第1章

第1章 第1話

   1


 三人が荷物の入った大きなスーツケースを引きずり、電車の乗り換えのために綾宮駅に到着したのは、午後の早い時間だった。


 お昼休みも終盤に差し掛かり、降り立ったホームにはスーツ姿の会社員や学生、買い物袋を提げた主婦らが行き交っている。改札を出ると広い通路にはコンビニや商業施設が並んでいる。カフェや飲食店の看板も並び、駅の外ではバスやタクシーを待つ人が数人並んでいた。


 アンナは駅の雑踏を眺めながら、少しだけ肩をすくめた。


「都会ってほどじゃないけど、まあまあ栄えてるね」


 チエが隣で小さく頷く。サキは腕時計を確認すると、「そろそろ行こうか」と先に歩き出した。


 三人が向かうのは、綾宮駅から二つ先の桑咲駅。そこは彼女たちがこれから住む若葉住宅の最寄り駅だ。


 綾宮市は広い。もともと3つの自治体が平成の大合併によって一つの市になった。綾宮駅を中心に市は発展し、人口は30万人を超えている。


 ……と、その前に。


「ねえ、お腹すかない?」


 アンナが言い出した。


「そういえば、朝からまともに食べてないね」


 チエも頷く。


「ここが都会のうちに、食べておくのが正解かもね」


 サキがスマホで飲食店を探しながらそう言うと、アンナがすぐに指をさした。


「ほら、あそこ! あのハンバーガー屋でいいんじゃない?」


 三人が駆け込んだのは、全国チェーンのファストフード店だった。


 店内は学生や買い物帰りの客でにぎわっていたが、奥のテーブル席にちょうど空きがあった。三人はトレイを持って席につくと、ハンバーガーにかぶりついた。


「うまっ! やっぱりジャンクフードは最高!」


 アンナが頬張りながら言うと、チエが「そ、そんなに慌てなくても……」と苦笑する。


「でも、こうして三人でご飯食べるの、なんか久しぶりな気がする」


 サキがポテトをつまみながら言った。


「たしかにねー」とアンナがドリンクのストローに口を付けながら返事をする。


「……学生のときは、もっと気楽だったよね……」


 チエが少し懐かしそうに言った。


「そうだね。部活帰りに寄ったり、試験終わりにご褒美とか言って食べたりさ」


 サキの言葉に、三人とも自然と笑った。


「なんか、こういうの久々で嬉しいなあ。学生気分に戻ったみたい」


 アンナがドリンクをすすりながら目を細める。


「でも、もう高校生じゃないんだよね。これからは自分たちで生きていかなきゃ」


 サキが言うと、チエが少し真剣な顔になった。


「そ、そうだね……でも、三人なら……、なんとかなる気がする」


「もちろん! ここで三人で暮らしていくんだからねー」


 アンナがポテトを掲げると、サキとチエもつられて笑い、ポテトを手に取った。


「じゃあ、せっかくだから、ここでの新生活に乾杯!」


 三人はそれぞれのポテトを軽く合わせた。


 そんな他愛もない時間を楽しんだあと、彼女たちは再び電車に乗り、桑咲駅へと向かった。


   2


 三人が向かうのは、綾宮駅から私鉄に乗り換え、四つ先の桑咲駅。そこが彼女たちがこれから住む若葉住宅の最寄り駅だ。


 電車に乗ると、窓の外の景色がみるみるうちに変わっていった。駅前の商業ビルが消え、家々の間隔が広がり、やがて田んぼや畑が目立ち始める。


 途中の駅で電車がしばらくホームに停車した。


「気付かなかったけど、この路線、単線なんだねー」


 ふと、アンナがつぶやく。チエが電車の前方の路線を見ると、線路は一本しかない。上りの電車と下りの電車が同じ線路を走るため、この駅で行き違いをする必要がある。


 再び電車が走り出すと、さらに外の景色はのどかになって行った。三人がなんとなく景色を見て、これからの生活を想像していると電車は桑咲駅に到着した。


 桑咲駅はこの路線ではそれなりに大きな駅のようで、電車からは何人かが降りた。しかし、駅員がいない無人駅のようで、三人は改札のICカードの読み取り機に順番にカードをタッチして外に出た。


「……駅前にお店が何もないね」


 アンナが言うと、サキが苦笑した。


「調べたとおりだったね。スーパーもコンビニも、駅前にない」


 駅前には自販機が数台、申し訳なさそうに設置されていた。


 桑咲駅のある桑咲町はかつての宿場町だった。駅から少し歩いた旧街道沿いには商店街があり、今でも数軒お店が並んでいるが、昼間からシャッターを下ろしている店も多い。


 三人は駅前の小さなバス停に向かった。次のバスの時刻を見ると、あと十五分ほどで来るらしい。


「まだマシな時間に着いたねー」


「これ逃したら、次は二時間後だもんね」


 アンナとサキがそう言い合う。チエは黙って二人の後をついて歩いている。


 若葉住宅へはバスで十五分くらい。歩けば一時間以上は余裕でかかる距離だ。


 やがて、赤と白のカラーリングをした小さなバスがやってきた。三人はスーツケースを持ち上げ、バスに乗り込み、それぞれ座席に腰を下ろす。


 バスはすぐに発車した。


 最初のうちは古い民家が立ち並び、ところどころに畑や田んぼが広がっていた。しばらくすると、ぽつりぽつりと家の数が減り、車窓から見えるのは延々と続く田園風景になった。


「す、すごいね……」


 チエが小さく呟いた。


「うん。思ったより田舎だったねー」


 アンナも頷く。サキはスマホで地図を確認しながら、「もう少しで集落があるはず」と言った。


 確かに、バスが曲がると再び家々が集まるエリアに入った。商店街らしき場所も見えたが、さっきの駅前よりもさらに閑散としている。


 バスはさらに進む。商店街を抜けると、再び畑や林が増えてきた。


「本当に集落と集落の間に、ぽっかり空白があるんだね」


 アンナが窓の外を見ながら言った。


 そして、バスは目的地である「若葉住宅前」の停留所に停車した。


 三人はバスを降りると、目の前に広がる光景を見つめた。


 若葉住宅。


 そこには、くすんだ緑色の平屋の建物がいくつか並んでいた。建物の壁にはひび割れがあり、鉄製の玄関や手すりはところどころ錆びている。駐車場には数台の軽自動車が停まっているが、人の姿はほとんど見えない。


「……なんか、昭和って感じだね」


 アンナがつぶやく。


 チエは口を開きかけたが、どう言えばいいのか分からず、そのまま黙った。サキも特に何も言わなかった。


 三人は荷物を引きずりながら、自分たちの住む建物の番号を探した。


   3


 八号棟の3号室。これが三人の住む部屋の番号だった。一つの平屋には4つの玄関がついているので、同じ建物の中に四世帯が住んでいることになる。


「あったよー」


 三人の先頭を歩くアンナが、部屋の番号を見つけ、チエとサキを手招きする。


 サキは施設長から先に預かっていた鍵を使って玄関を開ける。


「思ったより広いね」


 サキが玄関で靴を脱ぎながら部屋を見渡した。


 間取りは1LDK。リビングダイニングもそこそこ広く、奥にひとつだけ寝室がある。築年数はかなり経っているが、ちゃんと掃除されていて清潔だった。


「うーん、やっぱり個室はないかぁ」


 アンナが部屋の隅をぐるりと見回す。


「し、施設にいるときも、ずっと三人一緒の部屋だったから……」


 チエがリビングの床に座り込みながら微笑む。


「たしかにね。広さはあるし、工夫すれば快適に過ごせそう」


 サキも背負っていたバッグを下ろしながら言った。


「となると……だよ!」


 アンナが手を打った。


「二段ベッド、買おう!」


 突然の提案に、サキとチエが顔を見合わせる。


「二段ベッド?」


「そう! 二段ベッドがあれば、寝るスペースも有効活用できるし!」


「……まあ、いいかもね」


 サキが腕を組んで考え込む。


「なら、上段はアンナね」


 サキがあっさりと決めると、アンナは満足げに頷いた。


「異議なし!」


「じゃあ、下段はチエだね」


「えっ、……いいの?」


「うん。チエは上より下のほうが落ち着くでしょ?」


 たしかに、チエはあまり高い場所が得意ではない。


「……ありがとう」


 チエが少し照れくさそうに微笑む。


「で、私は?」


 サキが小首を傾げると、アンナがニヤリと笑った。


「サキは……ここ!」


 バン、とリビングの床を叩く。


「えぇー……って、結局昔と同じじゃん」


 サキが苦笑いする。


 養護施設にいた頃、三人で同じ部屋だった。アンナは二段ベッドの上の段、チエはその下の段、そしてサキは部屋の床に布団を敷いて寝ていたのだ。


「な、なんか、懐かしいね……」


 チエがそっと呟く。


「うん。でも、今度は施設じゃなくて、私たちの家だからね」


 サキがふっと笑う。


「そうだね! ここからが、私たちの新しい生活の始まり!」


 アンナが拳を突き上げる。


 三人は顔を見合わせて笑った。施設を出て、これから自分たちの力で生きていく。まだ不安もあるけれど、それ以上にワクワクする気持ちのほうが強かった。


「とりあえず、スーツケースの中を出そっか!」


 サキの言葉に、アンナとチエも頷いた。


 こうして三人の新しい生活が、ゆっくりと動き出した。


   4


「収納とかも買わないとねー」


 アンナがスーツケースの服を取り出しながら言った。


「……そ、そうだね」


「洗濯機とかコンロも買わないと」


「で、料理得意なの誰?」


アンナが二人に聞くと、チエとサキは顔を見合わせた。


「……わ、私、……あんまり得意じゃない」


「私も、普通って感じかな」


 サキが苦笑し、チエも気まずそうに笑う。アンナは腕を組んで少し考えた。


「じゃあ、三人で順番に作ってみて、得意な人がメインでやればいいんじゃない?」


「ま、それが妥当かな」


 サキが頷いたその時、コン、コンと玄関の扉をノックする音が聞こえた。


 三人は顔を見合わせる。


「宅配とか頼んでないよね?」


「ご近所さん、かな?」


アンナが立ち上がって玄関の扉を開けると、そこに立っていたのは温かい笑顔の老夫婦だった。


「やあ、こんにちは。新しく引っ越してきたって聞いたよ」


 先に声をかけたのは、少しダンディな雰囲気を持つ柳田康夫。見た目の年齢に反してガッチリとした体格で、手には工具箱を持っていた。隣には、優しげな笑顔を浮かべた柳田静江が立っていた。


「あらあら、可愛らしいお嬢さんたち。突然ごめんなさいね。お隣に住んでいる柳田です」


「あ、どうも。引っ越してきたばかりで、バタバタしてて……」


 アンナが戸惑いながら言うと、静江は「そうでしょうねえ」と柔らかく笑う。


「引っ越しで疲れてるだろうと思ってね。ちょっとした差し入れを持ってきたの」


 そう言って差し出されたのは、手作りのおにぎりとお味噌汁の入った鍋。


「わあ、美味しそう!」


 アンナが素直に喜ぶと、チエもサキも少し驚いたような顔をしながら「ありがとうございます」とぺこりと頭を下げた。


「こんな田舎での暮らしは初めてかい?」


 康夫が尋ねると、アンナは元気よく「はい!」と答える。


 サキが驚いた顔で、慌ててフォローする。


「でも、私たち、養護施設にいたので、ずっと一緒の生活には慣れてるんです」


「ほう、それは頼もしいな」


 康夫がニヤリと笑うと、静江が優しく「でも、新しい環境は最初が肝心よ。困ったことがあったら、何でも聞いてちょうだいね」と声をかける。


「ありがとうございます。本当に助かります」


 サキがしっかりとした口調でお礼を言うと、静江は嬉しそうに微笑んだ。


「ところで、何か必要なものはないかい? 家具の組み立てとか、ちょっとした修理なら、ワシが手伝うぞ」


 康夫が工具箱を軽く持ち上げて見せる。アンナは「おお!」と目を輝かせた。


「実は、二段ベッドを買おうって話してたんですよ」


「ほうほう、どうして二段ベッドなんだい?」


「私たち、ずっと一緒の部屋で過ごしてたんです。そのときも二段ベッドを使っていたので」


 アンナが笑うと、チエもサキもどこか懐かしそうに頷く。


「へえ、そういうのもいいもんだな。じゃあ、ベッドが届いたら組み立ては手伝ってやるよ」


「ありがとうございます!」


 これが三人娘とこれからお世話になる柳田夫妻の最初の出会いだった。新しい生活に不安はある。でも、温かい隣人との出会いは、その不安を少し和らげてくれるような気がした。


   5


「さて、と……そろそろ必要なものを買いに行こう!」


 アンナが勢いよく立ち上がると、サキとチエもそれに続いた。しかし、静江が少し困ったような顔をして「それがね……」と申し訳なさそうに言った。


「この辺りにはお店が少なくてね。日用品やちょっとした食材は買えるけど、二段ベッドみたいな大きな家具は置いてないのよ」


「えっ、じゃあどうすれば……?」


「車があれば別だけど、大きなホームセンターやショッピングモールに行かないと揃わないだろうねえ」


 康夫が腕を組んで言う。三人は顔を見合わせた。


「うーん……じゃあ、明日にする?」


「そうだね。今日はもう疲れたし」


「うん、無理しないほうがいいかも」


 サキとチエも賛成し、今日は部屋の片付けを優先することにした。


 だが、問題がひとつあった。


「で、寝る布団は?」


 アンナがあたりを見渡す。もちろん、まだ何もない。買いに行くつもりだったのに、布団がないことに気づいていなかった。


「あら、やっぱりないのね。うちに客用の布団があるから、貸してあげるわよ」


 静江が笑顔で提案してくれた。


「えっ、いいんですか?」


「ええ、でも……二組しかないの」


「二組?」


 三人は一瞬黙り込み、それから再び顔を見合わせた。


「……つまり、誰かは誰かと一緒に寝なきゃいけない?」


 アンナがそう言うと、サキとチエの顔が少し赤くなった。


「ま、まあ、そんなに気にしなくても……」


「ちょっと恥ずかしいけど……まあ、しょうがないよね」


「じゃあ、サキ。一緒の布団で寝る?」


「――なっ!?」


 冗談めかして言ったアンナに、サキは一瞬で真っ赤になった。


「な、なに言ってんのよ!」


「いやー、だって、せっかくだし?」


「せっかくって何よ!?」


 サキは顔をそむる。


「に、二枚を並べれば、三人で寝られるんじゃないかな……」


 チエが苦笑いしながら提案した。


「賑やかになりそうね」


 三人のやり取りを孫を見るような目で見ていた静江が言うと、康夫も「そうだな」と言った。


   6


 一日目の夜がやってきた。お風呂に入ってゆっくり疲れを癒そうとアンナは勢いよく水道の蛇口をひねった。しかし、待てど暮らせど期待していた湯気は出ず、勢いよく流れるのは冷たい水だけだった。


「……あれ?」


 三人はしばし沈黙し、それから顔を見合わせる。


「ガ、ガス……まだ開通してないんじゃない?」チエが控えめに言う。


「……マジかぁ」サキが肩を落とした。


 水道は外にある元栓を開き、電気は玄関にあるブレーカーを上げれば開通した。しかし、ガスはガス会社の立ち合いが必要らしい。


「お風呂、入れないってこと?」


 サキの問いに、アンナはケラケラと笑った。


「まあ、一日くらい入らなくたって死なないでしょ!」


「いや、無理!」サキが即答する。「移動で汗かいたし、髪も洗いたいし……気持ち悪い!」


「うーん……じゃ、じゃあさ、濡れタオルで拭く?」チエが提案する。


「そうするしかないかー」アンナは面倒くさそうに肩をすくめた。


 三人は洗面所でタオルを濡らした。サキが恐る恐る手を伸ばすと、水はやっぱり冷たかった。


「うっわ、冷たい!」


「何、サキ。あれだけ汗かいて気持ち悪いって言っておいて、まさか水が冷たいから拭かないとか言わないよね?」アンナがニヤニヤしながら言うと、サキはムッとした顔でタオルを絞った。


「拭くよ! でも、アンナは雑に拭きそうだから、風邪ひかないようにね?」


「へーい、へーい」


 三人はお互い背中を向け、それぞれタオルで身体を拭き始めた。


「……意外とさっぱりするね」チエが言う。


「お風呂ほどじゃないけど、ないよりマシかな」サキはまだ納得いかない様子だった。


「銭湯とか行きたいなー」アンナがぼそっと言う。「大きなお風呂でさ、あっつい湯船に浸かって」


「いいねぇ……でも、銭湯ってこのあたりにあるの?」


「今度、柳田さんに聞いてみる?」


「うん、明日聞いてみよう!」


 三人は部屋着に着替えると布団の上に寝転がった。


「結局誰が真ん中で寝るの?」サキが聞く。


「チエが真ん中でいいんじゃない?」アンナがすぐに答える。


「えっ、私!?」


「うん、間違いなく一番安心感あるし」


「そ、そういう問題?」


「問題ない!」


 アンナが勝手に決めてしまい、結局チエが真ん中で、サキとアンナが両側に並んで寝ることになった。冷たい夜だったが、三人で並んで寝ると、少しだけ暖かかった。


 三人は布団に入り、天井を見つめていた。


「な、なんか……こうやって並んで寝るの……久しぶりだね」


 チエが静かに言うと、サキも「昔を思い出すね」と笑った。


「チエが居て、サキが居る。昔と変わらないなー」


 アンナも感慨深そうに言い、ふと小さく笑う。


「でも、これからは自分たちの家だからね」


「うん……」


 三人はしばらく無言になり、静かな夜の空気を感じていた。 遠くで響いている虫の鳴き声に誘われて、三人は移動の疲れもあってすぐに眠ってしまった。


   7


 夜中、サキがふと目を覚ました。部屋の中は暗く、カーテンのないすりガラスから月明かりがわずかに差し込んでいる。目が慣れてくると、隣に寝ているチエの姿がぼんやりと浮かび上がった。そして、そのチエにぴったりとくっついて眠るアンナの姿が目に入る。


「……何してんのよ、アンナ」


 思わず小さな声が漏れる。


 アンナはチエの背中から腕を回し、まるで抱き枕のようにしっかりと抱きしめていた。無防備な寝顔をさらして、気持ちよさそうに寝息を立てている。チエはされるがままで、少し窮屈そうにも見えた。


 サキの胸がざわつく。


(ずるい……)


 じわじわとこみ上げる嫉妬心。理由なんて考えたくなかった。ただ、このまま見ているのは気に入らなかった。


 サキはそっと布団の中で手を伸ばし、アンナの腕をチエから引き剥がすようにそっと押しのけた。


「ん……?」


 アンナが小さく唸り、少し身じろぎする。でも、すぐに別の方向を向いて、また眠りに落ちていった。


 掛布団がないのも可愛そうなので、チエはアンナに毛布を掛けてあげた。


 サキは安心して布団に戻った。しかし、次の瞬間、アンナから解放されたチエがそっと手を伸ばしてきた。


「……チエ?」


 小さな囁きに反応するように、チエの細い指がサキの手をそっと握った。


 ぎゅっ――


 驚いて心臓が跳ねる。


 チエの手は少しひんやりしていて、でも、その奥からじんわりとした温もりが伝わってくる。サキは息を呑みそうになった。


 まるで寂しさを紛らわすかのように、チエはサキの手を離そうとしない。本当にチエは眠っているのだろうか。それとも無意識なのか、それとも何かを求めているのか。サキには分からなかった。でも、この手を振り払う理由も見つからなかった。


 心臓の鼓動がやけに大きく感じる。


 サキは迷いながらも、そっとチエの指を握り返した。


 三人で暮らす新しい生活の、最初の夜はゆっくりと過ぎていった。

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