冬が来た 四
「また明日」
時刻は夕方五時──昼間よりも数段寒くなってくる時間帯。私は、着てきたパーカーの袖を伸ばすだけ伸ばし、手元が隠れるようにしながら、その手をポケットへとつっこんだ。
「うん、また明日」
いつのまにか炬燵のような温もりが消えていた由花が手を振る。温もりと同時に、冷えた包丁のような視線もなくなっていたので、あまり深くは聞かずに私は外に出た。
実際どれぐらい、あの台所にいたのかは私もよく覚えていない。
十分なのか三十分なのか、はたまた一時間なのか二時間なのか、そのどれだったとしても由花の機嫌が治ったという結果は変わらないのだから、深く考えても仕方がない。
「じゃあ」
歩き出す。名残惜しいなんていう気持ちは、私の中にはなかった。明日も会える、明後日も、正月が終わるまでは、毎日だって会える。
だから、私はそれ以上何を言うでもなく、地元の友達と放課後遊んだ帰りのように、背中を向ける。
幸いにも、風は吹いていない。
あるのは、厚い雲と田んぼだけ。
知らない家が、遠くの方に見えた。
その隣にも、知らない家を発見した。
昼間にもこの道は通ってきたはずなのだけれど、私は気づいていなかったみたいだ。
小さな変化には、反応できても大きな変化、町の営みには疎いのかもしれない。
そう思うと、まだまだ私の知らないこの町がありそうな気がして、昔のようにとはいかなくとも、純粋だった頃の気持ちが、何にでもワクワクしていた頃の、思い出が私の足を軽くする。
飛べるほどではない。
浮くほどでもない。
小さい頃の何も重荷がなかった時のような──そんな気がした。
私は走り出さない。
重荷はなくなった。
だけれど、今は──ゆっくりと景色を見たい気分だった。
隣り合った家を見つけて以降、特筆するような大発見もなく、私は家に到着した。
「ただいまー」
家の扉を開ける。
扉は、ガラガラと音を鳴らす、横に引っ張るタイプの扉、田舎でしか見ないそんな扉を潜り、靴を脱ぐ。
特に物音もしない家の中を歩いていく。
居間ではお父さんがテレビと睨めっこしながら、ゲームをしていた。私たちの世代よりも何世代も前のゲーム機、ここに来る度お父さんは、外に出るのもほどほどにして、ずっとゲームをしている。
タイトルも変えることなく、同じゲームを毎年クリアまで遊んでいる。
一度だけ、私もやらせてもらったことがあるが、よくわからなかった。
私は、ゲームがあまり好きではないのかもしれない。逆に由花は目を輝かせてやっていたが、ハマるとマズイとか言って、自分から距離を遠ざけていた。
何十時間と、テレビの前から動かずお父さんの隣でやっていたものだから、お菓子がなくなるのも仕方がないと思うのだけれど。
私はお父さんに挨拶することなく(どうせしても返事は返って来ない)奥の台所に向かう。
台所ではお母さんとおばあちゃんが、今日の夕食の準備をしていた。
「ただいま」
私は棚からコップを取り出して冷蔵庫の前に向かう。お母さんが私に気がついた。
「おかえり」
するとそれに付随するように、おばあちゃんも優しく笑みを向けてくる。
「まほちゃん、おかえり」
由花と同じ呼び方のはずなのに、おばあちゃんに呼ばれた時は、由花とは別の安心感みたいなものがあった。
冷蔵庫から牛乳を取り出して、それをコップに注ぐ。
毎日三回は飲むようにしているのに、どこであそこまでの差がついたのかと、ナイモノヲ見て憤慨する。
去年だった。
それまでは大した差らしくものはなかったのに、去年あった時にはおかしなことになっていた。
これが遺伝、そう思わなければやっていけそうになかった。
そんな遺伝の対象であるお母さんを見る。
お母さんは、手際良く肉を切ってそれを鍋に入れていく、あの鍋はカレー用のやつだったような。
「由花ちゃん元気だった?」
「うん、今年も可愛かった」
牛乳を一気飲みし、鼻下についた牛乳を拭いとる。
お母さんは、肉を炒めている。
「からかうのもほどほどにね」
お母さんが、よく意味のわからないことを言った。
「え、うん」
首を傾げることのほどでもなかったので、適当に返してから、コップを流し台の水につける。
「肉じゃが美味しかったってさ」
「今年は全部食べたりしなかった?」
ニヤリと嫌味な笑みでこちらを見る。
からかうのがどうのこうのとか言っていた癖に、子供に対する態度を改めないのはどうかと思うが、一々気にもしていられない。
というか今年は私じゃないし。
「逆だよ逆。今年は由花がほとんど食べちゃったから、私、全然食べれなかった」
言うと、お母さんは野菜を切りながら遠くを見るような素ぶりを見せる。その様子は、どこか物悲しさを含んでいた。
「あの量をね。由花ちゃんは成長……してるんだね」
あった頃、というかつい最近までは由花よりも、私の方が食いしん坊で、由花はどちらかと言えば食の細い子供のイメージの方が近い。
それはいい。
沢山食べられるのに越したことはないだろう。
だけれど、お母さんの物言いが少し引っかかる。私は野菜を鍋に入れる母親にむすっとした表情を向ける。
「その言い方だと、私は成長してないみたいに聞こえるんですけれど」
するとお母さんは、あっけらかんと言ってのける。
「してないでしょ。あんたの場合は成長じゃなくて、老化でしょ。年々食べる量だけ減っていって、そんなんだから身長も伸びないし、胸もデカくならないんだよ」
言ってお母さんは、野菜と肉を炒め始める。
私は、もうこれ以上言い合っても仕方がないと、台所からお風呂に足を向ける。最後に置き土産を添えるように、言う。
「食べないのは私のせいだけど、最後の二つは遺伝だよ! このチビ! ちっぱい!」
その言葉が、ブーメランとして私に返ってくる。とても痛い。めちゃくちゃ痛い。とてつもなく痛い。
心が痛がっている。
それに、私は気にしているけれど、お母さんがそのことを気にしているのかわからないので、もしかしたら私だけが自分で自分に傷をつけただけという可能性に思い至り、お風呂場で服を脱ぎながらさらに、私の心は深傷を負った。
風呂から上がり、髪をタオルで拭きながら居間に行くと、おじいちゃんがぼーっとした目でお父さんの背中を見ている。
そういえば、おじいちゃんにだけ挨拶をしていなかったことを思い出し、肩をトントンと叩く。
「ただいま」
おじいちゃんはすぐには反応を示さず、数瞬経ってからこちらを向く。
「おかえり」
その表情は、やはりおばあちゃんと似通ったものに感じ取れて、自然と顔が綻ぶ。
「今日も釣り?」
おじいちゃんは私が幼い頃から毎日のように、釣りに出掛けている。魚を釣ってきたことはないが、釣りには行っている。不思議なこともあるもんだと思うが、釣りに疎い私はそれ以上ツッコミはしない。
昔に一度だけ、由花と一緒におじいちゃんについていったことはあるが、その時の私は全くと言いていいほど釣りに、魅力を感じることはなかった。
それはゲームの時とは違って由花も同じだったようで、最初は一緒に釣竿と川を眺めていたが、気付くと私たちの興味は、別のものに移っていた。
「気をつけろよー」
おじいちゃんはそれが嫌ではなかったようで、ただ私たちに注意を促すだけだった。
その日ももちろん魚が釣れることはなかった。
それから数年が経った今も、おじいちゃんの趣味は変わらず釣りらしい。
「そうだよ──釣りは僕の青春だからね」
そう言ったおじいちゃんは、ボーっとした状態に戻っていった。
「そうなんだ」
何も釣れずに帰ってくるのは、青春の影を追っているのか、それともただの日課のようなものなのか。
昔のことは私にはわからん。
なので、私もおじいちゃんと一緒にボーっとすることにした。
耳をすませば秒針の進む音がする。台所から火をかける音がする。お父さんがボタンをガチャガチャと押す音もする。
そのお父さんの背中は昔よりも小さく思えた。いくら抱きついても大きくて、抱きつききれない、そう思っていたのに──。
「ただいま」
言ってみた。
家族全員に言っといて一人だけハブするのは気が引けた、それだけだ。
「……」
「…………」
だけれど、どれだけ待っても返事がない。返事がないだけならまだいい、私の声が聞こえてすらいないのか、お父さんはボタンをガチャガチャするのをやめる気配がない。
バカみたいだ。
少し優しさみたいなものを見せたらこれだ。
なんだか無性に腹が立つ。
もう一生、お父さんにだけは挨拶をしないことを心に決めた。
今すぐにでも、背中を蹴り付けたい心を我慢する。小学生の時ならば、迷わず蹴り付けて、ゲームの邪魔をしていただろうが、もうそんな歳でもない。
やるのは──。
食事の時間になり、私の隣にはお母さんが、私の前にはお父さんとおじいちゃんが、余ったところにおばあちゃんが座る。昔から変わらない座席順。
「真穂──醤油取ってくれ」
お父さんは昔からカレーには醤油をかけていたが、決してそれが我が家の一般的ではなく、むしろ少数派というか、お父さん以外にやる人はいない。
変わり物というか、作ってくれた人に対する感謝が足りない薄情物というか、ただのバカ舌──そんなお父さんの言葉を私は無視した。
醤油は、私の横──私以外は手を伸ばせないと取れない位置、そこまでしてお父さんのお願いを聞く人間はここにはいない。
毎年、毎年、ずっとゲームばっかりで家事の手伝いもろくにしないお父さんの、カーストは最下位なのだから。
最初に無視したのは、お父さんの方だ。
気づくまで醤油は、取ってやらん。
「何拗ねてるんだ? そんな子供みたいに」
拗ねてると、子供みたいにの二重ワードでさらに怒りが増す。子供でもないし、拗ねてもない。
これは正当な娘からの抗議だ。
娘に「おかえり」の一つもないのはどうかと思う。普段仕事で忙しいのはわかっているし、それの休暇でここでゲームをしているのもわかっているけれど、それでも娘に一言あってもいいでしょ。
別に、私がお父さんと遊びたいとかはない。むしろ遊びたくなんかない。絶対的に由花と遊んでいる方が、楽で、楽しくて、気分がいい。
だけれど、なんかお父さんの優先順位で、ゲームに負けるのは気に食わない。
娘よりもゲームを優先しないでほしい。
ただ、それだけなのに。
そんなことも気づかない。今だって「なぁ火陽、俺なんかしたか?」と、お母さんに聞いている始末。
「知らない」
ここぞとばかりにお母さんも私と同じような態度を、取る。
お母さんも普段から、不平不満が溜まりに溜まっているのだろう、いい機会だお父さんには反省してもらおう。
いつまでも、子供心を忘れないのはいいことなのかもしれないけれど、そろそろ、考えを改め直す時期なのではないだろうか。
お父さんは、助けを求めておばあちゃん、おじいちゃん両方に目配せをするが、それも意味をなしていないようだった。
そして、味方がいないことを悟ったのか頭の後ろをかき、膝を叩く。なにやら気合いを入れて立ち上がった。
自分で醤油をとりにくるのだろうか、だとしたらさっきの気合いの入れ方は、多少仰々しくはないだろうか。
と、そんなことを考えていると私の近くまで来た父が、私の脇あたりを両手で掴んだ。
「…………え?」
思わず驚いてしまうが、父はそんな私の声を気にすることなく、力を入れる。
「よっこいしょ」
その掛け声と共に私は、浮かび上がる、自分の体重がゼロになったかのように、自分の意思に反して机が遠くなる。
そしてそのまま空中を旅するように浮いた私が、辿り着いたのは父の肩の上だった。
昔の思い出が想起する。
もっと小さかった頃、私は父の肩に乗ってこの景色を見た。机の位置も家族の位置も、テレビの位置もゲーム機の位置も、何も変わっていない。
変わったのは、私が見下ろす距離──そして天井との距離。
父の肩に担がれても、まだまだ届きそうもなかったあの天井が、今はもう手を伸ばせば届きそう。
実際にはあと少し、私の手は届かない。それは今後どうにかなる物なのか。
「私……もう子供じゃない」
誰かに言ったつもりはない。
手が届かないことの言い訳として、呟いただけだ。
なのに、私を担ぐ人は笑う。
「そうか? 拗ねてる顔なんか昔と変わらないけどなー。それに、機嫌の治り方も変わらんなぁ」
言われて、自分の顔がどこか嬉しげに曲がっていることに気がついた。
それと同時に、私が機嫌を損ねた時にはお父さんが肩車をしていてくれたことを思い出す。
自分よりも高い景色を見るのが、好きだった。
自分ではみられない景色を見るのが、好きだった。
だから、自然と顔が綻んでしまう。
「…………」
何も言わない。
これ以上お父さんが調子づくのは気に入らない。
反省を促すために始めたのに、このままじゃあ何も変わらずに終わってしまう。
なので、私はなるべく父のご機嫌取りは失敗に終わったということを伝えるように表情を変化させる。
だけれどお父さんは、私の表情を見てはいなかった。
それどころか、その場のノリだろうことを、口走る。
「何にも変わらんけど、やっぱり重くはなったなぁ」
私をあやすように揺らす。
私の重さを思い出しているのか、数回体を揺らしたお父さんの頭を、私は思い切りパタパタと、叩く。
「バカバカバカバカバカバカバカバカバカバカ」
「痛い……痛いって」
言われてもやめない。
別に体重なんて他の子に比べれば気にしていない方だけれど、それでもこれだけ直球に物事を言われると、気持ちの整理が追いつかない。
自分でもなんでお父さんを殴りつけているのか、わからなくなる。
それでも、素直になれずにこのデリカシーのかけらもないお父さんとかいう生き物を、私は殴り続ける。
頭をカチ割って、脳みそに直接「おかえり」の四文字をぶちこんでやる。
そうでもしないと、私のこの色々が混ざった気持ちは、鎮まりそうにはない。
なのに、そう思っているのは私だけのようで──私が真夏みたいな暑さでお父さんを叩き続けているのに、周りの大人たちは総じて、春の陽気みたいに朗らかな、笑みを浮かべている。
嘲笑するわけでもなく、かといって怒りを見せるわけでもない。
純粋に、この光景を懐かしむように、眺めている。私の味方だったはずのお母さんまでもが、怒りなんて捨て去ったかのように、微笑んでいた。
その姿を見て私の腕は、お父さんの頭を叩くのをやめる。
バカらしく感じられてしまう。私だけが怒っていて、それ以外のみんなは笑っている。この状況が、なんだかつまらなかった。ブロックを積み上げて、やっと隣の人に追いついたと思ったのに、隣は隣でさらに積み上げていた。そんな感覚。
今日のブロック遊びは、おしまいにしたくなった。
私は、父の肩からストンと地面に着地する。
「もういいのか?」
重さで痛くなったのだろうか、肩をさする父に、私は机の醤油を手渡した。
「はい」
「お、ありがとう」
受け取ると、父は笑って自分の席に戻ろうと足を進める。
結局私だけが、またバカにされる思い出だけを増やされて、反省の色が見えない父に、一矢報いたくて、私は口を尖らせる。
私のブロック遊びはおしまいだけれど、隣ではまだ積み上げている最中だった。私はそのブロックを崩してやりたくなった。最初からにしてやりたくなった。
私の力で、ブロックが動くのかはわからない。そもそも崩したって、私とは経験が違うのだから、またすぐに積み上げ直してしまうだろうけれど、それでも、少しでも──。
「お父さん……帰る場所を残しといてくれないと、娘はすぐにどっかいっちゃうからね!」
我ながら素直じゃない。
伝わるのかすらわからない、きっと私のお父さんのことだ。何もわからずとりあえずで、笑うに違いない。
それでも、これがこの先の未来で、お父さんに時間差で降り注ぐ矢にでもなればそれでいい。
あの時、言っておけばよかった。
そうなるだけで、私は大満足とまではいかなくとも、多少気分が晴れたような気がするのだから。
そんなこんなで、私の高校二年の冬──一日目は終了する。
就寝が近づく頃には、お父さんに対する怒りなんて風で吹き飛んでいた。
どうでもいいとまでは言わないが、目を瞑りながら浮かんでくるのは──明日は由花と何をしよう。
今日よりも寒くならなければいいなぁ、せめて雨だけは降らないでほしい。傘を差してでも遊びには行くだろうが(家にいてもやることがない)降らないに越したことはない。雪にでもなれば話は別だが、そこまでの寒さにはならいだろうと、私の長年の勘がつげている。
まぁどんな天気だっていいのだけれど。
そんなことを考えていれば、あっという間に私の意識はここではないどこかに吸い込まれていく。
落ちていくような、自分で潜っているような、どうとでも取れる感覚で、私の意識は私のモノではなくなった。
私が自分の意識を取り戻せるのは、数時間後──目を覚ました時になる。
それまでは、別の場所で私は意識を休めている。
すやすやと、女子高生らしくいびきなんてかかずに、布団にくるまって私は、休む。
幸せに負けないように。
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