過去を覗く 一
朝、目が覚めて、張り付いた喉に潤いを与えるために、台所から牛乳を取り出した。時刻は午前九時、休みの日にしては早起きをした方なのだけれど、家族は全員居間に集合していた。
台所から居間を覗くと、お母さんとおばあちゃんは二人で話をしていて、お父さんは変わらずゲームを(蹴り飛ばしたい)していて、おじいちゃんは今にも出かけるのか、立ち上がるところだった。
そしてもう一人、家族に混じって居間に座っている人物がいた。
清水由花だった。
ぽつんと借りられてきた猫のように、座っていて時折、お母さんやおばあちゃんに話しかけられていたりする。
私が清水のばあちゃんと自然に接するのと同じで、由花も気をつかう様子などは見せずに、会話はしている。まぁほぼほぼ家族の一員として受け入れているのだろう。
それでも、そんな状態でも由花は、何か目的自体は他にあるかのように、ソワソワと、周りを見渡している。
このまま観察していても、それはそれで面白そうだけれど、バレた時が色々と面倒くさそう。昨日のお父さんのように、味方がいなくなりそうなので、私は冷蔵庫から出した牛乳をコップに注いで、一気に飲み干した。
それから、足早に廊下に抜けてから居間に向かう。
「おはようー由花」
居間の出入り口がちょうど由花の真後ろだったので、私は後ろから由花にだきつく。
由花の体は、炬燵の中にいたので当たり前だが、ポカポカとしていて気持ちがいい。
突然抱きつかれたので由花は「……ん」と驚いた声を漏らしたが、すぐに私だと気がつくと、後ろに振り向いて優しく、微笑んだ。
「おはよう」
おばあちゃんやおじいちゃんとは違う微笑みに、その時とは違う顔の崩れ方をしてしまう。
しかし、お母さんが見ていることを思い出してしまい、すぐに私の表情は冷めたものに戻る。
一応由花だけじゃなくて、全員に顔を向ける。
「おはよう」
言うと、お母さんは「おはよう」と返してくれて、おばあちゃんも同じように、おじいちゃんはちょうど部屋から出ていくところだったらしく、私の肩を優しく叩くだけだった。お父さんからは何もない。
唾をかけてやりたくなった。
さすがにそんなことを実際には、できない(しない)のでお父さんのことは一旦忘れることにして、由花の方に再度目をやる。
「というか、なんで由花がいるの?」
素朴な疑問。
確かに、また明日とは言ったけれど、いつも通り由花の家に私が行くものだと思っていた。
この十年間、由花が朝からこの家に来るのは滅多にないことで、大半が由花の家か、橋の上などの外での待ち合わせが多い。
外での待ち合わせは、最近の私ではきつそうだなと思う。もう子供の時のようにはいかない。寒いものは寒い、そうしておくのが賢いやり方だと学んだ。長い時間をかけて学んだ結果が、諦めた方が早いというのは、世知辛い世の中である。
そんな世知辛い世の中でも、朝から足を運んでくれた由花は「そうそう」と手を叩き机の上に置かれた大量の饅頭を一つ口に入れる。
「タイムカプセルをね、開けに行こうかなと」
饅頭を食べ終わり、お茶で喉を潤す。湯呑みは、由花用の物、あまり来ないとはいえ、一度来てしまえば大抵は長居しているので、その際に必要だったので、買い足した物。
もう九年ぐらい経つだろうか、それでも綺麗なまま保たれている。
「タイムカプセル?」
と、私も饅頭をつまみながら問いかける。
流石に自重しているのか、その問いかけに答える前に由花は饅頭に伸びる手をなんとか抑えていた。
お母さんが、そんな由花を見かねてか、饅頭の入った箱を由花の前にすーっと持っていった。食べていいよ、ということだろう。
由花は、それを見るや否や饅頭に手を伸ばす。
そして、その饅頭の袋を開けると同時に、口も開いた。
「そう、覚えてない? 十年前だから……出会った最初の年、大晦日の日に埋めに行ったの」
「覚えてるよ」
今回は復唱することも、思い出そうと脳をほじくらなくとも、すぐに頭に浮かんだ。
すると、由花は何を思ったか顔を顰めた後、私に顔を近づけてくる。そのまま止まることなく──私のデコに由花のおでこをぶつけた。
「熱……ではないのか」
「突然どしたの?」
昔はよくお医者さんごっことか言って、やっていたような気もするけれど、この年になってやると、少し気恥ずかしい。
まぁそれでも一々気にするようなことでもないので、変に反応はすることなく、行動について訊いたのだけれど、由花は目を細めて私を怪しんでいる。
「いや、まほちゃんの頭がおかしくなったのかと──迷わず覚えてるよって、そんなことされたらこっちが怯えちゃうよ」
「怯えちゃうよって」
私の記憶力は、そこまで怖がられるものなのか──私自身はちょっとばかし忘れっぽいぐらいだと思っていたのだけれど、約束を覚えているだけで、熱を疑われるって、私も怖くなってきた。
家の中で寒くもないのに、身震いをしてしまいそうになる。
「そりゃそうでしょ。去年の口説き文句すら覚えていなかったのに、突然十年前のことは覚えてるよって言われたらねぇー?」
昨日の恨みを晴らすが如く、去年の部分だけを強調してきた。
これ以上昨日のことを掘り返されても面倒なので、私は多少強引ではあるが、話をタイムカプセルの方に戻す。
饅頭をつまみながら──。
「昨日のことは忘れるとして、十年前のタイムカプセルって、あれでしょ、神社の所に埋めたやつ」
「そう……だよ」
由花は何か憤慨したように、目を細めたまま、饅頭に手を伸ばす。
私は自分の湯呑みがないことに今さら気づき、右往左往していると偉大なる母が、いつのまにか準備を終えて、私の目前に置いてくれた。
私は、それを啜りながら話を進める。
「懐かしいねー。神様──ジミにお願いして埋めてもらったやつだよね?」
それに対して、由花は損ねていた機嫌を饅頭一個で取り戻したのか、朗らかな笑みで答える。
「そうそう」
私に対する怒りが、饅頭一つよりも弱いという事実に、私が憤慨しそうになったが、それを抑えつけ、思い出を語る。
「…………あの日は、清水のおばちゃんと散歩をしていて──」
よく晴れた日だったはずだ。
まだ出会って数日だった私と由花は、今よりもよそよそしく会話をしながら、初詣ならぬ終詣なんて、言葉の意味もわからず言っていた。
清水のおばちゃんは、そんな私たちを眺めながら何か口を出すわけでもなく、子守りを引き受けてくれていた。
そんな清水のおばちゃんと、橋を渡り、川から流れてくる冷たい風に、体を震わせながら、神社の鳥居をくぐる。
神社は、川を越えて山中の階段を登ったところにある。
立派というほどではないにしろ、小さいというわけでもない。この人口の町にしては大きすぎるというぐらいだろうか。
その神社で、私たちは神を名乗る女性に出会った。
「わちは、神である」
そう言った女性の立ち居振る舞いは、子供ながらに神とは到底思えない物だった。
髪は地毛なのか金色に輝いて、だけれどしばらく洗っていないのか、金粉のような物が頭を掻く度に、宙を舞う。それだけではなく、長く伸びた髪は手入れをしていないのだろう、ところどころはボーボーに立っていたり、逆にペタンとなっていたりで、乱れまくっている。
それについで、服装も神様のような仰々しい高貴な物ではなく、冬なのに、休日のお母さんが着ていそうな、ダボっとした服に短パン、最後にスニーカーという、お世辞にも神様には見えない装いに私と由花は面を喰らってしまう。
それでもここに長く住んでいる人にとっては、当たり前なのか、清水のばあちゃんは、鞄の中から饅頭が入った袋を取り出すと、供え物であるかのように、丁寧な手つきで自称神様に渡す。
「いつもすまんな」
先程まで偉そうにふんぞり帰っていたのに、おばちゃんにだけは態度を変えている様を見て、私はさらにこの神様への信頼が落ちていくのを感じた。
それから、しばらくおばちゃんは神様とよくわからない大人の話をしていたので、私と由花は境内の中でかくれんぼのような物をしながら暇を潰していた。
境内には草花が咲いていない木が沢山生えていて、それ以外の物は特にないシンプルな神社だった。
おみくじも、絵馬もない。
本当に、地元の神社──という感じだったように思う。
「あの人は、誰なの?」
かくれんぼも飽きてきた頃合いに、私は石のベンチに座りながら訊いた。隣では曇った眼鏡のレンズを拭く由花が足をバタバタと動かしている。
「わかんない」
眼鏡拭きをポケットにしまい、丸い眼鏡を掛け直す。由花は「私も知りたいぐらいだよ」と、言った。
「おばあちゃんと、神社には来るけど、あの人は見たことないもん」
言って、由花は大袈裟に首を曲げる。
「ゆいちゃんもわかんないのか」
由花がわからないのなら、地元の人間じゃない私が、あの人がなんなのかわかるわけもなく。諦めかけて足をブラーっとさせると、由花はおばちゃんの方を見た。
「うん……でも……おばあちゃん楽しそう」
「楽しそう?」
数日間しかおばちゃんを見ていないので、私には細い違いなどはわからない。私がわかるのはいつも私たちに見せている笑みと、時折見せる悲しげな表情があることだけ。でもそれが、楽しそう、となるのだろうか。
「なんて言えばいいか、わかんないけど、おばあちゃん笑ってる」
由花は何か確信めいた物を持っているのか、曇りもなく言い切った。
笑ってる。そんなに珍しいことではないように思えたけれど、毎日一緒に過ごしているから気づく細い違いなのだろうか。だとしたらなんとなくわかるような気がする。私も、お母さんがイライラしてる時とかは、なんとなくわかるから。
「ゆいちゃんがそういうなら、そうなのかなー」
当初の疑問は何も解決していない。それでも、これ以上深く追求する気にはなれなくて、私はかくれんぼを再開した。今度は、私がかくれる番になった。
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