第三話 榛鳥と哲也

 五月十六日。

 哲也は窓からの陽光に照らされていた。念じるように眉間にしわを寄せると、身体が言うことを聞いてくれた。頭だけを横に向け、壁にかかっている時計に目をやる。まだ朝ぼらけだった。

  隣で綾が寝ている。右手で綾の右頬に触れる。白い肌から微熱を感じた。綾から指を離して、枕の表面を指でなぞった。 カチリ、と時計の針の音が聞こえた。ゆるりと布団から出て寝室の扉に手をかける。薄暗い廊下を歩くと、スリッパの擦る音が聞こえた。

 階段を降りる。 洗面所で顔を洗う。鏡戸を開けた。奥には棚があり、化粧品がいくつか並んでいる。白いボトルを手に取り、鈴をならすように振る。綾が使用している化粧液。残り僅かだ。    

 髭剃り器で顎、もみあげ、鼻毛を整える。脱毛はしない。髭剃りが、哲也にとって自分を見つめられる時間と思っているからだ。二十年の習慣は簡単には変えられない。    

 服を脱ぐ。筋肉の筋が浮いた腹を紺と灰色のスポーツウェアで包む。清涼感のあるシャボンの香りがした。再び鏡を見つめて、髪型を整えてキッチンへ向かった。    

 冷蔵庫を開ける。バナナを二本、頬張る。サプリメントタイプのプロテインを水で流し込み、キッチンカウンターに目線を送る。水を注いだ透明なグラスが置いてある。その横に写真立てが一つ。写真は左から哲也、綾、優真。大学時代に撮ったものだ。画質は荒いがしっかりと三人の顔が映っている。

 水を入れ替える。グラスの横にはジッポーが置いてある。優真のものだった。あいつは、怠け者になっちまった。


 玄関で腕時計を左腕に嵌める。黒のG-SHOCK。二度電池を変えてまで使い続ける。二度とも自分で変えた。今年で十年の付き合いだ。左腕がこの時計に嵌められてしまっているのだろう。わずかに口端が緩む。文字盤を見る。針は六時半を過ぎていた。運動靴を履いて玄関の扉を開ける。肌に朝の静けさが纏わりついた。ひげを剃った顎に凛冽な嫌気を感じた。親指で顎先を数回弾くようにこすった。

 鳥肌が立つほどではない。綾の頬に触れたくなった。


          ●●


 店先に榛鳥が立っていた。緑と黒のランニングウェアに黒のスポーツシューズを身に着けている。哲也が入口の扉を開ける。『女生徒』と書かれたガラス扉。店の名前だ。榛鳥は荷物を床に置き、直ぐに外へ出た。

 ランニングを始める。同じスピードを維持し続けながら走る。三キロ先の隣町の中古のレコード屋に着く。三十分走った。

 八時前に駅前の銭湯に着く。入浴セット一式を購入した。

 脱衣所で服を脱いで、風呂場までの横開きの扉を開ける。かけ湯をした。榛鳥の肩から湯が瀑布のように流れ落ちた。

 榛鳥は黄色のプラ製の座椅子に座り蛇口をひねった。いくつもの篠突く細水さいすいを浴びた。ここのシャワーは勢いが強い。中二の夏、日焼けした顔が染みたことを思い出した。

 髪と体を洗い、湯船につかる。血行に効くよもぎ湯だ。湯に沈むにつれ、心は恬然としていく。肩の力が抜け、小さく一呼吸した。

 過去を思い出すと、天井を見上げてしまう。いつもより高く感じた。照明が霧越しに淡く光っていた。

 哲也が隣に入ってきた。目をつぶっている。水面に向かって深い深呼吸を吐く。真っすぐ伸ばした足先へ波が流れていく。会話は無い。

 しばらくしたら榛鳥が湯から出た。サウナ室へ入り、丸型のサウナマットの上に座る。濛々とした空気が肌に纏わりついてきた。細雨(ささめ)のような汗が流れていく。

 目をつぶる。今日から始める新メニューのレシピを復習していた。哲也の店で中二のときに働き始めた。それとともにランニングと銭湯が、バイト前の習慣となった。

 中学のときは手伝いという形だったので給料は受け取っていない。去年の四月の月末が初給料日だった。給料が入った厚い封筒を机に置かれたとき、榛鳥は生唾を飲んだ。

 綾さんと週に一回の食事代は榛鳥が払うことになった。給料を受け取ったときに哲也に言われた。店は榛鳥が自主的に決めることにしている。自分が選んだ店で綾さんの笑顔を見たいからだ。


         ●●


 来た道を戻る。女生徒の扉を開けた。厨房を通り過ぎて、リビングに向かう。綾がテーブルに食器を並べていた。二人に気づいて、笑みを浮かばせた。

「味噌汁は俺がやるよ」

 榛鳥が言った。綾は、エプロンを脱いで、テーブルへ向かった。

 哲也が椅子を引いて綾を座らせる。榛鳥がお盆に味噌汁を乗せてきた。米に鮭の塩焼き、おひたしに味噌汁。ごく普通の朝飯だ。

 朝飯を食べ終えると榛鳥と哲也はエプロンをつけて厨房に入る。哲也はパスタソースやトーストの具材を作る。榛鳥は、ボウルを氷水にあてて冷やしながらデザートに使用するクリームを撹拌した。

「それじゃあ、行ってくるね」

 揺るんだ笑顔。綾が出かけて行った。


 榛鳥はフロアの掃除を始めた。カウンターは六席、テーブルは四人掛けが七席。テーブルにはメニューだけ置かれている。

 十一時。店がオープンする。開店と一緒に客が入ってきた。カウンターに一組とテーブルに二組。榛鳥が対応する。

 三組ともお冷やを渡したときに注文を通した。常連の客だ。伝票を厨房カウンターに置く。

 レジ横のレコード盤に触れる。曲は時間帯や客層に合わせて榛鳥が決める。『客を見る』ためだ。

 満席にはならないが、扉にかけた鈴は鳴り続ける。

 哲也はキッチンで調理をする。榛鳥がレジや客対応をしているときは、自分で料理を運ぶ。

「榛鳥、なんか描いてよ」

テーブル席に腰かけた女の子が言った。

「待ってな」

 と言い残してキッチンに向かう。

 ラテアートを描く。サービスの一つで榛鳥が提案した。ハートとクローバーしか出来なかったが、今は動物も描けるようになった。三カ月ほど練習をして哲也が許可をした。

「なに描けるのですか?」

 女の子の母が声をかけた。

「そりゃ、なんでも描けますよ。なぁ、らら」

優しい笑顔をららに向ける。以前、友達と来たときに似顔絵を描いてやった。

「らら、好きな動物を描いてやるよ」

「じゃあ、クリプトクリドゥス!!」

「ちょっとお兄ちゃん分からないな」

「リオプレウロドンかテムノドントサウルスは?」

「お嬢ちゃんネコ好きかい?」


 十四時。滞在客は二組。アイドルタイムに入る。この時間に榛鳥は休憩に入る。昼飯は厨房で自分で作る。ペペロンチーノとホットサンド。コーヒーに合う。半熟の目玉焼きを乗せたペペロンチーノ。上に粉チーズがかけてある。


 休日の夜は、満席近くになるときもある。あっという間に時間は経つ。

 閉店は二十時。ドアノブの看板をCLOSEDの方へひっくり返した。 

 榛鳥はレジの精算、哲也はキッチンの清掃を始めた。

 レジ金に問題は無かった。 売上帳に今日の売上を書く。金の入った金庫をキッチンカウンターに置いた。

 榛鳥はテーブルを拭いていた。時計を見る。二十一時半を過ぎていた。

「ただいま」

 綾が両腕で紙袋を抱えて帰ってきた。一日中、友人と買い物をしていた。

「おかえり綾さん」

「榛くん、あとは私がやるよ」 

 榛鳥は奥の部屋に入ってエプロンをハンガーにかけた。

荷物を持って、フロアに出た。綾が拭き終えていないテーブルを拭いていた。

「榛鳥」

 哲也が手を拭きながら、近寄る。右手を前に出した。

「ありがとよ」  

「うん」

 哲也の手を握る。榛鳥の手を握り返した。

 老(ひね)かけた心を洗い流すのは朋(とも)にかぎる。熟成香のような甘さはごめんだがな。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

熟成香 柊木蘭  @HIIRAGIRAN

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画