気持ちの悪い先輩 二
それから数十分ほどの時間が過ぎていき、この部屋にはおかしな空気が充満したままだった。
換気も行われず、部屋の整理も行われず、埃が舞い散る部屋の中、ボワボワが治った由花が私の前に湯呑みを置く。
「まほちゃん……なんか怒ってる?」
「んいや?」
そう見えただろうか。由花は心配そうにこちらを見つめてくる。
由花は、さっきの会話どころかその時間の記憶がボーっとしていたせいで曖昧らしく、何が起こったのか状況把握をしようとしているのだろう。
「それならいいんだけど」
と、私が茶を啜るのを見て色々察してくれたのか、もう一個の湯呑みを先輩の前に置き、私からは視線を外す。
「先輩、まほちゃんに何かしました?」
由花は私にしたように湯呑みをおきながら、先輩に問いかけている。
「何も、勝手に自滅しただけ」
「自滅しただけって……」
「奥手でバカでアホでマヌケな、由花の手助けでもと、思ったんだけどね……相手がもっとド変態だったってだけだよ」
チラッとこちらに向いた先輩の視線を私は、見て見ぬ振りをする。私は何も聞いていない、忘れっぽい私は何も聞いていない。
「新しいおもちゃにでもなってくれるなら、まだ興味も出たんだけどね……ああいうタイプは、勝手に自己解決した気になっちゃうからつまんないんだよね」
言って先輩は、お茶を啜る。
すると、由花は首を傾げた。
「今の話って……」
そこでやっと私に聞かれていることに気がついたのか、先輩の耳元で喋り出した。
数言パクパクと何かを言った由花の意思に反するように、先輩はわざとらしく少しでも私に嫌な思いをさせようとしているのか、私に聞こえるぐらいのボリュームで言う。
「そうだよ、清水の彼女の話」
「ちょっと先輩! まほちゃんは彼女とかそういうのじゃないですから」
由花は慌てて先輩の腕を揺すっている。自分の意思とは反したことをされて、それを咎めるように。
面倒くさい。
私はこういう変に大人ぶった子供が、一番嫌いだ。
他人に嫌がらせすることだけを第一目標に据えて、生きている人種。どうせあの彼氏がいる発言とかも、私から言葉を引き出すための嘘なんだ。
ああ、面倒くさい。
この面倒くささから逃げるために、この町に来ているのにどうしてこうなってしまっているのだろう。
「まほちゃん?」
と、あからさまに機嫌を損ねてしまった私に由花は、不安げな目を向けてくる。
「大丈夫……由花はそのままでいて」
言って私は、立ち上がった。
今日はもう帰ろう。これ以上ここにいても由花を不安がらせるだけになってしまう。
由花にはずっと笑顔でいてもらわなければ──家に帰って寝て起きて、由花に会えばきっと昨日のような平穏が訪れているはず。
「今日は、先帰るね」
「え? まだ全然暗くないよ?」
由花は驚いたように窓を指差す。確かに日没まではまだまだかかる。
子供の頃から会える日は、毎日のように外が真っ暗になるまで遊ぶのが、当たり前だったのだから、突然今になってそんなことを言い出したら、違和感を抱くのはそれはそうという話。
「いや、まぁそうなんだけれど。今日はちょっと……」
胸が落ち着かない。常に黒く濁った空気を吸い続けているような気持ち悪さが、渦を巻き続けている。
「…………」
眼差しだけが向けられる。
黒く濁った空気に少しの明かりを指すように。
だけれど、私はその光から目を背けた。曇っていていい、寒くていい、暑くなるぐらいなら、寒いままの方がいい。
「まほちゃん──」
手を伸ばされても私が、その手を掴むことはない。
初めてのことだった。十年間何も変わらなかったはずの関係が、突然一人の異分子が入っただけで壊れていく。
由花の方はそうは思っていないのかもしれない。
「本気でそう思うの?」
由花の家から走って数分──私に声をかけてきたのは先輩だった。緩くカールのかかったツインテールを揺らしながら、私の肩に手を置いた。
「本気であの子が、何も思ってないと思ってるの?」
語気が強い。荒々しい雰囲気で離れようとする私を強引に捕まえる。
通りかかった野良猫は、何を感じ取ったのか足早に過ぎ去っていく。
空には何重にも厚い雲が、私と先輩に影を作る。影は薄く笑うように揺れた。
「私に関わってもつまらないんですよね?」
悪態をつく。自分でも何がなんだかわからなくなってしまっている。素直になればそれでいいと思った。だからさっきは、諦めて先輩が言ったことを何も否定しなかった。
それ自体は嘘でもなんでもなくて、否定をすることは私にはできなかった。
「あんた……」
先輩が私の両肩を木に押さえつける。もう逃げ場はない。
「……私が関わってるのは、あんたじゃなくて清水なの! 私が関わりたいのは清水だけで、あんたになんか興味ないのに、どう頑張っても……あんたしか出て来ないんだよ」
どうして……この人は泣いているのだろう。どうして……この人はここまで熱くなれるのだろう。どうして……この人はここまで諦めていないのだろう。
どうして……この人の目はこうも純粋に透き通っているのだろう。
「ぽっと出のくせになんでそこまで、正しさを主張できるんですか?」
私と由花、二人の思い出の中にこの先輩という生き物はいなかった。いたとしても本気で私が忘れるレベルでしか、登場していないはずなのに。
なんで、この人は自分が正しいと思えているのだろう。
「先輩ってアホなんですか? バカなんですか? マヌケなんですか? 誰もが主人公だとか言っちゃうタイプの人間ですか? 誰もが自分の思い通りになってくれると思ってるタイプですか? 好きだと言ったら相手も自分を好いてくれると本気で思ってたんですか?」
なんかもういいや。
この人はきっと、私がこの町にいない間に由花と仲良くしていた真の幼馴染とか、そういうポジションなんだろう。それで私が嫉妬して自分の中の気持ちに気づくとかそういうシナリオなんだろうけれど、それ私嫌いだから──いらない。
「先輩……なんか言ってくださいよ。大人なんでしょ? 私よりも由花のことを知ってるんでしょ? 私よりも長い時間由花と過ごしてるんでしょ? ねぇ、なんで何も言わないの? さっきまであんなに息巻いて、私を捕まえて、何がしたかったの? その鞄の中のそれで私を刺すつもりだった? すれば、ほら今、私か弱い女子高生だから、初めてを捨てて大人になってる先輩には、かないっこないなぁ、あ、でも私を刺した後由花はそれを見てなんていうかな? 私よりも由花について詳しいなら知ってるよね? まさかあそこまで上から語りかけてきて、実は由花のこと何も知りませんなんて、ありえないもんね? それとも、私がそれで先輩を刺して自分もろともとかやつ? いやですよそんなん──私由花に嫌われたくないですもん。由花のことは好きじゃないですけれど、私を一方的に好いてくれてる由花は大好きなんで、邪魔しないでくれます?」
「……ド変態」
緩まった先輩の両手が、私を解放する。けれどそれとは反対に先輩の目は私を否定するように睨みつけている。
「ド変態ですか」
そうなのかもしれない。
私は、ドのつく変態で特殊性癖の持ち主なのかもしれない。
でも。
「人間そんなもんじゃないんですかね。特殊な嗜好を持たない人なんて誰もいなくてみんながみんなそれをひた隠しにして生きている。大なり小なり違いはあれど、誰しもが何かを好きになり、何かを嫌いになる。そして、嫌いになった、理解ができなかったモノには、キッモという言葉で一緒くたにする。それは、先輩が否定した私の嗜好にも言えますし、当然ブーメランのように先輩のモノにも返ってくる」
「…………」
「いやーさっきと立場が逆ですね。そうやって黙りこくっていれば、楽に相手が進めてくれますもんね。ってことは次に私がするのは長々とは喋らずの、つまりと結論つけるという具合ですかね?」
「…………」
「睨まないでくださいよ──結論、結論ねぇ私バカだから思ったことをそのまま口に出してるだけなんですよね。後先なんて考えずに、だから結論という結論もなかったんですけれど、先人の知恵──私よりも大人である人の言葉を拝借すると……否定も自己否定もせずに、自分が正しいと思い込んで、自分は何も間違えてない、そう言って清々しいほどに、子供っぽいでしたっけ、私覚えが悪いので細部は違うかもしれないですけれど、大体合ってますよね?」
「…………」
「この言葉すごいですよね。だって私何も言い返せなかったですもん。やっぱり大人ってスッゲーってなりましたよ。こんな言葉を上から目線で、言ってのける人って本当に自分が正しいってことを信じてなきゃ言えないですよね。まぁ私は絶対に自分が正しいって信じてるんで言えるんですけれど、どうですか先輩、今でも同じように言えます? 「さっむ」って私をバカにできます?」
「…………」
「できないですかそうですか──さっむいですね先輩。冷え冷えですね。ビュビュー風が体に当たるのはどうですか? それすら痛いほど心に来てますか? どうです、先輩にとっては私がぽっと出の女で、モブ以下の存在だったんでしょうけれど、そいつに皮肉の一つも言えなくなって、先輩はどう感じてるんですか?」
「…………」
「何か言ってくださいよ」
「…………」
「何か言えよ」
「…………」
「何か言えよ!」
「何も言えないんだよ……」
影が揺れる。一つは膝をつき泣いているように、ポタポタと地面に涙が落ちる音がする。その涙は水溜りにもならない、一人が流す涙の量はその程度のもの。
影が揺れる。一つの影は木と混ざり合っている。バカだと笑うように、肩を揺らすように影も揺れた。
しばらくして影が一つ消えた。
何も言うことなく。
空にはまだ太陽が顔を出している。空気の澄んだ田舎町、濁った空気なんてどこかに消え、透明に透き通っている空気を吸いながら私は、明るい道に向かって歩いていく。
「ねこねこねーこ」
猫はいない。人もない。
だから歌える鼻歌を歌いながら、今日も暇つぶしに道を歩く。
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