初初日の出
「起きて!」
鳥の鳴き声よりも先に由花の声がしたのは、人生で初めての経験だった。
目を擦る。
暖かさをはとうの昔に消え去っていなくなったみたいで、私は布団を引き寄せようとするが、剥がされてしまう。
「んんんー」
と、まるで子供のような鳴き声を出しながら、布団を要求するが裏切り者の布団からの返事はなく、代わりにモコモコのパーカーが飛び込んできた。
「外行くよ!」
眠い。どうしようもなく眠い。このパーカーを着て布団に潜り直そうか──そう思っていると、由花が私の体を無理矢理に起こし始めた。
上半身だけがカーテンの外を覗く。
窓から見える限り外には、明かりがあるようには見えず、もちろん太陽なんかも昇ってはいない。
再度目を擦りながら時間の確認をする。少しずつ冴えてきてはいる脳みそが、時計の針を視認した。
時計の秒針は、私がベッドに入ってから数時間とも経過していない位置に止まっていた。
今もカチカチという音が耳をすませば聞こえてくるので、壊れているわけではなさそうだった。
「はやすぎない?」
上着を羽織っていた由花に問いかける。
それと同時にこれならもう少し寝ていても日の出には余裕で間に合うのに。そう思い、上着を布団代わりに横になろうかと、体の力を抜くと、がっしりと私の腕が掴まれた。優しさなんて微塵もなく、絶対に逃さないという気概が感じ取れる。それと同等以上に、語気を強めて由花が、一言言った。
「やくそく」
「はい」
私が今この場で発せられる文字はその二文字だけだと、直感で理解した。寝る直前のことよりも、今この瞬間のことの方が記憶に植え付けられてしまった気がした。
「…………ふわぁーーー」
大きなあくびを欠く。右手は由花によって動けなくなっているので、左手で口元を押さえて最低限の体裁は守ろうとしていたのだが、大きなあくびを隠し切れるわけもないことに、気づき冷え切った手をポケットにしまった。
「過密スケジュールすぎやしないですか?」
ポケットの布と手を擦り合わせてなんとか温めようとするが、効果はなかった。そんな程度で凌げる時間帯ではない。
「まほちゃんが言い出したことだよ」
お母さんのような物言いに何も言い返すことができず、唯一できたのは口を尖らせることぐらいだった。
無理矢理起こされてから、数十分が経過しているがいまだに鳥の鳴き声は聞こえてこない。当然道を歩いていても人とすれ違うことはない。
暗い道と合わせて私の頭が起ききっていないこともあったので、私は由花に片手を握られ連行されるような形で、歩いている。
握られた右手は左手よりも暖かくて、もし目が覚めきっても離したくはないな。そう思った。
それから他愛もない話をしているうちに、目的地である神社に到着した。道中の川から吹く冷たい風には、本当に凍りそうになってしまったが、なんとかその困難を乗り越えて、私は鳥居を潜る。
「家からでも良かったんじゃない?」
頭が起きていない時は、言われるがまま付いてきたというか連れられてきたけれど、目が冴えた今冷静になって考えてみると、別段、初の初日の出とはいえ神社からではなく、家からででも大きな違いはなさそうなものだけれど。
「別にそれでも良かったんだけどね」
言って由花は、私と繋がっていた手を安心しきったように手放した。ここまで来て逃げるという選択肢はないけれど、途端に冷えてくる右手をポケットにしまう。
「じゃあ」
戻ろう。そう私が言うのを遮るように、由花は髪を揺らして両手を後ろに回して、神社に背を向ける形で私に問いかけた。
「まほちゃんは、家で見て忘れないって約束できる?」
「でき……」
ると思いたいのに、私の口はそうは動かない。家で見る日の出が、私にとって特別な何かになり得るとは、思えなかった。隣に由花がいて、ただそれだけと言われればそれだけのことに思えてしまう。
「それがわざわざここまで来た理由」
絶え間なく動かしていた足を止めた。
「もう忘れてほしくないって言ったでしょ? 努力は嬉しいけど、それだけじゃやっぱりダメだと思うんだよね」
「…………」
「私自身も頑張らなきゃ──」
言って由花は私の方にトコトコと歩いてくる。
「まほちゃんが、忘れっぽいのがわざとなのか天然なのかは、私にはわからない。でもどっちだったとしても、忘れたって言われたら、悲しいんだよ? 自分だけが覚えてる思い出って、寂しくて、暗くて、嘘みたいに思えちゃうんだよ?」
これは由花の悲痛の叫びとかではない。だって悲しくて痛いなら泣けばいいのに、由花の目はキラキラしてるから。
由花は、私の両手をポケット越しではあるが捕まえて言った。
「だから、もう忘れたなんてことを言えないぐらいの思い出にしてやろうと思ったんだ。寝る前のもそれの一つ、どうだった? 私の胸も寝心地は、忘れられないぐらい快眠だったかな?」
「…………」
「わかりやすい……でもそっかそっか、私の胸は相当気持ちよかったと、嬉しいな……」
由花は言いながら顔を紅潮させているが、いつものように手で隠すような素ぶりは見せずに、今回は私の手をポケットから引っ張り出す。
「こっち来て」
由花は私の両手を捕まえて、それを引っ張るように走り出した。
視線の先には、何も障害物がない日の出を見るためだけに、作られたようなだだっ広い丘がある。草木も枯れたそこは、茶色の地面だけが広がっていた。
「まほちゃんの中で私って何番目に可愛い?」
丘につき、日の出まではもう少し、私の隣でゆらゆらと日の出を待つ由花が、突然そんなことを聞いてきた。
「一番かな」
私はその問いに、深く考えることなく一言簡潔に答えた。嘘なんて全く入っていない心からの本心だ。
鳥の声が聞こえてきた。
その声が日の出はもうすぐだと教えてくれる。
鳥の声に混ざるように、由花が私に問いかける。私はその全てに迷うことなく答えていく。
「まほちゃんの中で私って何番目に髪が綺麗?」
「一番」
「まほちゃんの中で私って何番目に顔が整ってると思う?」
「一番」
「まほちゃんの中で私って何番目にスタイルがいいと思う?」
「一番」
「まほちゃんの中で私って何番目に性格がいいと思う?」
「一番」
「まほちゃんの中で私って何番目に大事な人?」
「一番」
「まほちゃんの中で私って何番目に好きな人?」
「一番」
「まほちゃんの中で私って──」
鳥が羽ばたいた。大きな音を鳴らして昇ってきた太陽に向かって、飛んでいく。オレンジ色の太陽が、鳥と重なった。目を細めてみる景色は、どんな景色よりも綺麗に思えた。
手を伸ばす。
由花の声が鳥に掻き消された訳ではない。由花自身が、日の出を見ると同時に途切れさせた。
もういいと言うように。
散々聞いた──何度も聞かれたことを私は、答えていただけ。
何度も言った。私の中で由花という存在が、一番でなかったことなんてない。どんなことだろうと、由花が一番だった。
「……まほちゃん」
私は手を伸ばせば届きそうだなと、そんな陳腐なことを考えていた。
実際には届くわけもなく、そもそも何に対して手を伸ばしていたのかも忘れてしまった。鳥だったか太陽だったか、空全体だったのか、はたまたそれら全部だったかもしれない。
だったとしたらなんだというのだろう。私が手を伸ばす先なんて、一つしかなくて、それに気づかないふりをしていただけなのに。
私は手を下ろす。
眩しい光が丘を照らしている。
私はその光が指す方へと目をやる。
光の先には一人の女の子がいる。
その子との距離は、手を伸ばす必要もないぐらいに近くて、昔は手を繋いでいなければ、すぐにどこかに行ってしまいそうな雰囲気があったのに、今では繋いでいなくともこの距離が普通になってしまっている。
この距離が心地良い。
春の気温のように過ごしやすく、希望に満ちた空の下歩いていられるこの距離が、私にとっては一番の距離感だった。
この距離から絶対に逃したくない。近づいたり離れたりすることがあったら徹底的に潰す。時間なんて関係ない、私が由花と過ごせなくなるぐらいなら、その人を殺した方がマシだと思う。
だけれど、それがもし由花本人だった場合は私という人間は、どう動くのだろう。
考えたことがないなんてことは言わない。むしろ考えている日の方が多いのかもしれない。それでも、いくら考えても、自分のことなのに何もわからない。由花のことなら大抵のことは理解できるし、共感もできるのに、自分のことになった途端、自分がわからなくなる。
だから決まって忘れたふりをして、答えを先延ばしにする。
桜が最後の空だとわかっていた。
桜が舞い散る場所に立って仕舞えば、否が応でも時間が進み出してしまう。
日の出は大丈夫だと思っていた。
でも、ダメだった。
「……私ね……」
好かれているのが好きだったはずなのに、その言葉を聞くのは嫌ではないのに、どうしてこんなにも私はわがままなのだろう。
「まほちゃんのことが──好き」
由花の表情が日の出と重なり、いつもよりも眩しい笑顔が見える。紅潮なんてしていない涙なんか流していない。
虹がかかるようだった。
晴れ晴れとした空に、朝日と、虹が両方存在している。
母に言われたことを思い出す。からかうのはやめなと。私の中ではそんなつもりはなかった。からかっているつもりなんて、最初から本気にさせたくてやっていたのだから。
昔の私がどこまで計算をしていたのかは、今となってはわからない。天然な部分も往々にしてあったとは思う。だけれどそのどれもが最初から気持ちに答えることはない、不純な想いから来ていたことには変わりない。
重い感情を植え付けて、それが思い出になるまで育て、想いを吐露したところで、私は何をしたかったのだろう。
物語ラストのシーン、朝日に背中を向けたヒロインの告白。私はそのヒロインに何を思い、言えばいいのだろう。
「由花……」
名前を呼ぶ。
気持ちが揺れ動く。
純粋な動機だった。桜を一緒に見たいというそれだけだったのに、いつしかその願いは黒く染まり、不純なものへと変わっていった。
その不純な色は、純粋だった頃のように簡単には色を変えない。白色を濁すのはとても簡単で、子供でもできることだけれど、濁り切った黒色を白色に戻すのは、とても難しく感じてしまう。
何色を混ぜても濁っていたあの頃とは違う。色々を知ってしまった今は、もう戻れない。
それでもパレットに水をぶちまけて何もなかったかのように、白色の絵の具を取り出そうとする意思はある。
だから揺れ動く、白と黒の狭間で──。
冷たい風が吹いた。
冬を感じさせるその風で、私はポケットの深い底に手を忍ばせる。
「……もう少し考えさせてほしい」
ずるいやつだと自分で自分を忌避してしまいそうになる。どうしようもないやつだと、殴りたくなる。
結局は逃げたのだ。
また、逃げたのだ。
逃したくないから、逃げたのだ。
冬に春を望んだ。
私はそういう人間なのだと、自分で自分を理解した。
無理だと拒否すればいい、いいよと了承すればいい、受け入れるか否定するか、どちらかを選択するべきなのに、私はどちらでもないを選択した。
今まで何回この選択をしていてきているのだろう。便利で都合のいい私にとっては生きやすい選択肢、そんなことばかりしているから忘れてしまうのだ。
大事なことを消化せずに積み続けているから、どれがどれだかわからなくなる。
そうして面倒になり、見なかったふりをする。
大変楽ちんな方法だと思う。
「わかった……私、いつまでも待ってるから。一年後でも二年後でも五年でも十年でも、いつまでも待ってるから」
言って由花は、私の元に一歩踏み出した。
気づけば太陽はもう由花とは重なっていない。虹も消え、私に見えるのは由花の歩く姿だけ。
マフラーを首に巻きつけ、厚手のパーカーを身にまとい、長めのスカートを履き、私に近付いてくる。
一歩、また一歩。
その歩幅は、小さいけれど着実に、私の元へと近づき、言った。
「でも、もうまほちゃんのことは信用できない。来年会った時に、のほほんと忘れたって言ってそうで……怖い。だから、そんなことが冗談でも言えないように……」
由花は私の肩に手をかけた。そして私の体を動かすことなく、由花自身の顔を動かした。
重心は手に乗せ、その顔が行き着く先は、私の首元だった。
その首元に、由花はそっとキスをした。
痕をつけるほど長くもなく、強くもない。それなのに、私の心にはしっかりとシルシが付けられたような気がした。
「もう、逃がさない」
キスの後の言葉は、私に鎖をかけた。今まで私が由花にかけていた鎖を、今度は由花が私にかけるように。
ただ、由花の鎖が解かれたわけじゃない。
二人ともが、言葉の鎖に縛られている。
逃げようとしても逃げられず、壊そうとしても壊れず、かといって忘れようとすれば、鎖が締め付けられる。
その光景がとても滑稽なものに思えてしまう。
何をしているのだろう。何がしたいのだろう。がんじがらめになった、その思考──私は笑うことしかできなくなっていた。
つられたように、由花も笑う。
日の出が上がる時間、神社の端にある丘の上で、女子高生二人が笑っている。
「バカみたい」
そう一人の女子高生が呟いた。
町が変わっていく、変わらないと思っていた町が確かな変化を遂げていく。
変われないのは、私だけ。
私はあと何年『お年頃』を望むのだろう。
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