3

 勢いよく僕たちがいる部屋の扉が開く。

「おい、電気が点かねぇぞ!」

 いきなり怒鳴り声が飛ぶ。アキちゃんのすぐ後ろまで近寄ってきて、そこで足を止めた。


「電気が止められてるの。お金、払わないと……」

 アキちゃんが僕を抱きしめたままつぶやく。僕はそっとおじさんを盗み見る。おじさんは僕をにらみつけて、舌打ちをした。抱きしめ合ったままの僕たちをじろじろと見て毛布をぎ取ると、口のはしゆがめてニタニタと笑い出した。


「それで? 何してんの、お前らは」

 おじさんはずかずかと近寄ってきて、片手で僕の顔をつかんで引張り上げる。痛いのを我慢して、おじさんの顔をじっと見上げる。お酒の匂いがして気持ち悪い。


「いい年して何抱き合ってんだ? いっつもアキに引っ付いて、アキのことやらしい目で見てんじゃないだろうな?」

 お腹の奥が、まるで火を付けられたみたいに熱くなる。いつも殴られているときよりもずっと嫌な気持ちになった。


「出ていけ! もう帰ってくんな!」

 僕の顔を掴んでいるおじさんの腕を両手で力いっぱい引き離そうとするが、おじさんの腕はちっとも動かない。


「は? ムカつくツラしやがって、ガキのくせに」

 おじさんの手が僕の顔から離れて、今度はトレーナーの首元を掴む。そのまま僕の身体が上に浮き上がったと思った瞬間、胸のあたりに衝撃しょうげきがあって背中が折り畳み机にぶつかった。そのまま机ごと後ろに吹っ飛んだ。


 机に当たったところが痛くて、声が出ない。ずるずると床の上に倒れる。痛みで力が入らない。

「ユキちゃん!」


 僕にけ寄ろうとしたアキちゃんの腕をおじさんが掴んで引き止める。アキちゃんのあごを掴んで自分の方に向けさせる。

「お前最近、あいつに似て来たなぁ……。あいつ寂しがりでさぁ、しょっちゅうヤリたがって、可愛い女だったんだよ。お前も寂しいんだろ?」


 左腕がしびれて感覚がない。右手は動く。アキちゃんがまた、僕の代わりに叩かれてしまう。早く起き上がらなくては。目の前には机の上に載っていたはずの工作用ボード、折れ曲がった切り絵、カッターナイフが転がっている。


「やめて……離して」

 おじさんはアキちゃんを床の上に押し倒して、制服の白いシャツを無理やり広げた。アキちゃんの悲鳴のような叫び声が耳にさる。いつもとは違っていた。


 何かもっと恐ろしいことが起きている。叫び続けるアキちゃんの頬をおじさんが思いっきり叩いた。赤いものが僕の目の前に飛んできて、床の上に点々になって散らばった。


「うるせぇな! 騒いでるとあのガキ殺すぞ!」


 アキちゃんの血だ。そう思った。その瞬間からアキちゃんの悲鳴もおじさんの声も何も聞こえなくなった。その代わりに頭の中から直接声が聞こえた。アキちゃんが僕に教えてくれた言葉だった。


 目の前に落ちているカッターナイフをつかんで、立ち上がる。おじさんは笑いながら自分のズボンに手を掛けて、膝立ちのままアキちゃんを見下ろしている。すべてがゆっくりと動いて見えた。僕だけがこの瞬間を自由に動いている、そんな不思議な感覚だった。


 親指でカチカチカチカチと音を鳴らしておじさんに近づき、横に立つ。同じようにやればいい。はじめは力を込めて、そしてひじごと真横に。死んじゃうこともあるんだよ。


 おじさんはほうけたような、吃驚びっくりしたような顔をして僕を見た。首元を押さえて何かしゃべろうとして、その度にパクパク開く口から赤い泡と、ウシガエルみたいな声がれた。


 そのまま後ろにひっくり返って、首を押さえた指の間から、たくさんたくさん赤黒い血が出て来た。おじさんはまるで道路にへばりついていたあのウシガエルみたいだった。

「僕のアキちゃん泣かすなよ……」



「ユキちゃん!」

 突然、名前を呼ばれて時間が進みだした。アキちゃんが僕の足にしがみついて、泣いている。


「アキちゃん……もう大丈夫だよ、おじさんは死んじゃった」

 アキちゃんは口元を手でおおって、倒れているおじさんを振り返る。肩を大きく揺らしながら息をしてしばらく、動かないおじさんをながめていた。僕に向き直ると、カッターナイフから僕の指を一本ずつがして、自分の手で汚れをぬぐうと僕と同じようにカッターナイフをにぎった。


「ユキちゃん、大丈夫だから。ユキちゃんは何もしてないから。これから知らない大人の人が何回も今日のことを聞くけど、今から私が言うことを全部覚えて。私が言ったことだけを答えるの。私が言ったこと以外を聞かれたら、怖くて憶えてないって言うの。分かる?」


 アキちゃんが僕の瞳をじっと見る。

「どうして?」


「ユキちゃんが大切だから。言うとおりにしたら、きっと……ううん絶対二人で一緒に暮らせるから、ね?」


 アキちゃんが僕に話し続ける。どうして僕は、アキちゃんの言うことを聞いてしまったんだろうか。結局アキちゃんだけが、つらい思いをした。


 僕は……俺は、今でもずっと、この時のことを後悔している。何度も何度もこの日のことを……今でも……。

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