章 第5話
1
窓の外から差し込む日差しは、冬に向かう季節の穏やかさを感じさせた。しかし、チエの胸の中は重苦しいままだった。部屋の隅に畳まれた洗濯物を見つめながら、彼女はそっとため息をつく。
アンナは朝早くから配達の仕事に出かけ、サキも呉服屋で忙しそうにしている。二人が家を出てから、静まり返った部屋には、チエの心のざわめきだけが残されていた。
「ゆっくり仕事を探せばいいよ」
アンナもサキも、そう言ってくれる。彼女たちは決してチエを急かさないし、家事をしていることに感謝もしてくれる。でも、チエはどこかで「このままではいけない」と思っていた。
二人のためにと、洗濯や掃除、料理をこなしている。でも、それはただの「役割」に過ぎないような気がしていた。二人が頑張っているのを間近で見ているからこそ、自分も何かしなければならないと感じてしまう。
カーテンの隙間から見える青空は、どこまでも広がっていた。それを見ていると、自分だけが小さな箱の中に閉じ込められているような気分になる。
「わ、私も、何かできるはず……」
洗濯ものをたたみ終えたチエは、手元にあった求人情報誌を開く。求人は綾宮駅の周辺が多い。最寄り駅である桑咲駅の求人はほとんど載っていない。
「はぁ……」
チエはため息をつく。どの仕事でも自分が働く姿を想像できなかった。電話をかけること、面接を受けること、初対面の人と話すこと――そのすべてが、壁のように立ちはだかっている。
チエは求人情報をゆっくりとめくる。指先に感じる紙のざらつきだけが、彼女を現実につなぎ止めていた。
「どうしたら、いいんだろう…」
心の中でつぶやく言葉は、誰にも届かないまま、静かな部屋に溶けて消えた。
2
昼下がり、チエは若葉住宅の近くにある商店街――と言っても、数軒のお店が並んでいるだけだが――を歩いていた。商店の窓ガラスには淡い光が差し込んでいる。
アンナがお弁当を配達してる喫茶「ともしび」の前は急ぎ足で通る。アンナが居なくてほっとした気持ちになる。
日課である家事を一通り終え、どうにも落ち着かない気持ちのまま外に出てきたのだ。行くあてもなく彷徨う中、いつの間にか足は古本屋の前に辿り着いていた。
「古本屋 すぎもと」と書かれた小さな木の看板。ガラス越しに店内を覗くと、壁一面に本が詰まっている。どこかほこりっぽく、古い紙の匂いが漂う場所。チエにとって、そこはほっとできる空間だった。
チエは力を入れて、建付けの悪くなってしまったガラスの引き戸を開ける。ガラガラという音が響く。店の中に入ると、重みのある空気がチエを包み込んだ。カウンターの奥では、店主の杉本重蔵が本を手にしていた。彼は70歳を過ぎた小柄な老人で、少し猫背だが落ち着いた佇まいをしている。
「あ…」
チエが音を立てないように足を進めると、杉本が顔を上げた。薄い眼鏡の奥から、静かな視線がチエを捉える。
「いらっしゃい」
彼の声は低く、落ち着いていた。特別な歓迎も、必要以上の声かけもない。チエはその距離感が心地よかった。
本棚を見て回りながら、チエは何度も同じ棚を行ったり来たりする。探している本があるわけではない。ただ、古い本の背表紙を指でなぞる感覚が好きだった。
「この間、買って行った本、どうだった?」
唐突に、杉本の声が背後から聞こえた。チエの背筋がピンと伸びる。
「え……、あ、あの……、す、すみません……」
うつむいたまま、チエは店を飛び出してしまった。
商店街の路地を駆け抜け、人気のない道に出ると、ようやく足を止めた。息を切らしながら振り返ると、古本屋はもう見えなかった。
「ど、どうしよう……、逃げちゃった……」
自分に失望するように、チエは呟いた。温かな場所だったはずなのに、自分からそのぬくもりを拒んでしまったような気がして、胸が痛んだ。
それ以来、チエは古本屋に足を運べなくなった。あの静かな店内の風景を思い出すたびに、杉本の優しい視線が心の奥に残り、チエは小さく震えた。
3
どんよりとした曇り空の下、チエは市営住宅の路地を歩いていた。今日は近くの商店でアンナとサキが好きな食材を買って、夕食に少しでも喜んでもらおうと思っていた。
「ふ、古本屋さん……、まだ開いてるかな…」
足は自然と、商店街の一角にある「古本屋 すぎもと」へと向かっていた。しばらく遠ざかっていた場所。それでも、心のどこかでずっと引っかかっていた。
店の前に差し掛かると、ガラス越しに見える本棚がいつもより暗く感じられた。張り紙もなく、ただ静かにシャッターが半分だけ下りている。
「……もう閉めちゃったのかな」
胸がぎゅっと痛んだ。チエがその場を立ち去ろうとしたそのとき、背後から聞き慣れた声がした。
「あ、お嬢さん」
振り向くと、店主の杉本重蔵が店の裏口から出てくるところだった。チエは足早にその場から離れようとしてしまう。
「あっ、ちょ、ちょっと待ってくれ」
チエが立ち止まり、振り返ると彼は一瞬微笑んだように見えた。しかし、その直後、彼の顔が苦痛に歪む。
「うっ…」
杉本は胸を押さえ、よろけながら壁に手をつく。身体が崩れ落ち、かすかなうめき声が聞こえた。
「お、おじいさん!」
チエにしては大きな声を上げて駆け寄り、震える手で彼の背中を支える。彼の顔は青白く、額には冷や汗が浮かんでいた。
「だ、大丈夫ですか? 救急車……!」
「だいじょうぶ……、ちょっと、貧血みたいなもんだ……」
杉本は弱々しく手を振り、チエを落ち着かせようとしたが、その息は浅く、途切れ途切れだった。
「座ってください、少し休みましょう」
チエは杉本の体を支え、お店の中に誘導する。彼はゆっくりといつも座っているレジの椅子に腰を下ろし、深く息を吐いた。
「す、すみません……わ、私……」
チエの目には涙がにじんでいた。
「いや…、助かったよ」
杉本は少しずつ呼吸を整えながら、鞄の中から一冊の本を取り出した。それは、チエが以前探していた本の続編だった。
「この前、買って行っただろう? 続きが手に入ったんだ……渡したくて、声をかけたんだが…」
彼の手の中の本は、少し色あせていた。
「わ、私に…?」
「ずっと、来なかったから、もう来ないのかと思ったよ」
彼の静かな声が、チエの心に染み入った。杉本の手の温かさを感じたその瞬間、彼がどれほど自分のことを気にかけてくれていたのかに気づいた。
「あ、ありがとう……ございます……」
震える声で、チエはその本を受け取った。彼女の手の中で、その本の重みはずっしりと感じた。
4
数日後、チエは再び「古本屋 すぎもと」の前に立っていた。曇り空の下、店のガラス戸にはまだ「営業中」の札が掛かっている。
手に握りしめた本は、杉本からもらった続編だ。ページをめくるたびに、彼の優しい声が脳裏に浮かぶ。あの時、彼にちゃんとお礼を伝えられなかったことが心に引っかかっていた。
「今日は、ちゃんと言わなきゃ…」
ガラガラと扉を開き、店内に一歩足を踏み入れる。だが、普段よりも暗い室内に、杉本の姿は見当たらなかった。
「おじいさん……?」
返事はない。しばらく立ち尽くしていると、カウンターの奥からゆっくりと彼が姿を現した。彼の顔は一層やつれ、足元もおぼつかない。
「やあ、お嬢さん……来てくれたんだね」
「は、はい……。この間はありがとうございました。ちゃんとお礼が言いたくて……」
チエは小さく頭を下げた。杉本はかすかに微笑むが、その笑顔には元気が感じられない。
「ど、どうしたんですか? た、体調……、良くないんですか?」
「まぁね。最近は、ちょっと無理が効かなくてな…」
杉本はカウンターの椅子に腰を下ろし、ため息をついた。静かな店内に、その音が重たく響く。
「実は、店を畳もうかと思っているんだよ」
「え…?」
思わず、チエは声を漏らした。
「もう、身体がついてこないし、妻も亡くなってからは余計にね。お客さんも減ったし、無理しても仕方がないと思ってさ」
彼の声は静かで、どこか諦めを含んでいた。チエは言葉を失ったまま、ただその姿を見つめることしかできなかった。
「長い間やってきたけど、もういいかなって」
チエはその言葉を聞きながら店内を見渡す。本棚にはぎっしりと本が並べられている。
チエの目線に気付いた杉本は「残った本は処分するか、引き取ってくれるところを探すつもりだよ」と静かに言った。彼は棚に並んだ本を見渡し、寂しげに目を細めた。その視線の先にある、色褪せた背表紙の一冊一冊が、彼の人生の積み重ねのように思えた。
「…そ、そうですか…」
何か言わなければと思うのに、喉が締めつけられるように声が出ない。杉本が本を手放すということ、その店が消えてしまうという現実が、チエの心に重くのしかかる。
「わ、私……、本当に、好きだったんです。このお店……」
やっとの思いで絞り出した声は、か細く震えていた。
「ありがとう、そう言ってもらえるだけで十分だよ」
杉本の言葉は優しいが、チエはそのまま店を飛び出した。扉の鈴が鳴る音も、自分の足音も、まるで他人事のように遠く聞こえる。
外に出ると、冷たい風が頬を撫でた。曇り空の下、チエはぼんやりと歩き出す。
「わ、私に、何ができるんだろう…」
何かしたい、でも何もできない。自分の小ささ、無力さが、チエを深い沼のような感情に沈めていく。
アンナもサキも、自分の力で前に進んでいる。それなのに、チエはただ立ち尽くしているだけだ。大切な場所がなくなっていくのを、見ていることしかできない。
涙が頬を伝い、気づかぬうちに視界が滲んだ。
「ど、どうしたら…」
ポツリとつぶやいた声は、風に消されてしまった。
チエは一歩一歩、重たい足を引きずるようにして帰路についた。心の中で何度も繰り返される「何もできない」という言葉が、胸を締めつけ続けた。
5
チエだけが残された部屋。カーテン越しに差し込む太陽の灯りが、部屋に差し込んでいる。
チエは机に座り、本のページをめくる手を止める。目の前に広がる活字が、まるで何も意味を持たないただの記号に見えた。
――何もできない。
その言葉が頭の中で渦を巻く。あの日、杉本の寂しげな声と、店内に漂う閉塞感が、何度も何度も心を叩いた。
「こ、このままじゃ……、ダメだよね」
呟いてみても、返事はない。アンナもサキも仕事に出ていて、今は家にいない。家事をこなすことでしか自分の存在価値を見出せないような日々。自分は何ができるのか。その思いが、胸の奥でくすぶっている。
彼女は静かに立ち上がり、棚に置かれた一冊の本に手を伸ばす。杉本からもらった、あの続編の本だ。
チエは本を抱きしめ、その重みを確かめる。思いが巡る。店を畳もうとする杉本の姿、そして自分の無力感。でも、このままでいいのだろうか?
やがて、彼女の目に小さな光が灯る。
「……行こう」
意を決して、チエは上着を羽織り、外に飛び出した。
チエは「古本屋 すぎもと」の前に立っていた。シャッターは半分閉じられ、店内は薄暗い。彼女は小さく息を吐き、震える手でガラス戸を引いた。
「おじいさん……いらっしゃいますか?」
店内には静寂が満ちている。チエが一歩踏み出すと、軋む床の音が響く。
「お嬢さんかい?」
奥のカウンターから、杉本が姿を現した。彼の顔は相変わらず青白く、少し疲れた様子だが、彼女を見るとわずかに口元を緩めた。
「どうしたんだい?」
「あ、あの……、お、お願いがあって、来ました」
チエは深く頭を下げる。その姿に杉本は目を見開いた。
「お願い、って?」
「ど、どうか……、お、お店を手伝わせて、ください」
その言葉は、チエの中でずっと燻っていた思いがやっと言葉になった瞬間だった。
杉本は驚いたように眉を上げ、少し黙ったあと、苦笑いを浮かべた。
「無理だよ、そんなこと。店はもう畳むつもりなんだ」
「で、でも…!」
チエは顔を上げ、杉本の目を真っ直ぐに見つめた。
「私、このお店が大好きなんです。本も、おじいさんも……わ、私、何もできないって思ってたけど……、で、でも、何かしたいんです!」
彼女の目には涙がにじんでいた。震える声に、彼女自身の不安と、それを越えたいという強い意志が込められていた。
杉本は小さく息を吐き、視線を棚の方へと逸らした。
「お嬢さん…店を手伝うって言ったって、大した売り上げもないんだよ。お給料だって、ほとんど出せないかもしれない。それに、私の体もいつまで持つか分からないんだ」
「それでも、いいです」
チエは一歩、杉本に近づく。彼女の小さな手は、震えながらも強く握りしめられていた。
「わ、私……ここで何かをしたいんです。おじいさんが一人で全部やるのは大変だし、私も少しでも力になれたら……」
杉本は黙って彼女を見つめた。その目には、彼自身の中にある葛藤が映っていた。孤独、諦め、そしてかすかな希望。
「…本気かい?」
「はい」
その短い返事に、彼女の決意が詰まっていた。杉本はしばらく考え込んだあと、ゆっくりと頷いた。
「杉本って言うんだ」
「えっ……?」
「わしの名前。手伝ってくれるなら、おじいさんじゃなくて、杉本さんって呼んでくれるかい?」
杉本は照れたような表情をする。
「ありがとうございます!」
チエは深く頭を下げ、目元に溢れた涙を袖で拭った。杉本は小さく笑い、彼女の肩に手を置いた。
「じゃあ、まずは簡単なことから手伝ってもらおうか……」
店内に、少しだけ暖かい空気が流れたように感じた。二人の間に、確かに生まれた絆。それはまだ細くて頼りない糸かもしれないが、確かに繋がっていた。
チエは小さな手を胸に当て、鼓動を感じていた。自分が何かを変えられるかもしれないという、希望の鼓動だった。
チエの新しい一歩が、古びた古書店の店内に響いた。
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