変化が怖いお年頃 二
昔は気をつけるも何も、と笑っていた時期もあったけれど、今はあまり冗談でも笑えなくなっている。
端的に言えば人の数がとてつもなく増えている。私がキスをされた年から数倍にまで跳ね上がっているらしい。
とはいえ元の値が元の値なので、田舎町が突然地方都市に化けていたなんて御伽話にはならなくて、よく言って都会の田舎、悪く言って地方都市の外れのハズレのはずれ。
つまりは、家自体は多くなっているけれど店などが増えたわけでもないので、田舎町がやっとしっかりとした町になり始めたというぐらいの話。
それでも、道は荒れた土の地面からコンクリートに変わっていて、しっかりと整備されつつある。車の通りもそこそこ、数分に一回はすれ違う程度にはなっていて、車と同等かそれ以上に、子供ともすれ違うようにもなっている。
当然知り合いなんていないので、気にもしないけれど、元気に走り回る姿が輝いて見えた。
知らない景色の連続、毎年毎年移り変わる景色に、寂しさを覚える。
変わった箇所を見つけては、ワクワクしていたあの頃の気持ちはもうない。置いていかれる気持ちの方が強くなってしまい、素直に喜べない。
私が横断歩道を渡る直前で信号が赤になった。
こんなことはなかったと感傷に浸る。
昔なら信号になんて止められることなく、どこまでも走っていけたのに──こんな機械ごときに、私の足は止められる。
車は一台も通らない。
私がここで足を止めているのは、何のためなのだろう。人も車もいない、それなのに赤色が見えたから足を止めている。
文章にしてみるととても不自然おかしなやつなのに、行動自体には何も不思議なところがない。
それは人間としては当たり前のことで、危険を事前に防いでいるというだけのこと。私だって今ここで見知らぬ子供が、猛ダッシュで赤信号無視しようとしたら、止めようとするだろう。事実として止められるかは別として、止めようと努力はするだろう。それは反射的に行ってしまうこと、見知らぬ赤の他人対しても──。
人間として訓練された私たちにとっては、それが普通。
なのにどうして、人としてはそれを拒もうとするのだろう。私という一個体は、それに嫌悪感を覚える。
普通で何がダメなのか。普通の何がダメなのか。
赤信号を見たら足を止める。
それができることに誇りを持たずに、隣を見る。
赤信号を見ても足を止めずに走っていく。
それに憧れを抱く。やってはいけないことをできてしまう。世間的に見たらどうしようもなくて、バッシングの対象で、一歩間違えれば犯罪者のラベルを張られるようなことをしているのに、羨んでしまうのだろう。
青信号で渡っている私よりも、赤信号で渡っている人の方が、青く見えるのは、どうしてなのだろう。
なら、赤信号の今、道を渡ってしまえば私の心は満たせるかと言われればそんなことはない。結局は自分にできないことをやっている奴のことを妬んでいるだけなのかもしれない。
隣の芝生は青く見えるというけれど、赤信号を渡って真っ赤に染まった芝生を見ても、私は青く見えるのだろうか。
そんなことを考えているうちに、信号の色が青色に変わった。
それを見て私は歩き出した。
つまらない光景だった。この町に限らずどこにでもありふれた、青信号の横断歩道を渡る光景、それを人は安全と呼ぶのだろう。
私は、そんな安全な道を歩いていく。
お父さんにも言われたしね、気をつけてなって。
信号に引っかかってしまったのもあって、普段よりも時間がかかってしまったが、由花の家に到着した。
仕方がないとはいえ周りの家々と比べて古臭くなってしまった、由花の家には、相も変わらずチャイムのような物はついておらず、昔のように戸をノックする。
それでも家が増えたからのか、鍵はしっかりとかけているようだった。
前までのこの家は、防犯意識なんてものは皆無に等しかった、まぁそれはうちも同じで、ただうちはうちで別の意味合いでの防犯意識で鍵を閉めているのだろうけれど。
「由花いるー?」
近所迷惑にならないよう、最低限由花に聞こえるぐらいまで声を顰める。
すると家の中から、トストスという足音と嬉々とした声が聞こえてきた。
「真穂ちゃん?」
鍵が開かれる前に名前を呼ばれ、扉越しに私も答える。
「そうだよー」
「ちょっとまってね」
言って、慌てる様子もなくガチャと鍵が開く音がした。そして間を開けることなく、ガラガラと横開きの扉が開いた。
「久しぶり」
そう言った由花は、あの時よりも少しだけ伸びた髪を意味もなく弄っている。服装は普段から部屋で着ているのを思わせるラフで動きやすい格好。それでも寒さ対策として、上着は羽織っていた。
「うん、久しぶり……中入ってもいい?」
空は晴れていて、日差しも良好だけれど、年々寒さには弱くなってしまっている。冷たく吹き抜ける風が、私の気持ちを急がせる。
「う、うん」
私が身震いしているのを見て、察してくれたのか玄関先で無駄話をすることなく、由花は居間へと通してくれる。小学生の時なんかは、玄関にいる時間の方が長いなんて時もあったのに人間年齢が上がる方が弱くなったような気がするのは、気のせいだろうか。
由花の家は私の家同様に、特に目新しさのようなものはない。あの頃から変わらない廊下を通り抜け、居間に着く。
つくなり私は、上着を置きながら炬燵に潜り込む。
「生き返るー」
何十年経とうと、この瞬間の幸福感は、何物にも変え難い。
私がそうやって体を伸ばしていると、台所の冷蔵庫に手をかけながら由花が話を降ってくる。
「どう? 最近は」
冷蔵庫からは缶のお酒を二本取り出した。その片方を私の前に置く。由花が缶の封を開けると昼間からは中々聴く機会のない、ダラシない音が聞こえてきた。
「昼間から……」
「いいでしょ別に、真穂ちゃんも弱いわけじゃないし」
確かにあの父の娘とは、思えなぐらい私はお酒に強い方で、そんな私よりも強い由花なので、こんな軽い一本を飲んだくらいではなんともないけれど、一年ぶりに再会して初っ端が、お酒は雰囲気的にどうなのだろう。
だけれどその悩みは、由花が続けて言った言葉で、杞憂に終わるというよりかは、私の自業自得だという結論になる。
「それに……散々焦らされて、待たされて、溜められてる気持ちを発散というか、当の本人の前で我慢するのなんてお酒でも入れなきゃやってられないよ」
「それは、ごめん」
謝ることしか私にはできないでいる。
「謝るぐらいなら、拒否でもなんでもいいから答えを聞かせて欲しいんですけどね」
「それも……ごめん」
やはり謝ることしかできない。私はあの時から逃げ出したままで、囚われたままで、捕らえられたままで、逃していない。周りの状況が刻一刻と変化している中、私の由花に対する気持ちは、停滞したままだ。
グビっと由花がお酒を流し込む。口元についた水滴を手の甲で拭い取ると、もう一度グビっと喉をお酒で鳴らす。そしてもう一度水滴を拭う。そんなことを数回繰り返したところで、言った。
「思うことはあるよ。もうやめようかなって、諦めようかなって、何十年も片想いを続けて、何やってんだろうなって」
「…………」
「でもさ、それでもどれだけそう思っても、私、真穂ちゃんが好きなんだよね」
あれだけ気合いを入れて、忘れさせないようにとしていたその言葉も、今では軽い何気ないセリフの一つになってしまっている。
私も私で、その言葉が特別だとは感じつつも、本気のものだとは受け取りつつも、流せてしまえるようになっている。
「由花はさ、なんでそんなに私のことが好きなの?」
缶の封を開ける。プシュっと炭酸がハジける音がした。私の質問の内容も側から見たら、ハジケテ爆散させられてもおかしくはないぐらいには狂った質問だとは思う。
「よくそんな質問できるね」
しかし、それを笑えてしまえている由花も由花で、やはりどこか狂っているのだろう。
愚かな会話だとは思う。可笑しな会話だとは思う。バカな会話だとは思う。それでも、それに違和感以上のモノは持たずに話は進む。
「なんでか、か……顔かな」
「顔……」
「そうだね。私の理想とする顔が真穂ちゃんなんだよね。真穂ちゃん以外の顔は理想じゃなくて、真穂ちゃんだけが私の理想なんだよ」
「随分俗物的というか、理性に従順というか」
私自身、自分の顔立ちに自信というものはあまりなく、むしろ普通よりも下だと思っていたけれど、そんな私を褒めてくれるのは素直に嬉しい反面、どうしても気になってしまう。
顔だけで、そこまで好きという気持ちは持続するものなのだろうか。
「するわけないよね」
と、私の考えを読むように言った由花は、空になった缶から数滴の水滴を搾り出しながら言う。
「だって、顔を好きになったのなんて去年のことだもん」
「去年、なんかあったけ?」
言って立ち上がり、冷蔵庫に向かう。
また私が忘れているだけだろうかと思ったけれど、今回はそうではないらしく、冷蔵庫から追加で缶を四本ほど取り出しながら由花は、言う。
「別になんも、ただ、なんとなく真穂ちゃんの顔がめちゃくちゃに可愛く見えただけ」
言い終わると同時に、プシュっと音がする。今日はあと何回この音を聴くことになるのだろうか。
グビグビっと飲む量がだんだんと増えていっている由花の視線が、私の顔付近から少し下へと向いた。
「その前は胸だったしね」
「胸……これが?」
と、私は自分の胸元に目をやるが顔と同様にとてもじゃないがこれが理由で、好きが持続するとは思えない。
が、由花はそれを否定するように、チッチッチと古臭い動作をした。
「人の趣味は千差万別、人の嗜好は無限大。真穂ちゃん、あんまり自分を卑下するもんじゃないよ。その卑下は私にもしていることになるからね」
「それはそうだけれど」
由花の言いたいこともわかるけれど、なんだかはぐらかされているというか、スッキリとしないというか。
「真穂ちゃんは傲慢だねー、絶対に自分は清水由花という人間からは嫌われないっていう、変な意思を感じる」
「そんなこと……」
ない。とは言い切れない。
普通なら捨てられていてもおかしくないことを私は由花にしているはずなのに、どうしてこうも嫌われないと、思えるのだろうか。
若い頃はこんなこと考えもしなかった。由花は私のことが大好きで、私はそれが一生変わることないものだと思い込んで、弄んで、逃げた。
最低なやつだな私。
それに気づいたとて、変える気がないのだから、本当にどうしようもない。
それなのに、今になってなぜ嫌われていないのかの理由を求め出している。安心がしたいのだと思う。私は由花から愛されているということを実感したいのだと思う。好きという言葉以外で、好きという言葉を言ってほしいのだと思う。
ようは飽きたのだ。好きだと何回も言われて、それは本当に好きなのかと、私が勝手に自問自答している。
…………とてもとてもキモチがワルイやつなのだ。
「私の説明じゃ満足できない?」
と、どこからか出したお菓子をつまみがわりにしながら、由花が問いかけてくる。
「わからない……怖い。由花がなんでそんなに私を好きでいてくれるのか、私にはわからない。から、怖い、安心したい──もっと好きって言葉を私に伝えてほしい」
私自身言っていて自分が何を言っているのか、何を要求しているのか何を伝えたいのか、わけがわからなくなっているのに、由花は理解をしたように言った。私よりも私を理解していて、私よりも数倍賢いことが伺える。
「真穂ちゃん、私はね。胸の前は腰回りが好きだったの。その前は太もも、そのまた前は足の指先から足裏あたりが好きだった。それより以前は、首元とか鎖骨とか、声とか唇とか髪の毛とか、まぁ好きな箇所が色々あったんだけど、今現在のも含めてそれら全部に共通してるのが、日比野真穂っていうことなんだよ」
「…………と言いますのは?」
私を好きだというのは伝わってくるが、結局結論が見えてこない。私は急かすように言った。
すると由花は、つまりと言い出した。
「つまり、私は真穂ちゃんという存在を好きになったんだよ。日比野真穂という概念、日比野真穂そのものを好きになったと言っていいんじゃないかな」
大袈裟な物言いに躊躇いを見せてしまう。つまりと言われても要領の得ない説明に変わりがないが、なんとか理解しようと問いかけた。
「由花が言いたいのは、私がどんな私になろうと気持ちが変わらないってこと?」
例え私が猫になろうと犬になろうと虫になろうと雲だろうと空気だろうと、星だろうとなんだろうと、それが日比野真穂である限りは好きであり続けること? と問いかけた。
そうしたら、由花は前に垂れた髪をかきあげる。
「そういうこと。私はどんな真穂ちゃんとでも桜を見たい」
これでいいのかという気持ちもある。これで安心してしまっていいのかという疑問もある。
それでも、そんな不安が押し除けられるほど自信に満ちた目を向けられてしまったらこれ以上は何も言えなくなってしまう。
それに、私が感じた不安感なんてきっと由花からしてみたらちっぽけな悩みなのだろうと、思う。
私はあくまで選ぶ側の人間になれている。この関係性の間ではの話だけれど。そんな私が抱いている不安と比べれば由花の抱く不安は、いつ首を切られてもおかしくない状況で、放置されているのと同じ、そういった状況下なのに由花は、笑っている。
つぼみが開いていないのに誰よりも、咲き誇ったように笑顔を見せる。
その笑顔は、毒のように私を誘う。
楽になりたければ、この毒を吸えと、楽になるまで吸い続けろと、誘惑が止まらない。
「今年こそは、桜……見ない?」
その言葉が最大の毒であり、甘い蜜のような匂いがする。その密につられた蝶に私は、ならない。なって仕舞えば全てが終わる。
飛べる間は飛んでいたい。
こちらに見惚れる花の周りを飛んでいたい。
「もう少し考えさせてほしい」
何度目だろう、数えるのはもうやめている。私の中での常套句、何も上手くない、相手の気遣いだけで成立している、私のこのセリフ今回も由花は頷く。
「わかった」
と。
今回は、何かを洗い流すように新しく開けたお酒を喉に流し込んだ。
グビグビグビグビっと、音がした。
由花の家にあるお酒を今日で全て飲み果たしたのではないかと、疑うほど飲んでいたら、外が真っ暗になっていた。雲もない空だったので、月が綺麗に見えそうだ。
「帰ろうかな」
机に体重を預けて立ちあがろうとする。机の上には大量の空き缶から空き瓶まで、大小様々なお酒が乱立していた。全てがゴミで、過去の物。
私はそれらを避けながら、立ち上がる。
「えー、もう帰るの?」
私はペース配分を考えていたので、そこまで潰れてはいないが、由花の方は全てを忘れてしまおうとするかのように、私の数十倍のペースで喉を潤していた。そのせいもあってか、完全に出来上がっている。
「区画整理とか、そもそも建物が増えてるせいで、暗くなると帰り道がわかりにくくなるからね」
早めに帰らなければ、最悪野宿ということもあり得る。そのぐらいこの町の変わりようは激しい。
年齢的には、わざわざ気にするような時間でもないけれど、それでもこの寒空の下野宿や、しばらく道を放浪するのは避けたいところではある。
「そういうことで」
と、私は片付けをすることなく居間を出て行こうとしたのだが、由花が素早い動きで、私の腕を捕まえた。
立ち位置的に私が、由花を見下ろしている。普段では絶対にありえない体制で、由花が純粋な眼差しを向けてくる。
眼鏡からはみ出した眼が、とても綺麗に輝いた。
「まだ、えっちいことしてないよ?」
コトンと、首を傾げている。
「その口ぶりだと、私たちがもう既にそういう関係に聞こえるんだけれど」
「そうでしょ?」
コトンと、首を傾げている。
「そうじゃないね。全くもって、私は穢れなき乙女だから」
「穢れなき乙女は、もう一人の乙女の心を弄んで興奮したりしないと思うけど」
「…………」
突然飛んできた正論に、苦し紛れの言い訳すらできずに黙ってしまう。
「しようよー!」
私が黙り込んでいる間に、由花は、私の腕にしがみつくような体制になりながら、子供がお菓子をねだるような物言いだった。
しかし、それとは反対に由花自身から出ている雰囲気は妖艶な夜の町を浮かび上がらせる。火照った顔から滲み出る汗、その汗は首元を伝い胸元へ、暑さのせいで緩めていたのだろう、全体的に無防備になっていた胸元に汗が音を立てずに落ちていく。
ゴクリと、反射的に生唾を飲み込む。
紅潮しきったその表情は、今まで見たことがない由花のもので、思わず手を伸ばしてしまいそうになる。
「真穂ちゃん……」
名前を呼ばれた。
その声は耳元から、囁くように、私をヨブように。
跳ね除けることを私の体が拒否した。溺れてしまいそうになる。このまま一緒に海の底へと沈んでいってしまいそうになる。星と月からどんどん距離が離れていきそうになる。
桜色が部屋に満ちたりそうになる。
だけれど、それら全てを私の理性のタガが引き止める。鎖が無理矢理に引っ張られていく。引き剥がされていく。引き離されていく。
気づけば由花は、私の腕にしがみつきながらも寝息を立てていた。
「危なかった……」
寸前だった。
あと少し、酔いが回っていれば耐えられていなかであろう。由花は隙あらば今回のように、既成事実を作りたがる。
どこで覚えてきたのか、あのキスをした翌年には、今ほどではないにしろ、そういう行動が見え始めていた。その度になんとか耐え忍んでいたのだけれど、今回のは本当に危なかった。
年々、由花自身の色気みたいなものが強くなっている気がする。
今はもう、あの時みたいに隣同士眠るなんてことはできない。もししてしまえば何をされるかわかったものじゃない。
「はぁ……」
息を整えて、蝉のようにしがみついていた由花を剥がし、適当に布をかぶせておく。その内自分で起きて、自分の部屋までいくだろう。
私が連れていってもいいが、部屋に入るタイミングで都合よく目を覚まされでもしたら、なす術がなくなってしまう。
基本的に、由花の方が力は強いのだ。昔から。
「じゃあ、また明日」
そう言って居間を後にする。寝ているはずなので、由花には聞こえていないだろう。それなのに声が聞こえたような気がした「またね」と。
気のせいだろう。
そう思うことにした。
そう思わなければ、私の負けだったという事実に耐えられない気がしたから。
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