プロローグ~チエ編~
1
坂本はデスクに向かい、いつものように積まれた書類に目を通していた。朝の光が薄く差し込み、窓の外では雨が静かに降り続いている。事務所の静寂を破るのは電話の着信音。清掃作業員からの電話だった。
「すみません、急に体調が悪くなって……」
一度ならず、二度三度、同じような連絡が続く。坂本はため息をつき、受話器を置いた。作業員が足りない状態が続いている。それに加えて、今日はまた一人が急に休むと連絡してきた。その度に、坂本は人員の調整を余儀なくされる。
「どうしたものか……」
坂本は腕を組み、少し頭を悩ませた。事務の仕事をこなすだけでなく、こうした調整業務も並行して行わなければならない。普段は穏やかな性格の坂本だが、次第にそのことが積み重なり、少しずつ疲れを感じるようになっていた。
坂本の年齢は50代後半の男性である。ビルや事務所の清掃員を派遣する会社で事務職一筋である。清掃員は女性が多い中で、断らないことで女性と上手くやってきた。事務を会社でこのまま波風を立てずに、定年を迎えれば良いと思っていた。しかし、このままではチエに負担をかけることになるのが気がかりだった。
チエは、半年ほど前にこの事務所に配属されたばかりの事務OLだ。彼女はとても控えめで、周りを気にしている様子がいつも見受けられる。物静かな性格で、あまり自分の意見を口にしない。坂本はそんなチエを気にかけていたが、何よりもその優しさが気になる存在だった。
「あ、あの……さ、坂本さん……だ、大丈夫ですか?」
チエのか細い声が突然、事務所の静けさを破った。チエが少しおどおどしながら顔を出す。メガネをかけ、髪を三つ編みにしているその姿は、まるで娘のように可愛らしい。
坂本は顔を上げ、驚いた振りをする。
「おお、チエさん。どうした?」
「い、いえ……な、何かお手伝いできることがあれば、と思いまして……」
チエはそう言いながら、端のデスクに向かって歩き出した。彼女は普段から、何かを手伝うために自分から声をかけることが少なかった。そのため、坂本はその意外な行動に少し驚いていた。
「うん…ありがとう。でも、大丈夫――」
坂本がそう言いかけた瞬間、また電話が鳴った。今度は別の清掃員からだった。
「坂本さん、すみません……ちょっと急に体調が悪くなって……」
坂本は電話を取り、返事をした後、また黙って受話器を戻した。今度の欠勤も、予想通りの理由だ。もう何度目だろうか。坂本は少し落ち込んだ表情を浮かべた。
チエはその様子を黙って見つめていた。彼女も、何とかして坂本の負担を減らす方法を考えていたが、どうすれば良いかが分からなかった。事務仕事を手伝うこともできるが、清掃業務には関わりたくないという気持ちがどこかにあった。
だが、坂本が肩を落とすその姿を見て、チエは少しだけ心を決めた。
「あ、あの……わ、私、現場に、出ましょうか?」
チエの言葉は、坂本の耳にはっきりと届いた。突然の申し出に、坂本は驚きの表情を浮かべた。チエがそんなことを言うなんて、まさかとは思ったからだ。
「え……?」
「清掃員が足りないなら、わ、私が行きます……。少しでも役に立てるなら」
チエは目を伏せながら、静かに言った。いつもは控えめで、言いたいことをなかなか口にできないチエが、こうして自分から提案するのは珍しいことだった。
坂本はその真剣な顔を見つめ、言葉に詰まった。チエは、仕事をこなす中で、どこかで自分に無理をしているように思えた。現場に出て作業をすることが、本当に彼女にとって負担ではないのか、坂本は少し不安だった。
「チエさん、無理しなくていいよ。そんなことしなくても……」
坂本はそう言うが、チエは首を振った。
「だ、大丈夫です……。坂本さんが困っているなら、わ、私が何かしなきゃと思って……」
その言葉に、坂本はさらに戸惑った。チエの思いやりの気持ちは分かる。しかし、それが彼女にとってどれだけ負担になるかを、坂本は心配していた。
だが、チエはもう決めたようだった。実際に現場が人手不足になるのはわかりきっている。その気持ちを尊重し、坂本はただ黙って受け入れるしかなかった。
2
坂本は、チエが決意を固めたように見えたその目をじっと見つめていた。普段から控えめで、周囲に気を使い過ぎるチエが、こうして自分の意思をしっかりと主張するのは、彼女自身の中で何かが変わった証拠だと感じた。
「じゃあ…お願いするよ。でも、本当に無理しないでな」
チエはその言葉を聞いて、少しだけ安心した様子でうなずいた。自分でも驚くくらい、すぐに答えを出せたことが、どこか嬉しかった。普段なら、もっと悩んでいたはずだ。しかし、坂本の困った顔を見るたびに、自分にできることがないのかと悩んでいたのだった。
その日、チエは初めて現場に出ることになった。清掃員が休んだり、急に出勤できなくなった時に、代わりに作業を手伝うためだ。最初は、何をどうして良いのか全く分からなかったが、坂本から清掃業務に必要な道具の使い方を簡単に教えてもらい、現場に向かう準備を整えた。
「チエさん、手を切ったりしないように気をつけてな」
坂本が心配そうに言うと、チエは頷きながら答えた。
「は、はい……き、気をつけます」
その言葉を最後に、チエは事務所を後にした。
現場に到着すると、事務所からは想像もできないほどの忙しさと騒がしさが広がっていた。清掃員たちはみんな、時間との戦いを繰り広げている。チエはその中に加わる形となったが、やはり最初は慣れない作業に戸惑うことばかりだった。モップを持ち、床を拭いていくが、その動きはぎこちなく、最初は思うように進まない。
だが、次第に手が慣れてきて、作業がスムーズに進むようになった。と同時に、チエは周囲を見渡すと、自分の置かれた立場が少しずつ見えてきた。清掃の作業は確かに大変だ。しかし、どこかで、こうした手を動かすことが自分にできることであり、今の自分が誰かの助けになっているのだと実感する瞬間があった。
坂本の悩みを少しでも減らすために自分にできることをしている。この気持ちは、坂本に対する感謝から来るものでもあった。彼がいつも穏やかに接してくれるからこそ、チエはこうして一歩踏み出すことができたのだ。
そしてその日、仕事を終えた後、坂本に戻ると、彼は事務所で出迎えてくれた。
「お疲れさま、チエさん。現場に行ってくれたおかげで、なんとかなったよ」
坂本のその言葉に、チエは少し照れながらも頷いた。作業を終えた後の爽やかな疲れが、少しだけ心地よく感じた。
「い、いいえ、私も助けてもらってばかりですから」
チエは自分の手を見つめながら、少しだけ苦笑を浮かべた。洗剤で少し荒れてしまったその手を見て、坂本はふっと眉をひそめた。
「手、大丈夫か?」
チエはその問いに、少し恥ずかしそうに手を握りしめる。
「は、はい。大丈夫です……」
坂本はそんな彼女を見て、しばらく黙っていた。チエは本当に無理しているんじゃないかと思う反面、彼女が自分から行動したことに対する感謝と、どこかで彼女が成長していることに対する嬉しさも感じていた。
3
ある日の昼休み。坂本が事務所で書類整理をしていたとき、机の上の電話が鳴った。ディスプレイには見慣れない番号が表示されている。迷った末に受話器を取ると、穏やかだがはっきりとした声が聞こえた。
「突然のご連絡、申し訳ありません。私、チエの住む養護施設の施設長をしております。坂本さんはいらっしゃいますか?」
――施設長。坂本は軽く姿勢を正しながら応じた。
「はい。私が坂本ですが」
「チエが大変お世話になっています。」
電話口の施設長はさらに続けた。
「実は、チエが近々こちらの施設を出て、友人と暮らしたいと考えています。ですが、どうやら彼女は迷っているようなのです。チエにとって今の職場が大切なものだと思っているからこそ、決断できないでいるように感じます。住む場所はここからは離れていますので、そちらのお仕事も辞めることになると思います」
坂本は驚いた。チエが施設を出ることを考えていたこと、それを彼女自身の口からではなく施設長から聞くことになるとは思わなかった。
「はあ。そうですか……」
「大変ご迷惑をお掛けするのは充分に承知しております。ですが、坂本さん。どうか彼女の背中を押してあげてはいただけませんか?」
施設長の言葉は静かだったが、どこか強い信頼が感じられた。坂本は深く息を吐いた。電話を切ったあともしばらく考え込んでいたが、やがて意を決した。
4
「チエさん、少し話せるか?」
その日の終業時刻の前、坂本はチエに声を掛けた。チエは小さく肩をすくめながら振り向いた。いつものようにおどおどとした仕草だが、その顔にはほんのわずかに驚きの色が浮かんでいた。
「は、はい……だ、大丈夫です」
二人は事務所の片隅にある応接用の小さな机に向かい合って座った。坂本はしばらく迷った末、率直に切り出すことにした。
「施設長さんから連絡があった。チエさん、施設を出て友達と一緒に暮らしたいんだってな。」
チエは息をのんだ。その目が揺れ、細い指がスカートの端を無意識に握りしめる。
「……き、聞いたんですね」
「聞いたよ。でも、チエさんはまだ迷ってるんだろ?」
チエは下を向いたまま、小さく頷いた。
「……さ、坂本さんが困ると思って……。わ、私がいなくなったら、仕事が回らなくなってしまうかもしれません。それは、嫌なんです」
坂本は少し苦笑した。
「そりゃあ、チエさんがいなくなったら困るよ。でもな、困るのと、チエさんに無理をさせるのは別の話だ」
チエは驚いたように顔を上げた。坂本は続ける。
「俺はさ、チエさんが仕事を頑張ってくれるのは本当にありがたいと思ってる。でも、それでチエさんが自分の人生を諦めるなら、それは間違ってる。」
「……でも……」
「でも、はなしだ。」
坂本の声は普段よりも少しだけ強くなった。
「チエさん、今までずっと周りのことばかり考えてきただろ? たまには自分のことを考えろよ」
チエは言葉を失ったまま、じっと自分の膝を見つめていた。彼女の中で、何かが揺らいでいるのが分かる。
「俺はな、チエさんにここで働き続けてほしいよ。でも、それ以上にチエさんには、やりたいことをやってほしい。大切な人と暮らしたいなら、暮らせばいい。仕事のことは心配するな」
チエの目が潤んでいた。何かを言おうとして、言葉にならないのか、小さく唇を噛む。
「……わ、私、迷っていました。自分のことを優先するのが……怖かったんです」
「怖がるなよ。ちゃんと前を向いていけばいい」
坂本の言葉に、チエは小さく頷いた。彼女の表情はまだ不安を残していたが、どこかほんの少しだけ、迷いが晴れたようにも見えた。
「……あ、ありがとうございます、坂本さん」
チエの声は小さかったが、その響きには、確かな決意が宿っていた。
5
翌日の朝、電話が鳴った。清掃員からの連絡だ。
「坂本さん、すみません、今日もお休みしたいんですが……」
坂本は一瞬、眉をひそめた。何度目だろう。この状況を繰り返すことに、坂本の中で何かが引っかかっていた。
「もういい加減にしろ!」
自分のデスクで座っていたチエも、初めて聞く坂本の大きな声に体がビクっと反応して驚いた顔で振り向く。
坂本はその電話の相手に初めて厳しい言葉を投げかけた。普段なら決してそんな風には言わないが、今日はもう我慢できなかった。
「何度も何度も、そうやって急に休むなんて。あなたがいなければ、現場は回らないんだよ。どうしても出勤できないほど体調が悪いなら仕方ないが、そうじゃないだろう。もう、いい加減にしなさい」
電話の向こうでしばらく沈黙が続いた後、相手はようやく、申し訳なさそうに返事をした。
「すみません、今日は出勤します」
その言葉を受けて、坂本はやっと受話器を戻し、深いため息をついた。自分でも驚いたが、今日はもう耐えられなかった。チエに無理をさせてしまっていることへの焦りが、彼の心を掻き乱していた。
電話を切った坂本はふうっと息を吐いた。目を閉じ、天井を仰ぐ。今まで、こうしてはっきりと言うことができなかった。だが、チエのことを考えたとき、ふと、思ったのだ。
チエが自分の人生を踏み出そうとしているのに、自分はどうだ?
少しの寂しさが胸の奥に広がる。それでも、彼女が自分の道を選ぶことを止めてはいけない。
そのとき、ふと事務所の奥に目をやると、チエがじっとこちらを見ていた。坂本と目が合うと、チエは少し驚いたような顔をして、それから――
ほんの少しだけ、微笑んだ。
坂本も、つられるように口元を緩めた。
「……さあ、チエさんが辞めたら寂しくなるな」
チエに聞こえないように小さく呟いて、坂本は机に向った。
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