第1章 第2話
1
柔らかな朝の光が、カーテンがまだ取り付いていない、すりガラスから差し込んでいる。
チエはゆっくりと目を覚ます。まだ少し眠気が残るが、隣を見るとサキはすでに起きていた。
「あ、おはよう……サキ」
「おはよう、チエ。よく眠れた?」
「う、うん……まあまあかな。な、なんだか、昔を思い出しちゃって」
「わかる。あの頃と同じようで、でもちょっと違うよね」
サキは布団の上に座りながら、ぼんやりと窓の外を見ていた。静かな朝。どこかで鳥が鳴く声がかすかに聞こえる。同じ部屋にアンナとサキがいる。半年前までは当たり前だったけど、今はすごく懐かしい気がした。
「それにしても、アンナはよく寝るね」
サキの言葉にチエが苦笑しながらアンナの方を見ると、アンナは布団にくるまったまま、気持ちよさそうに寝息を立てていた。
「……むにゃ、お腹空いたね」
「……え?」
チエとサキが顔を見合わせる。アンナはまだ目を閉じているが、無意識にそう呟いた。
「……アンナ?」
「んん……お腹空いた……」
もぞもぞと布団の中で動いたかと思うと、ゆっくりと瞼を開く。
「……あれ、朝?」
「そうだよ」
「そっかー」
アンナは寝転がったまま大きく伸びをすると、そのままごろんと仰向けになり、天井を見上げた。
「朝ごはん……何食べようか」
「起き抜けにそれ?」
サキが呆れたように言うと、チエも笑って「で、でも……。確かにお腹空いたね」と頷いた。
2
チエは身支度を整えると外の空気が吸いたくなり、一足先に外へ出た。
庭へと続く大きな窓を開けると、清々しい朝の空気が広がっている。空は快晴。ひんやりとした風が頬を撫でた。
ふと隣の庭を見ると、静江の姿が目に入った。
チエは玄関から靴を取りに行き、庭に出ると、静江が庭で何か作業をしている。
「あ、おはようございます……」
「あら、おはよう、チエちゃん。早起きね」
「い、いえ、いつも通りです……。あ、あの。お布団ありがとうございました……」
チエがお礼を言うと、静江は作業の手を止めてチエの方へ身体を向けた。
「いいのよ。ご近所さんは助け合い。私たちはおじいちゃん、おばあちゃんだから、これから三人に助けてもらうことの方が多いと思うわ」
静江はお茶目な笑顔でそう言った。チエは何と答えて良いのか困って「あ、あの……何をしているんですか?」と質問した。
「家庭菜園よ。ほら、ここにね、大根と白菜、それからネギも植えてるの」
静江は長屋の裏手にある庭を家庭菜園として利用していた。本来は各住宅の駐車場となるスペースで、車が一台停められるスペースがある。
チエは静江の作る野菜を興味深そうに覗き込んだ。大根の葉が青々と広がり、白菜はふんわりと結球し始めている。ネギは細長く、すっと伸びていた。
「す、すごいですね。こ、こんなに立派に育つなんて……」
「これから寒くなるから、お鍋にぴったりなのよ」
静江が微笑む。その表情には、どこか愛情がこもっていた。
「そ、育てるって……、や、やっぱり大変ですか?」
「最初はね。でも、慣れれば楽しいものよ」
チエが野菜をじっと見つめていると、部屋の窓が開く音が聞こえた。
「チエ、何してるの?」
サキが窓から顔を出す。続けてアンナが庭を覗き「あっ!野菜がいっぱい!」と言った。
静江はサキとアンナにも朝の挨拶をした。アンナも庭に出ようとして、靴がないことに気が付く。それでも裸足で外に出ようとするアンナをサキが制止する。
「アンナ、お腹空いてるんじゃなかったの?」
「うん、だから早く朝ごはん食べに行こうよ」
アンナが無邪気に笑うと、静江がくすっと笑った。
「この辺りはね、モーニングが有名なの。せっかくだから、朝ごはん食べておいでなさい」
「えっ、モーニング?」
「喫茶店に行くとね、コーヒーを頼むだけでトーストとかサラダとか、いろいろついてくるのよ」
「えっ、すごくない!?」
アンナが目を輝かせる。
「それ、絶対行かなきゃじゃん!」
「朝ごはん、喫茶店で食べるのもいいかもね」
サキも頷き、チエも「せっかくだし」と賛成した。
「じゃあ、準備して行こうか!」
バタバタと部屋へ戻って行く三人の姿を、静江は嬉しそうに見守っていた。
3
三人は柳田静江に勧められるがままに「珈琲ともしび」の扉を押した。扉についた鈴が軽やかに鳴り、小さな店内にコーヒーの香ばしい香りが漂う。
朝食には少し遅い時間になってしまったので、お客さんは誰も居なかった。カウンターの奥では白髪交じりの老紳士が静かに鍋をかき回し、ホールでは小柄な老婦人が笑顔で迎えてくれた。
「いらっしゃい。あら、見かけない顔ね」
ホールの老婦人――本田朋子は、目尻にしわを寄せて三人を見つめる。
「すぐ近くに越してきたんだよー。柳田さんに勧められて、モーニングを食べに来ました」
アンナがそう言うと、朋子は「まぁ、嬉しいわねぇ」と破顔した。
「それに、柳田さんが? ふふ、あの人ったら、うちの宣伝までしてくれたのね」
「ええ、よくしてもらってるんです。朝ごはんを食べるならここがいいって」
サキが答える。
「そう言ってもらえて嬉しいわ。じゃあ、モーニングね。トーストと卵、サラダとスープがつくけど、それでいい?」
「もちろんです!」
朋子が陽の当たるテーブル席に三人を誘導し、メニューを開く。
「飲み物は何にしようかしら?」
朋子が開いたメニューを見ると、たくさんのドリンクメニューが並んでいる。
「私はカフェオレ!」
アンナがメニューを見てすぐに答えると、チエも「同じものを」と答えた。二人がすぐに決めてしまって困った顔のチエも「わ、私も……」と答えた。
「カフェオレを3つね。全部ホットで良かったかしら?」
三人が笑顔で頷くと、朋子は「はいはい、出来るまで少しだけ待っててね」とキッチンへ向かった。
カウンターの奥では、店主の修一が黙々と作業を続けていた。静かだが、手際は見事だ。トーストを焼く間に、小鍋でスープを温め、サラダの準備も進めている。
三人は料理が届く間、店内を見渡した。年季の入った木製の椅子とテーブル、壁に飾られたアンティーク調の時計、そして棚にはコーヒーカップやお皿がびっしりと並んでいた。昭和の香りが漂う、どこか懐かしい空間。
「す、すごく良いお店だね」
チエがぽつりと言う。
「うん。こういう喫茶店、最近はあんまり見かけないもんね」と、サキも頷く。
ほどなくして、朋子がトレーを持って戻ってきた。
「はい、お待ちどうさま」
トーストは分厚く、表面はきつね色に焼かれ、バターがじわりと染み込んでいる。脇には小さなガラスの器に入った手作りの苺ジャム。
スープは白く濁ったポタージュで、湯気とともに優しい香りが立ち上る。
「……すごく美味しそう」
アンナが思わず呟くと、朋子は目を細めた。
「うちのモーニングは、主人のこだわりが詰まってるのよ。ねぇ、あなた」
朋子に声をかけられた修一は、一瞬だけ三人を見て、静かに「口に合えばいいけど」と呟いた。
「じゃあ、いただきます!」三人は手を合わせ、さっそくトーストをかじる。
「んっ、美味しい!」
サクッとした歯ごたえのあと、じゅわりと広がるバターの香り。ジャムをつけると、苺の甘酸っぱさが絶妙に絡み合う。
「ス、スープも……すごく優しい味」
チエがスプーンを口に運び、目を丸くする。
「このスープ、何が入ってるんですか?」
アンナが尋ねると、朋子はくすっと笑った。
「それはね、はい。あなた」
カウンターの奥で作業をしていた修一が、静かに口を開いた。
「ポタージュの基本だよ。タマネギとジャガイモをじっくり炒めて、丁寧に煮込む。余計なものは入れない」
「シンプルな材料なのに、こんなに奥深い味になるんですね」
チエが驚いたように言うと、朋子が嬉しそうに頷いた。
「それもそのはず。うちの主人は、昔、有名なホテルのレストランでシェフをやってたのよ」
「えっ、ホテルの?」
三人が目を見開く。
「まぁ、シェフって言ってもな。俺は料理長ってほどの立場じゃなかったけどな」
修一は照れ臭そうに言いながら、お皿を丁寧に拭いている。
「それでも、有名ホテルの厨房で腕を振るってたんですよね?」
サキが興味深げに聞くと、朋子が微笑みながら続けた。
「そうよ。あの頃の主人は、料理にはやたらと厳しくてね。厨房じゃみんなに怖がられてたんだから」
「ふふっ、なんか想像できますね」
アンナがいたずらっぽく笑うと、修一はわずかに肩をすくめた。
「美味しいものを食べて欲しいだけだ」
「でも、そんな堅物だった主人もね、私の作ったケーキを食べたときだけは、素直に美味しいって言ってくれたのよ」
「へぇ、それって……」
サキが言葉を探すと、朋子は少し照れたように笑った。
「私も、同じホテルの厨房でデザートを担当してたの」
「じゃあ、職場結婚ってことですか?」
アンナが目を輝かせる。
「まぁ、そうね。私も主人も自分の店を持つのが夢でね、それが目標だったの。だから、ある程度経験を積んだら独立しようって決めてたのよ」
「それで、このお店を?」
「そう。ここはね、商店街がまだ活気づいていた頃に開いたのよ。昔はね、このあたりも賑やかだったのよ」
朋子の視線が、店の窓から外へ向けられる。
「そうだったんですか……」
チエがそっと呟く。
「最初は順調だったんだけどね。商店街がだんだん寂しくなっていくと、うちの店も客足が減ってね……でも、やっぱりこの店をたたむわけにはいかないのよ」
朋子の言葉には、揺るぎない決意が感じられた。
「それに、私たちにはまだ、やれることがあるはずだから」
その言葉を聞いて、アンナ、チエ、サキの3人は互いに顔を見合わせた。
4
「三人とも近くから越してきたの?」
三人が食事をする様子を少し離れたテーブル席に座って嬉しそうに見守っていた朋子が、三人に質問する。
トーストを持ったサキが「いいえ。遠くです」と答える。
「この辺りは喫茶店文化が有名なのよ」
「喫茶店文化……?」
アンナが少し首をかしげると、朋子は「そうよ」とうなずいて続けた。
「綾宮の周辺は繊維で栄えた地域なの。機織りの機械は見たことあるかしら?」
三人は朋子の問いに顔を見合わせて、そして首を横に振った。
「繊維機械はすごくうるさいのよ。だからお客さんが来ても工場でゆっくりお話しできないでしょ。だから喫茶店が多いの」
「なるほど。お客さんと打ち合わせするために喫茶店を使うんですね」とサキが答える。
「そうそう。だからそれぞれのお店はお客さんに来てもらうために、どんどんサービスを豪華にしていったの。それでモーニングが有名になったのよ。飲み物を頼むとトーストやゆで卵がついてくるのが当たり前で、お店によってはサラダや茶碗蒸しなんかもつくわよ」
「すごい、お得だよねー」アンナが感心したように頷く。
「サービスが豪華だとお店側は大変ですね」サキが質問すると、朋子が少し困った顔をする。しかし、すぐに笑顔に戻る。
「だから、この辺りの人は喫茶店で朝ごはんを食べるのが習慣になっているの。うちもそうだけど、昔からやってる店は常連さんが決まっていてね、開店と同時に来てくれて、朝のひとときにおしゃべりを楽しんでいくのよ」
「お店は朝だけですか?」
「うちはね、お昼はお弁当を作ってるのよ」
「お店で食べるんですか?」
「そう。店内で食べても良いけど。この辺りは、年寄りが多いでしょ。だから、なかなか足を運べない人もいるのよ。だから、配達をしているの」
「それに、うちは夜も営業しているのよ」
「夜も?」三人は驚いた顔で朋子を見る。
「ええ、ただし、夜は予約限定なの」
朋子は楽しそうに笑った。
「主人が昔、ホテルのシェフをやってたのはさっき話したわよね? だから、夜はちょっと特別なメニューを出してるのよ」
「えっ、そんな有名ホテルの本格的な料理が?」
サキが驚いたように身を乗り出した。
「うふふ、そうよ。ホテルのレストランほどじゃないけど、主人の腕はまだまだ健在だからね。知る人ぞ知る、隠れた名店なのよ」
「へぇ~……そんな店が近くにあるなんて!」
アンナは目を輝かせた。
「朝は気軽な喫茶店、お昼はお弁当。そして、夜はちょっと特別なレストラン。そういう営業を続けてこられたのも、ここに住むみなさんのおかげなのよ」
朋子の言葉に、三人は改めて店内を見渡した。どこか懐かしく、居心地のいい空間。お客さんを大切にしてくれるお店だからこそ、長年営業を続けてこれたのだろう。
5
「私たちは70歳を越えてしまったけど、まだ、やれることがあるはずだから」
朋子の言葉が店内に静かに響いた。三人は朋子と修一のお店にかける考えを胸にしながら、残りの食事を口に運ぶ。話を聞きくと二人の作る温かい味が、体の奥まで染みわたるようだった。
カウンターの奥でお昼の仕込みを始めた修一が、不意に口を開いた。
「ところで、三人とも。仕事は決まってるのかい?」
その問いかけに、三人は顔を見合わせる。最初にサキがため息混じりに口を開く。
「いえ。まだ……これから探さないと」
「わ、私も……」と、チエも控えめに続ける。
「何とかなるでしょー」と、アンナだけは気楽に構えていた。
修一は黙って三人の顔を見渡し、ゆっくりとうなずいた。
「この辺りはなかなか仕事はないからな。若い者はみんな出て行ってしまう。残っているのはわしら老人だけだ」
その言葉には、どこか寂しさがにじんでいた。
「そうなんですね……」
サキがぽつりと呟く。確かに、綾宮駅まで出ればショッピングモールや企業のビルが並んでいるが、このあたりは古い商店街と住宅街ばかりで、若者の姿はほとんど見かけない。
「うちはもうずっとここで店をやってるが、昔はもっと活気があったもんさ」
修一は遠くを見るような目をしていた。
「それなら、私たちがここに住んで働いたら、ちょっとは変わるかもしれないよねー」
アンナが明るい声で言うと、朋子が少し目を丸くして笑った。
「そうね。そうやって考えてくれる若い子がいるだけで、なんだか嬉しいわ」
「……でも、やっぱり仕事がなきゃなぁ」
サキがカップを置きながら、小さく溜め息をついた。
「それなら、うちのお弁当の配達をお手伝いしてくれないかしら?」
「え?」
三人は思わず目を瞬かせた。
「うちはね、昼のお弁当を作って配達してるって話したでしょ。でも、最近は届けるのも大変になってきて……ねぇ、あなた?」
「まぁな」
修一は少しぶっきらぼうに言いながら、腕を組んだ。
「昔は自分たちで届けてたが、年には勝てん。それに、注文も減ったとはいえ、食べに来られないお客さんが増えた。誰かに運んでもらえたら助かる」
「なるほど……」
アンナは少し考えてから、にっこりと笑った。
「それなら、私がやってみるよ!」
「本当かい? いやぁ、それは助かるわ」
朋子は嬉しそうに手を叩いた。
「配達先は顔見知りのお客さんばかりで、遠くないから、初めてでも大丈夫よ。お給料はあまり出せる自信はないけれど……」
「やってみるよー。体を動かす仕事がしたいし」
その言葉に、朋子はますます嬉しそうに笑い、修一もわずかに口元を緩めた。
「なら、頼ませてもらうか」
こうして、アンナは「珈琲ともしび」のお弁当配達を手伝うことになった。
この出会いが、やがて地域の活性化と商店街の復興へとつながっていく――そのことを、このときの三人は、まだ知らない。
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