冬が来た 三
「どうかな」
と、私がした話の確認作業も終わり、机の上にあった肉じゃがが姿を消したタイミングで、由花があの時よりも伸びた髪を弄りながら訊いてくる。
「……去年よりも、綺麗になったかな?」
私はその問いに、小皿に乗った肉のカスとじゃがいものカスをなんとか摘みながら、答える。多少行儀が悪いのは許してほしい──私が話している間に、ほとんどの肉とじゃがが、由花の胃袋に入ってしまっていたのだから。
私の胃袋が少しでも、と肉じゃがを欲している。
「なってるよ、絶対」
一応言っておくと、この時私は決して適当に答えていたわけでもなく、雑に答えていたわけでもない。普通に、綺麗になってるそう言ったつもりだった。由花の目も言う瞬間は、ちゃんと見ていたし。
それなのに、由花は深いため息を吐く。今まで聞いたことのないような、本当に何かに呆れた風に──失望した風に、聞こえるため息を吐く。
「はぁ…………………………」
「そんなにため息吐いてると、幸せが逃げちゃうよ」
っと──由花のため息を聞き流しながら私は野菜の影に隠れていた一切れの肉を発見したので、嬉々としてそれに箸を伸ばす。
だけれど、私の箸は肉には届かず空を切る。
「あれ?」
と、私が漫画のように戸惑っていると横から、私の肉を盗んだ犯人が静かに小さな怒りの炎が燃やしていた。
声はしない。
しかし、炎の音は聞こえてくるようで、けれどその炎は炎であることを放棄している。全く暖かくない、暑くもない、むしろ冷たい、寒い、かく汗は冷や汗だった。
私はその方向にゆっくりと、目をやる。ホラー映画のようなカメラワークで、そこにいるものは全員が想像できる。そのぐらいのスピード感で、私は視線を動かした。
そして、私の目に入ったのは、明るい笑顔だった。
子供のように無邪気で、昔花畑で花の冠を頭につけてもらった知らない記憶が、私の脳に流れてきそうなほどに、明るい笑顔だった。
その笑顔の口元がピクッと動く。
そして手に持っていた肉を私に見せびらかすようにしてから、口の中にパクッと放り込んだ。
本当に最後の肉だったのに──。
「私は肉とじゃがいものカスにも負ける女ですよーだ」
由花は自分の小皿と箸そして肉じゃがの入っていたお椀を勢いよく持ち上げると、先ほどまでトストスだった足音をドスドスに変化させて、台所の流し台に向かっていった。
私の使っていた箸と小皿はそのままに。
こうなった由花の機嫌を直すのが一番大変なのは、この十年間で嫌というほどわかっている──というかこの状態が私一人でなんとかなる最後の状態──最終形態のようなモノ、一度、本当に一度だけ由花がその最終形態を超えた状態にになったことがある。
その時は、清水のばあちゃんと私のおばあちゃん、それからお母さんの三人でなんとか怒りを鎮めることができていた。
あんなことは二度と起きないでほしいと、心底思う。思うだけでは飽き足らず、神社に神頼みまでしたからね? 私。あれは私の冬休み史上最大の地獄だった──地獄の冬休みだった。
まぁ、そんな地獄を作り出したのは紛れもなく、私一人のせいなのだけれど。
今日みたいに私が、一人で由花の家に向かっている最中──お母さんに渡された肉じゃがを全部食べちゃったのが原因なのだけれどね。
私が原因で、起こった悲劇。起こった怒り。
私が悪いのはそうだけれど、そうだとしてもみんなして言わなくてもいいでしょ? とは思う。もう七年ほど前のことを、毎年毎年──。
「どうしよう……」
残った小皿と箸を手に持って呟いた。
どうするも何も謝って機嫌を直してもらうしかないのだが、何が原因で拗ねているのかが私には、てんで見当がついていない状況なので、動こうにも動きづらい。
小さい頃はもっとわかりやすかったのに──そう思った瞬間、台所で食器を洗う由花の包丁よりも鋭い視線が一瞬こちらを睨んだ。
顔に出てたかな。
まるで心が読まれているような感覚に、私は萎縮してしまうが、睨んだ方の由花は「ふん」と、顔を逸らす。
「あのー由花さん? どうして拗ねているのか教えてもらうことは可能でしょうか」
うだうだと悩んでいても仕方がない。そんなことをついさっきも思ったような気がするけれど、それも気にしない。というかもう座右の銘にしてしまおう『悩むより先に訊く』もし私に娘がいたらすぐにでも変えさせたい座右の銘だが、きっと私に似て、親の言うことを真っ直ぐに聞く子には育たないだろう。
私がそうだし。
母も父も捻くれ者だったに違いない。私がそのきらいがあるのに、あの両親が良い子ちゃんだったらなんか、気に入らない。
なんだか私が拗ねそうになってしまう思考を巡らせていると、由花が言う。
「拗ねてなんかないですよーだ」
それは拗ねている人しか言わないセリフだし、どうしてこうも熟年夫婦感が強い会話になりかけているのかも甚だ疑問だ。
前の時はどうやって機嫌を直せたのだっけ。
前回──私が十二歳の時だから中一になった年。由花が私のおばあちゃんの家に来ていた時に、出されたお菓子を由花がゲームに目をキラキラさせている間に、私が全部食べてしまった時だ。
あの時が、この話の通じない面倒な女の子になった最後。
その時は確か──。
「…………」
こうやって後ろから抱きしめたんだ。
どうすればいいのかは、その時もわからなくて、とりあえずドラマでやっていたみたいに包むように私よりも少し小柄な体を抱きしめた。
だけど、それは中学の時の話で今は、由花の方が大きくなってしまっている。背丈もその他も──なので抱きしめるというよりかは、抱きついているような、そんな不格好な状態になりながらも、私はつま先で立ちながら、由花の背中から手を回す。
「…………」
何を言うわけでもない。
時間だけが過ぎていく──その時間は私と由花が出会ってからの時間にしてみれば、一瞬のような時間。
実際一瞬なのだと思う。
それは、この十年間にも同じことが言える。
鳥が飛び立つよりも、流れ星の煌めきよりも、一瞬だった。
冬が終われば春が来て、春が来れば夏が来る、そうこうしているうちに、秋になり、秋が終われば、また出会う。
どの季節も、この何もない町に想いを馳せている間に、終わっていた。
この町に、来ることを、おばあちゃんおじいちゃん、おばちゃんに、由花と会える──それだけを楽しみにしていたら、あっという間に時が流れていく。
そのせいだと思う。
この町での思い出は、どれも劇的なはずなのに、忘れてしまうのは──早すぎる、時の流れが早過ぎて、私の頭が追いつかない。
次から次へと、記憶が塗り替えられていく。去年よりも、そのまた去年よりも、楽しくて、嬉しくて、高揚した私の気持ちが言う。
『また来年』
と。
それだけは忘れたことがない。
忘れっぽい私だけれど、それでみんなから怒られているけれど、それでも、そんな私でも車から見るあの景色は忘れられない。
「……綺麗」
声がした。
ストーブも付いていないのにも関わらず、妙に暖かい台所から小さな声がした。
「……綺麗……って言って……」
声の出どころは、私の腕の中で包まれた少女のもの。
少女が何を求めて、その願いを発したのか私にはわからない。
何が目的なのか、何が狙いなのか、何がほしいのか、何を求めているのか、わからないけれどそれでも、少女が欲するのならば。
「昔よりもずっと綺麗」
「…………」
声とも言えない声が由花から漏れ出るように、聞こえてくる。
似合ってるとも言った。綺麗かと聞かれて、頷きもした。
それなのに──何故わざわざその言葉を再度言わせたのか、これが大人たちの言う『お年頃』というやつなのだろうか。
だとしたら、側から見た私も由花並みに面倒な女の側面があることになってしまう。
そうならないようにつとめていたつもりだったのだけれど、ああ何度も『お年頃』と言われてしまっているので、おそらく私もそうなのだろう。
なんだか理解したくもなかった『お年頃』を理解してしまったような気がする。
理解したことで、ステップアップはしているはずなのに、同時に心が萎んだような気もして、なんとも言えない気持ちになる。
知らないことを知ったはずなのに、その知識のせいで自由を失ってしまう。
大人に近付いているはずなのに、それを憂いてる自分もいて、だけれど大人に憧れている自分もちゃんと存在している。
見上げていた背中がとても近くに、見下ろしていた背中が、私よりも大きく──そんなことが最近はしょっちゅう起きる。
だけれど、それら全部嫌なことではない。
嫌ではなく。好きでもない。
成長をするというのは、そういうことなのだろうか──今はそう思うことにしよう。
考えるのが面倒になってきた。
由花からの反応が何もない。
だから、今は炬燵のような温もりに体を預けよう。
ダラーっとしよう。
せっかくの冬休み、夏よりも短いけれど濃厚な冬休みを、ゆったりと楽しもう。
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