冬が来た 二

 

 由花の家は二階のない平屋で、大きめの玄関から右に行くと台所があり、そこと隣接しているのが居間だ、その逆方向には数十人が入れる客間、などがある。

 この町では同じ作りではないが、大きさで言えば同等サイズの家が昔から点在している。

 かくいう私が帰省しているおばあちゃんの家も、同じような広さをしている。初めて来た時は心底驚いた。

 こんなに広い家、飽きることなんてないのだろう──そう思って家中を走り回っていた。

 由花の家に初めて来た時もそうだった。自分の家とは違う匂いや、形にワクワクして、他人の家だということを気にすることなく、由花と共に探検ごっこのようなものをしていた。

 その時、私たちを見守っていてくれたのは、由花のおばあちゃん(私は清水のばあちゃんと呼んでいた)だった。

 私は、居間にある清水のばあちゃんの写真に手を合わせる。

 清水のばあちゃんは、去年の暮れ、私がここに来る直前に亡くなった。その前の年までは多少忘れっぽくはなってきていたが、元気に由花や私と散歩をしていたのに──突然の受け入れ難い現実、それでも涙を見せなかったのは私ではなく、由花だった。

 清水のばあちゃん……ただいま。

 私は、ばあちゃんに言の葉が届くよう──数秒手を合わせた。

 私がそうしている間に、居間の机に湯呑みが置かれる音がした。

「まほちゃんの顔が見れて……おばあちゃんもきっと喜んでるよ」

「だといいな」

 湯呑みを置きながら、ばあちゃんに微笑む由花と同じように私も、写真の中で笑うばあちゃんに笑顔を見せた。

 返事は返ってこない。

 そのことが、冷たい空気となって私の頰を撫でる。

 私は、その空気を少しでも温めようと、仏壇のすぐ側にある炬燵に足を伸ばす。

 忘れられるわけではない。

 それでも、炬燵には魔力があって、冬の寒い時期に心も寒くなった私を、体ごと引き伸ばす。そしてその反動で、揺れた私の心は、いつのまにか温まっている。

 走り終わった瞬間のスッキリ感に少し似ているのかもしれない。

 そんな物思いに耽りながら、私は実際に体を伸ばす。餅のようにビヨーンと伸びた私の体は、机の半分ほどの位置で止まると、もうここから動きたくないと叫んでいる。

「極楽ー」

「だねー」

 と、私に合わせるように、台所から戻った由花も体を伸ばす。

 そうして二人共が、動かなくなって数秒が過ぎる。実際は一分かもしれないし、一時間だったかもしれない。時間さえもが曖昧になってしまうぐらい、ぼんやりとした私の頭が、由花を見て呟いた。

 机に頭は預けたまま。寝そべったような状態で──。

「由花……髪伸ばしたんだねー」

 ゆったりとした空間に、同調するように私の口調もゆっくり、ゆったりとした物になっていた。

 それは由花の方も同じようで、この空間の主である炬燵の魔力には全人類勝てないのだろう、私の顔のすぐ近くで由花は緩慢に言う。

「うん、今年の初め……ちょうどまほちゃんが帰った直後ぐらい」

 そう言った由花の髪は、一度も染めたことがないのが聞かなくてもわかるぐらいには、淀みがなくて痛みもない。私の街にいる高校生とは雲泥の差がそこにはあった。

 色は綺麗な黒──長さは、肩より少し下、胸の辺りぐらいだろうか。クセもなく真っ直ぐに伸びたその髪を見て、私は言う。

 まだまだ、緩さは抜けない。

「似合ってる」

 素直にそう思った。

 でも、とふと疑問が頭に浮かんだ。

「なんで、伸ばしたの?」

 ぼんやりとした私の頭が、深いことは考えずに、疑問を口にする。

 昔は、私と同じぐらい──肩ぐらいまでの長さだったのに、寒いからとかだっけ?

 なんかそんな話を去年聞いたような、聞いてないような。

 そんなことを口にした後で、考えていると私と同じ形で炬燵に支配されていた由花が、顔を上げて、表情を変える。由花はかけている丸メガネの位置をわざとらしく直して、むすっとした表情でこちらを見た。

「覚えてないの?」

 突然の問いに私は、すぐさま反応することができない。

 それは炬燵どうこうではなく、単純に覚えていない。思い出せない。去年のことではあるはずなのだけれど、去年は落ち込んでいて由花を励まそうと、適当なことを色々と言っていたので、どれが由花の求める答えなのか──私は考えることを放棄した。

 わからないものは、わからないで答えを聞いてしまった方が早く済む。きっとここで私がいくら記憶をほじくろうとも、私はお宝を見つけられはしないだろう。

「えっと……ごめん。覚えてない」

 言うと、由花はあからさまに私から顔を逸らす。

「……バカ……」

 怒ったとかではなく、拗ねたという表現の方が近いかもしれない。

 去年に限らず、私が忘れっぽいのも相まって、由花だけが覚えている約束とか、由花だけが覚えている思い出とかが、偶に現れる。その度に由花は、泣きはせずに、拗ねることの方が多かった。

 由花は私なんかと違ってすっごく賢いから、泣いても何も解決しないことを知っている。だけど、素直に教えるのも嫌だからっていう子供っぽいところもあって、意地を張る。

 私の仕事は、その張った意地を剥がすことなのだけれど、今日は運良く手元にそのための材料というか完成した道具が、あったのでそれを渡すだけでいい。

 今年ももう終わるというのに、私は今年初めてお母さんに感謝することになる。

「あの、由花さんこれを」

 と、私は下手に回りながら手元に置いたままだったレジ袋を由花の目前に置いた。

 それでも視線を向けようとしていなかったが、鼻は正直なようで、ピクピクっと少し鼻に動きがあると、それと連動するように口も動き出した。

「叔母ちゃんの肉じゃが?」

 チラチラとこちらを確認するように、視線を向け始めた由花に私は、時代劇のような古めかしい口調で言う。

「そうでございます」

 すると由花は、ふざけた私に付き合う素ぶりは見せず、手元のレジ袋を手に取り、その中からタッパーを取り出すと、そのまま電子レンジの中に入れた。

 この寒空の下持ってきたので、いくら高校生になった私の足でも、肉じゃがが冷める前に持ってくるのは不可能に近い。それは昔から変わらない。だけれど、お母さんの肉じゃがは、不思議と電子レンジで温めようと味が落ちることはない。

 私が数年前に自分で作って持ってきた際には、今と同じように電子レンジで数分温めたのだけれど、筆舌しがたい姿に変わってしまい、母親の魔法を見たような気がして、少し心が汚れたような覚えがある。

 そんなことを炬燵に潜りながら考えていると、台所からピーピーと時間を告げる音が聞こえてきた。

 それと同時に、ため息混じりの声も聞こえてくる。

「……橋の上」

 電子レンジからタッパーを取り出し、二個の小皿と2膳の箸を棚から取り出し始める。

 私は、手慣れた様子で準備をしている由花を横目に置きながら、呟かれた言葉を復唱するように、思い起こす。

 去年……橋の上……髪……あ。

 由花が、タッパーから肉じゃがを小皿に移し終え、炬燵のある居間にまで持ってきたタイミングで、私は思い出した。

「神社のとこの、橋でしょ! ああ、思い出した。言った言った」

「本当に?」

 と、私が思い出せたことで手を叩いていると、持ってきた箸を一膳私の手元に置きながら、睨むようにこちらを見る。

「ホントホント、去年の……最後の方、由花が中学に用事があるって制服で出かけた日だよね? 覚えてるよ、寒そうだなぁって思ったもん」

 厚いコートを着て、バスに乗っていく由花を見送った記憶がある。

「そこまで思い出せるのに、なんで忘れるかな……」

 私の記憶は間違ってはいなかったようで、由花が呆れながらも認めてくれる。

「あの時はほら、受験勉強もしてたし」

「私の記憶だと、その勉強から逃げるみたいに、毎日ここに来てたような気もするけどね」

「いやー、気のせいじゃないかな」

 あははー、と誤魔化すように笑う。

 誤魔化すために、嫌な記憶としてしまって置いた受験勉強の記憶を掘り起こしたのに、それによってさらに別の誤魔化しが必要になってしまった。

 しかし、そこは長年の付き合いである──由花は私の誤魔化しを適当に流して話を本題へと戻してくれる。

「じゃあもういいよそれで……だけど、その後の、私が中学の用事を終わらせて帰った来た時の記憶は、あるの?」

 肉じゃがを温め終わって尚、拗ねた様子というか、疑り深いのは終わっていないようで、私を問い詰めるような物言いに、少し背中に冷や汗を感じながらも、私は言う。

「もちろん──由花が帰ってきてだから、日も落ちてきた時間に、受験の合格祈願でもって、神社に行こうってなって」

「…………それで?」

 私が、真剣に思い出しながら話している横で、由花は熱々の肉じゃがを美味しそうに頬張りながら、話の続きを促してくる。

 私は、自分も熱いうちに食べたい気持ちを我慢して、再開する。

「…………その神社と川の間にある橋の上で、清水のばあちゃんの話をしてて……その時に強い風が吹いて」

 

 

 それで、その風が吹き止むと、私と由花の目の前に若い女の人がいた。

 景色は今と変わらない。

 周りにある田んぼも、橋も、神社の鳥居も何もかも、変わっていなかったのに、その人だけがとても昔に思えた。風によって今の時代に流れ着いた火のように、幸せそうな人を見て、由花が『おばあちゃん』と呟いた。

 私にはわからなかったけれど、由花にはそう感じたみたいだった。

 その女の人は、由花と同じように丸メガネをかけていたが、髪はその時の由花よりもずっと長くて、私が感じた第一印象は、濁りのない川のように綺麗な女性というものだった。

 どれだけ時が過ぎても変わらず流れ続けるような、女性を私と由花が眺めていられたのは一瞬だった。

 一瞬吹いた強い風がもたらした女性の影は、また一瞬吹いた風と一緒に、空中を舞うように、私たちの目前から姿を消した。

 私はその影に手を伸ばすことなく、隣にいる由花に目をやる。

 由花の目には一粒の涙が溢れていた。

 亡くなってから一度も私の前では見せなかった涙。その涙が、ふと私の中であの女性に抱いた印象と重なった。

 濁りのない涙。

 濁りのない黒髪。

 それが私の気のせいだったのかどうかは、今でもわからない。だけれど、その時由花も私と同じようにあの女性に見惚れていたのは間違いがなかったようで、由花は涙を拭って呟いた。

『あの人……綺麗だった』

『だね……憧れる?』

『少しはね』

 あの女性を見て、憧れを抱かない人はいないだろう。それぐらい幻想的に映る。

 それも、直感的に自分の祖母だと気づいているのなら尚更──。

『由花も伸ばせば?』

 深く考えず私は、そう由花に呟いていた。

『伸ばす?』

 咄嗟に言ってしまったものだから、聞き返されて返事に戸惑ってしまうが、なんとか怪しくならないよう言う。

『そう……由花の髪もあの人に負けないぐらい綺麗なんだから、あの人と同じくらいまで伸ばせば、あっという間に由花も美人の仲間入り……みたいな?』

 言い終わった後になっても、これが私の言いたかったことなのか、不安は拭えなかったけれど、少なくとも由花の反応を見る限りは、間違いではなかったのだと思う。

 由花は、肩ほどまでの黒髪を弄りながら、モコモコのマフラーで口元を隠している。頬にはマフラーを口元に近づけたせいで顔の周りの体温が上がったのか、少し赤色が見えた。

 その時──これは私にだけ見えた幻想で、妄想のようなものだけれど、風も吹いてはいなかったし、本当にただの妄想なのだろうけれど、由花の髪が一瞬伸びたような気がした。

 その姿は、あの影よりも綺麗に映る現実に感じれたのは、私の気のせいだったのだろうか──。

 

 

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