逃げ出す勇気 一
生きている意味を考えている時間ほど無意味なものはないなと、目が覚めてようやく気がついた。
だって、そんなことを考えるぐらいなら死んじゃった方が幾分もマシでしょう?
ということで私は今から死のうと思う。
生きる意味なんていう浅瀬をパチャパチャするのはやめて、深い海に潜ろうと思う。息もできなくなるぐらい、深く深く潜っていく。
だけれど、いくら私でも二つほど心残りというか、やっていかなければならないことがある。
それをしなければ逃げるのではなく、子供がする家出ぐらいに格が落ちてしまう。
逃げるのは子供じゃないのかだって? 違うでしょうバカだねー、子供と大人の決定的な違いは、自由かどうか、自由じゃない子供に、逃げるなんていう選択肢が取れるわけがない。
だから、大人になった今私は初めて逃げることができる。
私が子供の時にやっていたのは、ごっこ遊び、逃げるごっこをしていただけ、逃げたふりをしていただけ、実際には逃げてなんていないし、舞い戻っている。
それはごっこ遊びだし、家出みたいなものだよね。
私がやらなければならないことその一──お母さんとお父さんにお別れの手紙を書く。
いくら私が大人になったとは言っても、二人の子供であることには変わりはない。なのでその二人にはお別れを言わなければならないと私は思う。
だけれど、面と向かって伝えるのはとても面倒くさい。面倒だから逃げようとしているのに、そのために面倒なことをしていたら本末転倒どころかわけがわからなくなってしまう。
なので手紙にしようと。
手紙にすれば気持ちだけを伝えて、探させる心配もない。私は今日この日を持って逃げ出しましたよってことを伝えればいい。
長くなくていい、端的でいい。
私が何を思っていたのか、それだけが伝わればいい。
直接的に、回りくどいことはせずに文章を認める。
『私の人生は今日この日終わりを迎えているはず。とは言ってもこれを書いている私はまだ生きていて、死んでいない私だけれど、それでもこれを呼んでいる頃には私はどこかで死んでいることでしょう。どこで死ぬのかはまだ決めていません。家の庭かもしれないし自分のマンションかもしれない。北海道かもしれないし沖縄かもしれない。つまりは探さなくていいということです。たとえ死体が見つからなかったとしても、それはそれと諦めてもらえると助かります。諦めた人間がさらに諦めろと誘うのも変な話ですが。お父さんとお母さんのことは嫌いではありませんでした。むしろ大好きでした。家では感情を出さないようにしていたので、気づいていないかもしれませんが、ただ、私が大好きだったのは昔の二人でした。今の二人が嫌いになったとかではないですが、それでもどうしても好きにはなれませんでした。ああ、でも私が死ぬ理由に二人は含まれていません。厳密に言えば含まれているといえばそう言えなくもないですが、それは私が弱いからです。逃げ出すしか選択肢を取れなくなった私の責任なので、二人は気にせずに生きてください。好きになる努力から逃げた私が全部悪いのです。好きになるといえばおばあちゃんちゃんのことです。どちらかといえばこちらの方が理由の比重としては重いような気もします。昔のおばあちゃんは大好きでした、お母さんたちよりもずっと。だけれど正直に言葉を濁さずに言うと、今のおばあちゃんは見ていて気持ちが悪いです。見ていると気分を害します。でもそれはおばあちゃんが悪くないことも知っています。人間誰しもああなってしまう可能性があることも知っています。それをしょうがないとして見ることが私にはできませんでした。私の性根はとうの昔に腐っていたのだと思います。なので、逃げます。自分が二人にもおばあちゃんにも迷惑をかけないうちに逃げます。なので追わないでください探さないでください。泣かないでください怒らないでください。もう私も立派な大人です。一人の大人があきらめるという選択肢を取ったと思っていてください。色々なしがらみが私を食い潰したとでも思っていてください。そのしがらみに勝てなかった私が悪いと思っていてください。そもそもそのしがらみを作ったのは私なので、被害者は私ではなく二人と由花なのでしょうけれど、それを償えるほど私という人間に価値はありません。なので逃げます。全てから逃げます。私が一番気持ち悪いですね。文章を読み返していて思いました。だからそんな自分からも逃げたいと思います。長々とヨンデいただきありがとうございます。では──さようなら』
居間の机に書き終わったメモ用紙を置いた。
予定よりもだいぶオーバーしてしまったので、メモ用紙が束になって置かれている。いっそのこと人が立てるぐらいまで積み上げたいなとも思ったけれど、そんなことをしている時間もお金もないので、さっさと諦めて次に移る。
両親に対してはこれで終わり、これだけで終わり。これ以上は面倒くさい。
次にやるのは、私が逃げるためにやらなければならないことそのニ。
そのニについては対象の相手は決まっているものの、具体的に何をすればその人から逃げ出せるのかがわかってはいない。
厳密に言えば、一つ案自体はあったのだけれど私には、その案を実行する方法が思いつかなかった。
どこまでも追ってくる気がした。
どこまでも待っている気がした。
その人は、私の言葉を待ち続けている。
手紙を置き外に出た。まだ朝早い時間、空にはまだ月が見えていてそれなのに明るいという変な時間帯。夜と朝の境界の下私はすっかり変わってしまった道々を歩いていく。
昔はポツポツと建っているだけだった家、それが今はもう田んぼという存在を消し去るかのように、増殖し続けていて、そこかしこで建築作業が行われている。
誰かが栓を抜いたみたいに、めまぐるしい変化が町に訪れている。
私はそんな町から逃げ出すように、川沿いを走る。
走り続けてついた場所は、神社へと繋がる橋だった。しかし私の見覚えのある橋ではなくなっていた。
昔ながらに木で作られていた橋が、どこにでもあるような面白みもないコンクリートの、物に変わっている。
橋というよりも、道に見える。
その道の上に一人の女性が立っていた。
長く伸びたツインテールが冬の寒風に揺られている。
不思議と見たことがない人だとは思わなかった。由花を除いて、この町にいる人の顔なんて一人たりとも覚えてはいないのに。どうしてだろうと、私はその女性に近づいた。
女性は私に気がつくと、川に向けていた視線をこちらにやる。
「久しぶりね」
見たことがないわけではない。だけれど、名前が思い出せない。私はこの人とどこで出会ったのだっけ、忘れてしまった。元々覚える気がなかったのもかもしれない。それすらも忘れてしまった。
「覚えてない?」
表情に出ていたのか、ツインテールを揺らす大人びた女性は不快感をあらわにする。そうすると直前まで感じていた大人らしさが、消えていく。
今にも掴みかかってきそうな女性に私は、コクっと頷いた。
すると女性は、頭を抱えて言った。
「本当に? 冗談とかじゃなく?」
最終確認のように詰め寄ってくる女性に、私は頷くだけ。
女性は、それで信用してくれたのか、呆れたのか、諦めたようにため息を吐いた。
「……そっか、覚えてないのか。まぁそうだよね、私なんかあんたからしたらポット出の女だもんね」
「ポット出?」
「そう、あんたがあたしに言った言葉」
「モブみたいなモノ?」
「知らないよそんなの、逆に聞きたい、あんたにとって私に投げた言葉の真意を」
何かが漏れ出すように、ため息で吐き出したそれを回収するように、女性は私に掴み掛かる。
真意とか言われても困ってしまう。自分がこの女性に何を言ったのか以前に、会ったことすら忘れているのだから、答えられるわけがない。
女性は私の服にシワがつきそうなほど、爪を突き立てている。何をそんなに怒っているのか当然私にはわからない。過去に私が何かしたのはわかるけれど、それを思い出すのも面倒だ。
「あの時、あの時、あの時」
女性は何度も同じ言葉を吐き出しながら、私に唾をかける。何回吐き出されただろう、その過去を恨む言の葉が、突然別の言葉──それも馴染みのあるものに変化した。
「清水の家にあんたが来なければ」
いつの時なのかは知らないけれど、誰の家になのかはわかった。
「あなた、清水由花の知り合いなの?」
私の服越しに肉を掴んでいた女性の腕を、テープを剥がすみたいに引き剥がす。そして、逃げ出さないように、次はこちらが女性の腕を掴まえた。
「知り合いって、そうだけど」
と、女性はとても不服そうに答えると、そのエネルギーを跳ね返すように力強く言った。
「それがなんだって言うの? どうせあんたは覚えていないんだし関係ないでしょう。それに今更清水とどうこうしようなんて思ってないし。やめて、痛い。今日は、仕事が休みだったから、久しぶりに顔を覗きに来ただけ、会わずに帰るから、痛い、やめて、もう何もする気はないの。痛い……痛い……痛い」
私的にはそこまで強く握ったつもりはなかったのだけれど、女性の声がだんだんと本気で痛がっているように感じた。なので少し締め付けを緩めるが、それと同時に女性に顔を近づける。
「あなた、由花とどれぐらいの仲なの?」
突然の質問に女性は一瞬戸惑いを見せたが、早く答えを知りたい私は、緩めた力をまた少し強くする。だけれど私の強弱の設定は扇風機のように三段階ほどしかなく、うまく調整することができず女性は、とても痛そうな声を上げた。
「……痛い、痛い。わかった答えるから、なんでも言うから、緩めて、お願い…………ふぅ。あんた本当にバカなのね、今の扇風機でももっと細かく設定できるのに……それで、私と由花の仲だっけ? どれぐらいと言われても、幼少期から高校を卒業するまでは、長い休みでもない限り毎日のように会っていたぐらいの仲?」
あっちはどう思ってるか知らないけれど──最後に女性は付け足すようにそう言った。
私はそんなこと気にもせずに、次々と問いを投げかける。
「あなた、由花の好きなモノは知ってる?」
「食事と、お菓子と、ゲームと、日比野真穂」
「あなた、由花のユメは知ってる?」
「日比野真穂と桜を見ること」
「あなた、名前は?」
「ない──捨てた。みんなからは先輩って呼ばれてる」
「じゃあ先輩、先輩にとって清水由花ってどういう存在?」
「人生を賭して好きになった存在」
「じゃあ先輩にとって日比野真穂はどういう存在?」
「殺したいほど憎い存在」
「そんなに憎いならなんで殺さないの?」
「殺したら私の人生が全部無駄になっちゃうから」
「それはどうして?」
「私の人生は清水という存在のモノ。だけど、私の好きになった清水は日比野真穂のことが大好きなバカでアホな人間。だから、日比野真穂がいなくなった後の清水を私は好きになれない」
「なら、仮に由花が先輩のことを好きと言った場合はどうなるの?」
「それはない。日比野真穂が生きている限り清水の感情が変わることはない」
「先輩が死んだ場合はどうなるの? 由花の感情に何か変化は起こる?」
「起こらないでしょう。悲しいけど」
「じゃあ先輩は死んでもいい?」
「死んでもいいか……まぁいいんじゃない? 元々死んでるようなもんだし」
「そう、じゃあもしそんな死んでいるような人間が日比野真穂になれるとしたら先輩はどうする?」
先輩と名乗る女性は、そこで初めて答えるのを躊躇するような表情を見せる。側から見たら意味のわからない質問でも、先輩は質問の意図を理解しているのか、戸惑いではなく、答えるのを躊躇っているように見えた。
私は自分のことを弱い人間だと思ったけれど、この人はきっと軽い人間なんだと思う。だから軽々しく自分を捨てられる。
どちらがいいかではなく、どちらも悪いのだろう。
どちらが普通かではなく、どちらも等しく気持ち悪い。
狂っているのは私だけじゃない。
みんなどこか頭がおかしいのだ。
おかしい箇所が違うだけで、みんなどこかがおかしい。
それ故に、普通を嫌う。普遍を嫌う。自分が普通だと思ってしまうのが嫌だから、みんながおかしいのに自分だけ普通なのが嫌だから──それを嫌う。
先輩もその一人だ。もちろん私も。
だから、もうおかしくなっているのに躊躇する先輩を見ているとイライラが、自然と表に出てしまう。
私は、先輩の腕を力強く掴む。
どっちだと問いかける。
本当に自分という存在を捨てているのなら、私の言葉に頷いてくれるはずだ。
「なりたい……」
先輩は胸に手を当て、心からの気持ちを必死に表に出すように言った。
「日比野真穂になれるのなら──私は、かろうじて残っている私を捨ててもいい、その後がどうなるのかなんて私はしらない」
無責任だ。
だけれどそれでいい、私は求めていた答えはそれだけだった。
これで──逃げることができる。
「ありがとう……」
見知らぬ女性──由花の古くからの友人ということしか私にはわからないけれど、そんな人に私はお礼を言う。掴んでいた手も離し、今まで一度も見ていなかった目を見る。
私には似ても似つかないその目がプルプルと、震えている。痛かったみたいだ。
棘は刺さっている時間よりも、抜いた時の方が痛い──無理矢理であればあるほどにその痛みは増していく。
それでも、抜けたという事実は変わらない。もう二度と同じ刺さっているという痛みを味わうことはない。
「今日から、あなたが日比野真穂──そう名乗れば清水由花は笑顔を向けてくれるはず」
無茶苦茶だと私も思う。
名前を貰っただけではその人には、なれない。それはそうという話──同姓同名だった場合同じ人間になるかと言われると、そんなわけがない。
名前は体を表すとは言うけれど、最初その言葉を思いついた人も、私の理論に対して、そういう意味で言ったんじゃないと言うかもしれない。
でもそれは、清水由花の場合は当てはまらないというだけの話。清水由花は言っていた。
日比野真穂という存在が好きなんだと、日比野真穂という概念、日比野真穂そのものを好きになったと。
元私は自分のことを概念的存在になったとは思っていない。現にこのまま先輩が日比野真穂になったとして、私の両親はそれを日比野真穂とは思わないだろう。だってそれは私であって私じゃない。
だからこそ、私は両親には死んだという旨を伝えている。娘が自殺をした。
変化に耐えきれずに、自殺した子供がいたという事実が残るだけ。
それは残酷なことかもしれない、その後に出てきた新しい日比野真穂に刃が向くかもしれない。だけれどそんなの元私という存在には関係ない。もうその時には私は、逃げ切っている。
先輩という存在に私という存在を押し付けた──と言えるのかもしれない。
それで納得しないのが普通なことだけれど、それで納得してしまうおかしな存在が、清水由花というだけだ。
無茶苦茶で穴だらけな理論かもしれない。それでも清水由花という私自らが作り出した化物から逃げ出すにはこれしかない。
付けられた鎖を、外すことなく誰かに付け替えるぐらい無謀な、無茶苦茶なことしないと、私は由花から逃げることができない。
「それじゃあ」
と、名もなき私は走り出した。
目的地はこの先を真っ直ぐ行った神社──そこはよく燃えそうな木が沢山ある。ジミ様には申し訳ないけれど、私はあそこをゴール地点にしようと思う。
桜は見えない。
桜は見ない。
私のゴールは最初からここだった。
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