プロローグ~三人の再会編~

   1【アンナの場合】


――たまには施設に遊びにきませんか?


 アンナの元に届いた施設長からの手紙はそう締めくくられていた。


 その言葉に吸い寄せられるように、久しぶりに訪れた養護施設の廊下は、どこか懐かしく、それでいて遠い場所のようにも感じた。ここで暮らす子供たちは学校へ行っているのだろう。今は静けさが支配しているが、今でも大勢の子どもたちが暮らしている痕跡が確実に伝わってきた。昔はここが自分の『家』だった。けれど、今はもう違う。


 アンナは施設長の部屋の前で一度深呼吸し、ノックした。


「どうぞ。入って」


 声に促されるように部屋の中に入ると、施設長は窓際の椅子に座り、懐かしい笑顔を向けてきた。


「久しぶりね、アンナ。元気にしてた?」


「まあ、それなりにねー」


 アンナは適当に返事をしながら、勧められるままにソファに座った。


「仕事はどう?」


「別に問題ないよー。決められたことやって、給料もらって、適当に暮らすだけだから」


 施設長は苦笑しながらお茶を淹れた。昔と変わらない、落ち着いた手つきだった。


「それで満足?」


「……」


 アンナは答えなかった。満足かどうか、自分でもよく分からない。ただ、何かが足りないという気持ちだけがアンナを確実に支配していた。でも、それが何なのか、考えるのが面倒だった。


「サキやチエとは連絡取ってる?」


「……あんまり」


「そっか。三人とも別々の生活をしてるけど、どう? 一人の暮らしは楽しい?」


 施設長は優しく問いかける。アンナは湯気の立つ湯呑みを見つめた。


「楽しいっていうか……まあ、気楽だよねー。自分のことだけ考えてればいいし」


「でも、少し寂しい?」


 アンナは顔を上げた。施設長は何でも見透かすような顔をしていた。


「別に、寂しくなんかないよー」


「そう?」


「一人の方が楽なこともあるし、わざわざ誰かと一緒にいる必要なんて……」


「でも、昔のアンナは違ったわよね」


「……昔は子どもだったから」


 アンナは施設長に聞こえないように、小さな声でつぶやいた。


 確かに、ここにいた頃は、チエやサキと一緒にいるのが当たり前だった。毎日顔を合わせて、一緒にご飯を食べて、笑って、時々ケンカもして。でも、大人になった今は違う。一人で生きていくのが普通だし、それができなきゃいけないと思っていた。


 それに、もう誰かに捨てられて独りになるという気持ちを味わうのが怖かった。


 施設長は静かにお茶をすすった後、ゆっくりと言った。


「アンナ、あなたが一人で生きていけるのは分かってる。でも、人は一人でいるだけが全てじゃないのよ」


「……」


「ねえ、正直に言って。チエやサキのこと、恋しくない?」


 その問いに、アンナは思わず口を閉ざした。


 ――恋しくない?


 そんなわけない。


 仕事を終えて家に帰るたびに、ふとした瞬間に思い出す。何か面白いことがあったとき、誰かに話したくなる。でも、その「誰か」がいない。気づけばスマホを開いて、チエやサキの連絡先を眺める。でも、特に理由もなく連絡するのは気恥ずかしくて、結局そのまま画面を閉じる。


 夜、部屋で一人になったとき、思うことがある。もし、二人が近くにいたら――。


 それを認めるのが怖かった。


 施設長はアンナの表情を見ながら、静かに続けた。


「サキもチエも、それぞれ頑張ってる。でもね、二人とも同じようなことを思っていると思うわ」


「……同じ?」


「寂しいってね」


 アンナの心臓が跳ねた。


 あのサキが?


――そして、チエが?


 あの二人が、自分と同じ気持ちで?


「二人とも、あなたと同じように、連絡を取ろうかどうか迷っているはずよ」


「……」


「ねえ、アンナ。あなたは本当に、一人でいる方がいいの?」


 アンナは答えられなかった。


 施設長は少しだけ笑った後、静かに言った。


「また三人で一緒に暮らすっていう選択肢もあるのよ」


「……え?」


「空いている部屋があるの。三人で暮らすには充分な広さ。ただし、ここからは遠い場所だから、今の仕事は辞めなければいけないのだけれど」


「……そっか」


――正直言って、アンナにとって今の仕事には未練はなかった。しかし、再び誰かと一緒に住むということが引っ掛かった。


「もし、アンナが望むなら、サキとチエと一緒に住むこともできるわよ」


 アンナは思わず湯呑みを握りしめた。


 今の生活を続けるか。それとも、二人ともう一度一緒に暮らすか。


「……二人にはもう話したの?」


「それを聞きたいなら、自分で直接聞いてみたら?」


 施設長はそう言って、優しく笑った。


「自分の気持ち、ごまかしちゃダメよ」


 アンナは施設長の言葉を噛み締めながら、ゆっくりと息を吐いた。


「……考えてみるよ」


 その答えを聞いて、施設長は満足そうに頷いた。


「じゃあ、また報告しに来てね」


 アンナは軽く頭を下げて部屋を後にした。


 施設の廊下を歩きながら、胸の奥に広がる感情を確かめる。


 サキとチエ。二人が自分と同じ気持ちでいるのなら――。


 再び三人で暮らすのも、悪くないかもしれない。


   2【アンナの場合】


――お話があります。


 サキの元に届いた施設長からの手紙はそう締めくくられていた。


 施設長の部屋に入ると、懐かしい木の香りがした。ここは昔と何も変わっていない。静かで、温かくて、少し落ち着かない場所。


 小さい頃にアンナと大喧嘩をしてひどく注意をされた部屋。学校でアンナに巻き込まれてトラブルを起こし注意されたこともあった。そのたびにサキの興奮を落ち着けるように、施設長は熱いお茶を出してくれた。


 サキはソファに腰掛けると、足を組み、視線を窓の外に向けた。施設長が優しく微笑みながら、湯呑みを差し出してくる。


「おかえりなさい、サキ」


「ただの面談でしょ。そんな大げさにしなくても」


 サキは肩をすくめながらも、湯呑みを受け取った。湯気の立つお茶は、昔と同じく温かい。


「どう? 仕事は順調?」


「普通にやってますよ」


 サキは施設長の顔色を窺う。職場で馴染めていないことを、職場の偉い人が保護者に告げ口して呼ばれたと思っている。しかし、サキの予想は外れた。本題は仕事内容ではなかった。


「そう。じゃあ、一人暮らしは?」


「別に。困ることもないし、気楽でいいよ」


「本当に?」


 サキはふっと笑う。施設長のそういうところは、昔から変わらない。優しくて、まっすぐで、人の心の奥を探るような問いかけをしてくる。


「何? 一人でいると寂しくなるタイプに見える?」


「ううん。サキは一人でいることには慣れてるものね。でも、それが好きかどうかは別の話じゃない?」


 サキは一瞬、口を開きかけたが、結局お茶をすすっただけだった。


「……楽だよ。一人は」


「そうね。でも、楽なことと幸せなことって、必ずしも同じじゃないのよ」


「……」


 サキは微かに眉をひそめる。


「サキは、今の生活に満足してる?」


「まあ、ぼちぼち」


 施設長は小さく微笑んだ。


「チエとアンナとは、最近話した?」


「あんまり」


「二人とも、特にアンナはあなたと同じような気持ちだと思うわ」


 サキは少しだけ視線を動かした。


「……どういうこと?」


「一人でいる方が楽。でも、どこか満たされない」


 サキは短く笑った。


「アンナが? ケンカの相手がいなくて寂しいだけじゃない?」


 施設長もサキの言葉にふっと笑みをこぼす。


「チエは? 元気でやってますか?」


「そうね。チエも言葉にはしないけど、顔を見れば分かるわ。あの子はあなたたちと一緒にいるときの方が、ずっと生き生きしてた」


「……そうかな」


 サキはつぶやく。


 たしかに、三人で一緒にいると、心の奥が温まるような感覚はあった。気を張らなくてもいいし、無理に笑わなくてもいい。三人でいれば、どんなに嫌なことがあっても、それなりにやり過ごせた。


 でも、そんなのは過去の話だ。今さら昔の関係に戻るつもりなんて――。


「サキ、あなたは『一人で生きていける』って思ってるでしょう?」


「……事実でしょ」


「でも、それは『一人で生きていきたい』とは違うんじゃない?」


 サキは息を止めた。


「……何が言いたいの?」


 施設長はゆっくりと手元の湯呑みを置いた。


「また、三人で住んでみる気はない?」


 サキは目を見開いた。


「……え?」


「ここからは遠いけれど、ちょうど空いている部屋があるのよ」


「でも……」


「きっと、アンナもチエも、あなたと同じ気持ちでいるわ。寂しいなんて言葉にはしないけどね」


 サキは視線を落とした。


「二人は何て言いました?」


「二人は答えは言わなかった。でも、分かるわ。あなたたちが、お互いを必要としているってことは」


 サキは深く息を吐いた。


「……今さら、そんなこと言われても」


「今さら、じゃないのよ。これから、どうしたいか。これは三人の未来に向かうお話よ」


 サキは目を閉じる。


 ――どうしたいか?


 一人は楽。でも、二人がそばにいると、きっともっと楽しい。そんなの、考えるまでもないことだった。


「……ちょっと、考えさせて」


 施設長は微笑んだ。


「いいわよ。答えが出たら、また聞かせてね」


 サキは無言で頷いた。


 胸の奥に、小さな温もりが残っていた。


   3【チエの場合】


 チエが施設長に呼ばれて面談室に入ると、温かいお茶の香りが鼻をくすぐった。いつもと変わらない静かな空間。チエはソファに腰掛けると、緊張したように膝の上に手を置いた。


 向かいに座る施設長が、優しく微笑む。


「お仕事が大変そうね、チエ」


「……は、はい」


 チエの声は相変わらず小さかった。


 アンナとサキが施設を出ていっても、チエは施設に残ると決め、ずっとこの施設で暮らしている。人と話すのが苦手で、高校を卒業した後もしばらく仕事が見つからなかった。施設長の紹介で、今の職場を紹介してもらって、ずっとこの施設で暮らしている。知らない場所に出ていくのが怖かったし、一人暮らしなんて考えられなかった。ここにいれば、少なくとも一人きりにはならない。


 でも、最近は何かが違う気がしていた。


 食堂で食事をしているとき、夜に自室で本を読んでいるとき、ふとした瞬間に思い出すのは、サキとアンナのこと。


 二人がいなくなってから、何かがぽっかりと欠けている。


「チエ、ここでの生活はどう?」


「……ふ、不満は……な、ないです」


「そう。でも、本当にそれだけ?」


 チエは一瞬、口を閉じた。施設長のまっすぐな瞳が、心の奥を見透かしているようだった。


「……は、はい。一人になるのは……こ、怖かったです。で、でも、ここなら、誰かがいます」


「ええ、そうね。ここはあなたの育った家。今でも家族と一緒に住んでいる。でもね……それと、あなたが本当に一緒にいたい人たちとは、また別の話じゃない?」


 チエはぎゅっと膝の上の手を握りしめた。


 施設に残り続けることが悪いわけじゃない。でも、アンナやサキと一緒にいた時間を思い出すと、胸がぎゅっと締めつけられるようだった。


「……あ、あの……アンナとサキは……げ、元気そうでしたか?」


 チエは先日、二人が施設長を訪ねて来たことは知っていた。


「ええ。二人とも、それぞれの場所で頑張ってる。でもね、二人とも、どこか寂しそうだったわ」


 チエの喉が、ぎゅっと詰まる。


「ふ、二人が……」


「言葉にはしなかったけれどね。でも、分かるの。あなたたちは、ずっと一緒だったもの」


 ずっと一緒だった。


 いつも隣にいた。


 けれど、それはもう過去のことだ。


「……で、でも……もう、別の道を歩いていますので……」


「本当にそうかしら?」


 施設長の声は、どこか優しく問いかけるようだった。


「チエは、本当はどうしたい?」


「……わ、分かりません……」


「本当に?」


「……」


 チエは唇を噛んだ。


――会いたい。


 声が聞きたい。


 一緒に笑いたい。


 でも、そんな気持ちを口に出してしまったら、もう今の生活には戻れなくなってしまう。


「チエ、あなたはとても優しい子よ。でもね、優しさだけじゃなくて、自分の気持ちも大切にしてほしいの」


 チエははっと顔を上げる。


「……自分の、気持ち?」


「ええ。あなたはいつも周りを気にして、自分の気持ちは後回しにしてしまうでしょう?」


「……」


 図星だった。他人の言うことに頷いて、自分の意見はあまり言わないようにしていた。しかし、アンナとサキは違った。チエの気持ちを受け止めてくれていた。


「チエ、あなたが一緒にいたいと思う人のそばにいること、それはわがままじゃないのよ」


「……わ、私……」


 チエは、震える声でつぶやいた。


「……本当は、二人と一緒にいたいです……」


 口に出した瞬間、目頭が急に熱くなった。眼鏡の奥の瞳から涙がこぼれ落ちる。


 こんなにもずっと、思っていたことだったのに。


 施設長は微笑み、チエの横に座ると、そっとチエの手に触れた。


「それなら、一歩踏み出してみない?」


「……で、でも……わ、私が今さら、何を言っても……」


「そんなことはないわ。アンナもサキも、あなたの言葉を待っていると思う」


 チエの目に、じわりと涙が滲んだ。


「……私、怖いです」


「大丈夫よ。ゆっくりでいいの。あなたのペースでね」


 チエは涙を拭いながら、小さく頷いた。


 ――もう、離れたくない。


 その想いが、胸の奥で少しずつ確かになっていった。


   4【三人の再会】


 アンナは再び施設の玄関をくぐる。


 まっすぐに施設長の部屋に入ると、施設長とサキが向かい合って座っていた。


「久しぶりだね」


 アンナがサキに声を掛けると、サキも口を開いた。


「……ああ」


 「元気だった?」「仕事はどうなの?」とか、何かを話そうとしては、言葉が喉に詰まる。


 施設長に促されて食堂へ向かうと、そこにチエがいた。


 あの頃と同じように、静かに本を読んでいた。


「チエ……」


 アンナが声をかけると、チエはゆっくりと顔を上げた。


 目が合う。


 一瞬、何を言えばいいのか分からなくなった。


 だけど、チエの目が、すぐに潤んだのが分かった。


「……二人とも」


 小さな声で呟いたあと、チエは立ち上がり、駆け寄ってきた。


「……久しぶり」


 そう言いながら、チエはアンナとサキの手をぎゅっと握った。


 それだけで、三人の間にあった時間の溝が埋まっていくような気がした。


「チエ、元気だった?」


 サキが優しく尋ねる。


 チエは少しだけ微笑んで、「うん」と頷いた。


「ふ、二人は?」


「まあ、なんとかね」


 アンナは照れくさそうに頭をかく。


「そう……よかった」


 チエはそう言うと、ぎゅっと二人の手を握ったまま離さなかった。


 本当は、話したいことがたくさんあるのに、どこから話せばいいのか分からない。


 アンナとサキは、互いに視線を交わした。


 言わなきゃいけないことがある。


 でも――


「――私たち」


 アンナが口を開きかけた瞬間。


「い、一緒に住もう」


 チエが、驚くほど大きな、はっきりとした声で言った。


 チエのきいたことのない声に、アンナもサキも、一瞬、言葉を失う。


「……え?」


「……チエ?」


「い、一緒に住みたい。……もう、は、離れたくない」


 チエの手が、少し震えているのが分かった。


「二人とも、私にとって大切な人だから……」


 それを聞いた瞬間、アンナの胸にぐっと熱いものが込み上げてきた。


「……うん、そうだね」


 アンナがそう言うと、サキも驚いたように目を見開いていたが、やがてふっと微笑んだ。


「……私も、そう思ってた」


 アンナは、小さく息を吐き出し、憎まれ口を叩く。


「なんだよ、それならもっと早く言えばいいのに」


「アンナこそ」


 そう言って、サキはくすっと笑う。


「……ま、また……三人一緒」


 チエが嬉しそうに呟いた。


 アンナとサキは、同時にチエの肩を抱いた。


「うん、三人一緒」


 それが、ようやく口に出せた三人の本当の気持ちだった。

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