変化が怖いお年頃 一
あの日から数年が経過して、私は一人暮らしをしている自宅のベッドの上で目を覚ます。カーテンの隙間から顔を出す日差しが鬱陶しくて目を細める。朝は苦手だ。鳥の声もうるさく、日差しも眩しく、街では人や車が他人のことなんて気にせずに、歩き走り走らせている。
ライト近くのスマホに手を伸ばす。あの頃とは値段も性能も随分と変わってしまったそれを、寝ぼけているとはいえ落とさないよう、慎重に手元へと運ぶ。仮にも朝からこれを落として画面が割れでもした日には、その日立ち直れる自信がない。値段的にも気分的にも。
部屋には時計の類はないので、目を醒めしての時間確認は、スマホで行うしかない。時計を買えばいいだけと言えばそうなのだけれど、時間確認をするためだけに、時計を買うのはどうも腰が重い。
時間が確認できてネットも、読書もなんでもできるスマホがあれば、それでいいのではないだろうか。わざわざ、必要のないものを買うぐらいなら、寝ていた方がマシだと思ってしまう。
スマホの画面には、数年前に撮った山中の枯れ木と時間が表示される。時間は、九時ちょっと前、通常ならば急がねばならない時間帯だけれど、今日は大学の講義もバイトも入っていない。
かといってゆっくりと、映画でも見るかというわけにはいかない。今の季節は冬、年越しをもうすぐそこに控えた十二月の末も末。
あの日以降も変わらず、足を運んでいるあの場所に今年も向かわなければならない。あの時と違うのは自分の車で、自分一人で行かなければならない。
まぁそれも、今年からというわけではないので、特別変わったことでもないのだけれど。
洗面台の前に立ち、顔に冷たい水をかける。シャキッとまでは行かぬとも、多少目が冴えたような気がした。その気分が無くならない内に、他の支度も済ませてしまおうと、私はそそくさと動き出した。
あの頃から私自身のことは身長が気持ち伸びた程度で、それ以外のことは何も変わっていないに等しい。変わっていくのはいつだって、私の周りだけだった。
おじいちゃんが亡くなった。数年前だ、私が高校を卒業してすぐぐらいだろうか、認知が歪み始めていたらしい。詳しいことは私自身が聞くことを拒否したので、わからないが、釣りをしていての事故だったらしい。
好きだった釣りだけは、毎日忘れていなかったと、お父さんは言っていた。
それが直接的な原因かはわからないが、おじいちゃんが亡くなって以降おばあちゃんは寝たきりになった。もちろん初めのうちは軽い症状だったようだけれど、それから数年が経った今は、生きているといえるのか曖昧なものになっている。
おばあちゃんの姿を見るたびに、辟易する。あの状態になってまで、生きるというのは果たして幸せなのだろうかと、私自身も将来ああなってしまう可能性があるということに、精神を削られる。
そんなおばあちゃんを毎日介護しているお父さんとお母さんは、すごいなと素直に思う。
その二人にも迷惑をかけないよう、あの町で一緒に暮らさずに、一人暮らしを始めた私だけれど、それが正解だったのかと言われれば、失敗ではあるのだろう。お金の面やどうしても親というものに頼らなくてはいけない場面も多くなってしまう。
それに迷惑をかけないためとかいうお題目を掲げてはいるが、結局はあの町に長く滞在したくないという、自分勝手な思いの方が強いのだと思う。
特別なままにしておきたい。
そんな子供みたいな願いを抱きながら、私は車の扉を開く。
お父さんが運転していた車に乗っていた頃よりも、気持ち遠くに感じるおばあちゃんの家を目指して車を走らせる。運転には最新の注意を払いながら、道中の見飽きるほど見てきた景色から、少しでも変わった箇所を探そうとするが、それもすぐに飽きてしまう。
一人で乗っている車はとても退屈で、あくびが漏れてしまう。免許を取った初めのうちは、緊張もしていたけれど、その緊張になれてしまえば、作業に変わりはない。
車に乗れば大人の仲間入りだと思っていた自分を殴りたい。
それはお酒も同じで、大人はみんなお酒を飲んでいるから、大人なのだと思っていたけれど、実際に飲める年齢になってみると、お酒を飲んでいても子供っぽい人は沢山いるし、飲まなくとも大人という人たちも沢山いる。
私が子供の頃に思っていた大人像というものが、実際になってみると大したことがないのは何度経験しても、慣れるものではない。
小学生になる前は、小学生が大きく見えて、小学生になると中学生が、中学生になると高校生が、高校生になると大人が──だけれどそのどれになったとしても、成長したという実感は得られなくて、ただ、年齢が上がっただけ、あの頃に自分からは大きく見えていたものにはなれていないと気づく。
周りだけが大きくなっていき、自分は結局何も変わっていないのだと気付かされる。
時間が変えていくのは周りだけ、時が経過しても自分は変わらない。
だけれどそれは私の望んだこと──あの日あの時逃げた私が、決めた選択肢、時間を戻れても変えることはないであろう選択肢、私は今のこの状況を望んで手に入れた幸せ者なのかもしれない。
だから、今も欠かさずこの町に足を運ぶ。
ガラガラと横開きの扉を開いた。
「ただいま」
毎回悩む、ただいまでいいのだろうかと、けれどどっちみち答えのない問題だと気がついて、すぐに忘れてしまう。
玄関で靴を脱ぎ、居間に向かう。
この家自体の構造は、私が生まれてから何も変わっていない。
あの頃と同じような足取りで、向かうがどうしても狭く感じてしまう。こんなにこの廊下は短かったかなと、階段は小さかったかなと、道中にあるものだけでも、いくらかの疑問は浮かんでくる。
その全ては私の体が大きくなったからで説明できてしまうけれど、そうすると一つの矛盾が生まれてしまう。
居間についた。
家自体と同じで、居間にも変化という変化は特にない。おじいちゃんの仏陀が置かれているぐらいで部屋の模様替えをした様子もない。
それなのに、広く感じてしまう。
何かがなくなったような、何かがいなくなったような。
一人の人間がいなくなってしまっただけで、家という建物は寂しい風を流している。透明な隙間風が、私の頬をなぞる。その風が来ている方向は、おばあちゃんが眠る一室、そこにはお母さんがいた。
戸を開いた音で目が覚めたのか慌てた様子で、こちらに振り向いた。
「おかえり」
隠そうともしないクマが、母の疲れを私に伝えてくる。日によるとは言っていた。穏やかな日もあれば激しい日もあると、お母さんはそれに全て対応しているらしい。
それでも優しい目が変わらないのは、どこからくる強さなのか。
「ただいま」
わからない私は、そう返事をするしかない。荷物類を全て端に寄せる。
「大丈夫だった?」
「うん」
「そう」
そんな簡素な会話しか出来ないのは、お母さんが疲れているというのもあるが、何より私自身がここの空気があまり好きではないという方が、強いのかもしれない。
寝たきりのおばあちゃんが、嫌でも視界に入るこの場所は、どうしても重たい空気になる。
お母さんと話すことは山ほどとはいかぬとも、あるにはある。それなのに言葉が出てこない。会話をするのが久しぶりというわけでも、お母さんと面と向かって会うのが久しぶりというわけでもないのに、なぜだか私の足は玄関に向かっている。
あれだけ好きだったこの家も、私にとっては過去の思い出になってしまっているのだろうか。
「お、真穂おかえり」
玄関の戸を開けると、ちょうど買い物から帰ってきたであろうお父さんの姿があった。
お父さんは、両手に抱えきれないほどの食料や日用品などが入ったレジ袋を持っていた。車の中には、さらに同等以上の物が入っているのだろう。
この町は、発展はした。
見違えるほどに、だけれど食品などはどうしても一度に買う必要があるらしい。お父さんが仕事の帰りなどに突然店に寄っていくということはできず、かといってお母さんがおばあちゃんの側を離れることもできない。なので、ある程度はまとめて買っておく必要がある。
それに加えて、この時期は私という人が一人増えるので、いつもより多く買ってきていると言っていた。
「ただいま」
そのことも相まって少し目がウロウロとしてしまう。居場所であるのは確かなのに、どうやっても心が落ち着かない。
蛇口をいくら締めても、少量の水が延々と垂れて、水のポタンという音が、聞こえてきてしまうような。気にしなければその内止まる現象を気になってしまう、ゾワゾウ感に似た何か。
「お父さん、今日はゲームやってないんだね」
私が高校生の頃は例えお父さんが出かけていても、電源が入ったままだったのだけれど、今日は電源以前にゲーム機が出されていなかった。
それにお父さんは、もう一組の荷物を車から取り出しながら答える。
「ああ、ゲームはもうやめたんだ。言ってなかったっけ?」
「どうして?」
聞いていない。訊いてもいない。私が一人暮らしを始めてから話すのはお母さんとばかりで、お父さんと話す機会は滅多になかった。その少ないタイミングで、ゲームの話をわざわざしたりは、しなかった。
それに。
「去年は、置いてあったでしょ?」
電源はついていなかったが、居間にゲーム機自体は置いてあった。私はてっきりたまたま電源を消していただけだと思っていたのだけれど。
「ん? 去年……片付け忘れてただけじゃないかな。その前からずっと」
口ぶりから詳しい年数はわからないけれど「忙しくてね」という追加された言葉で、私はこれ以上聞くべきではないなと思った。
あれだけ中毒者のようにのめり込んでいたゲームに電源を入れられないほどに、厳しい状況に耐えられる気がしなかった。
「そうなんだ」
適当な相槌で話を終わらせる。強引になってしまうが、お父さんなら察してくれるだろう。お父さんの方も自ら話したい内容ではないだろうし。
「これから清水さんのところ?」
と、荷物を全て玄関にしまい終わったお父さんが、腰を伸ばしながら言う。
「うん」
何かを考えて家を出たわけではないが、この町で私が一人で行く場所なんて十年前から変わらず一つしかない。
お父さんに当てられたというよりも、どんな状況だろうと私が外に出た時点で、それは決まっていたというだけの話。
「そうか、気をつけてな」
言って、背中見せる。その背中はとても小さく見えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます