変化が怖いお年頃 三
帰路でそのことに気づいたのは本当にたまたまだったのだと思う。何かきっかけがあったわけでもない。ふと、新築の家の明かりが眩しくて、視線を変えただけだった。
子供たちも外を走っていない時間。
夜になれば、明かりがあることを除けば、昔の田舎町に戻ったような気がしている時──馴染みの木が完全に姿を消していることに気がついた。
特に思い出という思い出もあるわけでない。だけれど少しばかり心に穴が空いたような気がした。
木があった場所に建っている家は、現代風の建物で私や由花の物とは大分毛色の違う建造物になっているが、むしろこの町ではもはやそれが普通になりつつあって、私たちが異端者側に位置付けられている。
空間はどんどん埋まっていっている。
それなのに、空っぽに感じるのは悲しいことなのか。
変わりゆく町は、今日も楽しそうだった。
新しいものが好きだったはずなのに、いつのまにか新しさを拒むようになっていた。
昔にしがみつく大人のことを馬鹿にしていた。それなのに、今は私が昔を夢見ている。
あの頃はと、あの時はと、格好悪いとしていたはずなのに、私自身がそうなってしまっているのは、とてもとても、とてつもなく悲しく思える。
懐古を忌み嫌っていたのに、今は私が、蚕の繭に閉じこもっていていたいと願っている。
「サケクサイ!」
そんなことを考えていても、時は進んでいく。私が歩けば自然と家には着いてしまう。
その扉を開ければ、そこには両親がいて、居間の扉を開けた私への開口一番がそれだった。
「そんなに?」
と、自分の身体に鼻を寄せる。すると、自然と鼻が匂いを嗅ぐのを拒否し始めた。
「くっさ」
口も思わず反応を見せる。
言われて初めて、自分の匂いがドギツイものに変わっていることに気がついた。由花の家にいる間はこれが普通で、これの匂いしかしていなかったから、仕方ないといえば仕方ない。
帰り道誰ともすれ違わなかったのは、不幸中の幸いかもしれない。もし子供とでもすれ違っていたら、私は妖怪扱いでもされていたのではないだろうか。それほどの匂いだった。
「早く洗い流してきて」
と、私を追い払うように言ったお母さんは、おばあちゃんの顔色を見に立ち上がった。
私は言われた通りに、さっさと部屋から着替えを持ってお風呂に向かう。服を脱ぐと、さらに酒の匂いが舞った。洗面所が、居酒屋の匂いに変わるのはそう時間がかからなかった。
お風呂から出て居間に行くと、顔を赤くしたお父さんがいた。お父さんは、何をするでもなく、机の前でふらふらと首を揺らしている。机の上にあるコップにはお茶が入っている。酔っ払う要素なんてどこにもない部屋で、父は私に気がついた。
「真穂ーおかえり」
完全に出来上がっている。帰る直前の由花よりも、鬱陶しさで言ったら上になる。
「ただいま」
そのせいもあって返事は適当なものになる。
それよりもと、なんでこんなに酔っ払っているのだろうと、考え始めると答えはすぐに出た。
鼻がピクピクと反応を示す。
いまだに残っているアルコール臭に反応していた。
「匂いで酔ったの?」
と、口に出すとちょうど台所から料理を運んできたお母さんが、答えてくれた。
「だから早く落としてきてほしかったのに……無駄だったみたい」
「マジで、言ってるの?」
「まじめにいってるよ。この人下戸というよりも、病気的にアルコールの耐性がない人だから。最近飲まなくなってより一層って感じ」
外で飲んできた人の残り香で、酔うって──全くもって嬉しくないし、むしろなんだか気分も悪い。だけれど少しの申し訳なさも浮き出てくる。
知らなかった。お父さんがそこまでの人だなんて。
「ほら、早く寝室行って」
と、お母さんはもう自分で動くことも叶わないお父さんの、腕を取る。
「火陽、いつもありがとうな」
そうするとお父さんが、小さな声でお母さんの名前を呼ぶ。
それに対して、お母さんは少女のような純粋な照れた表情を見せた。
私はそんな二人から目を背ける。
見たくないものを不意に見せつけられてしまった。
両親のそういう話は、子供からしてみたら一生聞きたくはないし見たくもない。
気恥ずかしくなり、背中が尋常じゃないほど痒くなってくる。
「ご飯先に食べてていいから」
お父さんをなんとか立たせたお母さんは、その腕を取りながら居間を出ていく。
私は「わかった」とだけ言って座布団の上に座る。流石に今日はもうお酒はいいかなと、お茶をコップに注いだ。
注ぎ終わり「いただきます」そう言いながら箸を握る。机の上には肉じゃがが三人で食べるならちょうどいいぐらいの、量が盛られている。
昔よりも肉じゃがの量自体は減っているのに、それでもこの量がちょうどいいなと思えてしまうことが、無性に悲しさを生む。
お皿自体も別の物に変わっていた。前使っていたやつよりも一回りほど小さな物で、それに乗せているものだから、肉じゃがは外に少しはみ出してしまっている。
普段は、二人分だけを乗せているのだろう。それならばピッタリ乗り切るお皿の大きさ。
グラグラと今にも落ちそうな、肉と芋を掬い上げて小皿に置く。
汁が垂れないように、口に運ぶ。味自体は何も変わっていない。私が昔から馴染みのある肉じゃがだった。
「美味しい」
そう呟きながら、お米も口に運ぶ。
美味しい──はずなのに私は淡々と作業をこなすように、その一言以外は何も言わず、食事を進める。
私の普段と変わらない状況だと気づくのにそう時間はかからない。
この部屋には私一人だけだった。居間だけで私が住むマンションの部屋と同じぐらいの大きさ、それだけ大きくて広い部屋で、私は一人になった。
はみ出していた肉じゃがが、バランスを崩す。ボトボトと机の上に転がっていく。
その時、聞いたことのない声が居間に響き渡った。
「——————」
それは叫び声だった。
それは呻き声だった。
それは唸り声だった。
それは痛くて苦しくて辛くて悲しくてどうしようもない声だった。
それは──私が聞いたことのないおばあちゃんの声だった。優しく撫でてくれたおばあちゃんの声、微笑んでいたおばあちゃんの声──。
私は、声のする方へと足を進める。
「おばあちゃん?」
遠くて聞こえていないみたいだ。おばあちゃんは「──」と叫ぶだけ。
「どうしたの?」
少し近づいた。それでも聞こえていないみたいだ。おばあちゃんは「──」と呻くだけ。
「大丈夫?」
もっと近づいた。まだ聞こえていないみたいだ。おばあちゃんは「──」と唸るだけ。
「真穂だよ?」
顔を覗いた。そのぐらい近い、なのにおばあちゃんには私がわからないみたい。
「——————————」
おばあちゃんの表情は、痛くて苦しくて辛くて悲しくてどうしようもなくて生きる意味がわからずなぜ生きているのかもわからずつまらなそうに退屈そうに笑って泣いて拗ねて怒っている。
枯れ木よりもしわくちゃになっている腕が時折介護ベッドを叩く。しかし、その音さえもどこか虚しく消えていく。
か弱い音を鳴らす腕は一目見て枯れきっていることがわかってしまう。どれだけ水を与えようとこれ以上育つことはなく、花を咲かせることはない。夏の終わりを知らせる朝顔のように萎んでいくだけ。
腰が抜けた。
力が入らない。
立ち上がれない。
初めて見た。弱りきった人を、近しい人が弱りきっていく様を、生きていて初めて見た。
いつ命が終わるのかもわからない。
そんな状況で、死ぬことを許されず生かされるというのは幸せなことなのだろうか。
傲慢か? 強者の悩みなのか?
変化したことに気づけるというのは、それだけで幸せなことなのか?
望んでいた変化じゃあなくてもそれは、受け入れなければいけないのか? 先の未来がこうだったとしても、それを受け入れて生きていくのが正しいことなのか?
おばあちゃんがどこまで認識できているのかは、私にはわからない。もしかしたら、さっきの叫びも私を呼んだだけなのかもしれない。私は一人じゃないと励ましで言ってくれたのかもしれない。
だけれど、たとえそうだったとしても、私にその思いは届かない。
あの時のおばあちゃんはいない。
あの時のお母さんもいない。
あの時のお父さんもいない。
みんながみんな私を置いて先にいく。
今はまだ一人の時があるだけだ。
本当に一人ぼっちになるのは、まだまだ先の未来の話。
その未来は、今目前にいるこの姿。
果たしてそれに意味はあるのだろうか。
ない、いみなんて、はじめから、ない。
そう思うと腰に力が入る。嘘だったように簡単に立ち上がれた。
私は腕を伸ばそうとする。
可哀想だと思ったから──。
ここまで生きてしまった。そのことがとても可哀想だから。
「お義母さん」
お母さんの声がした。私は腕を下ろす。お母さんはおばあちゃんの声を聞いて駆けつけたようだったが、そこに焦りなどは見えず、あくまで普段通りの対応をしているように見えた。
日常的にあの声を出し、普遍的にあの表情をしているということだろうか。
だとしたら笑えない。特別だと思った。今際の際だと思った。
「あ、真穂。食べ終わったなら片付けといて、多分もう今日はお母さん食べないから」
お母さんは、おばあちゃんの体の向きを変えながら私に言う。
一人の動かない人間を動かすのはとても大変なはずなのに、お母さんは慣れた手つきで、事を進めていく。その合間に私にお願いをするぐらいの余裕も持っている。
ここ数ヶ月ではないのだろう。数年単位で介護をしていたからこそ、私にも余裕そうに見えるだけ。実際は、クマを作るほど精神的に追い詰められているのだろう。
実の親でもない。
好きになった人の親──他人と言ってしまってもいいぐらいの関係値、それなのにここまで尽くすのは、お母さんが優しい人間だからなのか。それとも、普通の人は普通にそうするのだろうか。
だとしたら、私には到底真似できないなと思う。
だって、お母さんやお父さんがおばあちゃんのようになってしまった場合、私は何もできる自信がない。
あの声を聞いたとしても、私は動かないであろう。
手も足も耳も顔も、背けるだろう。逃げるだろう。
それは──由花にも同じことが言えるのだろうか。
由花ともしこのままずっと年老いるまで、一緒にいたとして、もし由花がおばあちゃんのようになってしまった場合──私は、何をするのだろう。
「…………」
食器を重ねる。余った肉じゃがの器にはラップをして冷蔵庫に、明日の朝でも昼でも食べられるように。
「おやすみ」
おばあちゃんの体を拭くお母さんに一言それだけ言って居間を出る。
「おやすみ」
お母さんの返事もそれだけだった。
暗い道を歩いてベッドに倒れ込む。
明かりはなかった。ずっと暗かった。昔は暗闇なんてなかった。ずっと明るかった。
変化と進化と変身と変態と成長どれも私は嫌いなのだと気づく。何も動かないでほしい。何も動かさないでほしい。赤信号ならそのままで、横断歩道を渡れなくてもいいからそのままで。
月が浮かぶならそのままで、太陽が見えなくてもいいからそのままで。
死ぬのならそれでいい、辛い未来を見るのならそれでいい。
死なないのならそれでいい、だけれどそれならば時を止めてくれ。
何もかもが止まってくれ。
この町も、お母さんもお父さんもおばあちゃんもおじいちゃんも、清水のおばちゃんもジミ様も──由花も全員止まっていてくれ。
全員私を置いていかないで、もう私は子供じゃないんだからそんなに早くは走れないよ。
みんななんでそんなに元気なの? みんななんでそんなに楽しそうなの? 笑えばいいのかな、笑えば元気そうで楽しそうになれるかな。
………………おかしいな………………。
全然笑えない。
笑うのってどうやるんだっけ、さっき居間にいる時はできたのに、忘れてしまった。
さっきはこうやって……あれ、私はどっち向きに手を伸ばしていたんだっけ。前? 後ろ? 思い出せない。
私はなんのために手を伸ばしたのだっけ。おばあちゃん? 私? お母さん? お父さん? おじいちゃん? 誰のためなんだっけ。
そもそも──私は──なんで────生きてるんだっけ──。
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