第二話 榛鳥と綾


 駅前ロータリーのサークルベンチに、一人の女性が座っていた。ナチュラルな雰囲気のセミロングが、街灯の下で揺れる。時計台は十九時四十分を指していた。

「綾さん」

 女性が見上げた。榛鳥だった。黒い紙袋を持っている。灰色の上着に黒のズボン、足元はスニーカーを履いていた。

「待たせちゃいました?」

「ううん。来たばかりだよ」

 綾がベンチから立ち上がる。編み目の細かいニットワンピース。シルエットが膨らむことなく、きれいな縦長のラインを作っていた。

「会えて嬉しいです」

 榛鳥は綾を一瞬だけ、優しく抱きしめた。榛鳥の耳の後ろから、シャボンの香りがした。

「三日前に会ったけどね」

 綾の口端が揺るんだ。榛鳥とは頭一つ分の身長差がある。

「じゃあ、行きましょう」

 榛鳥はいつもより、ゆっくり歩いた。綾がヒールを履いていたからだ。


 駅から五分ほどのところにあるイタリアンレストランに二人は入った。ボーイに壁沿いの席まで案内された。木目のテーブルと椅子。壁一面がガラス窓で、外の緑が照明に浮かび上がっていた。

 榛鳥が椅子を引き、綾がそこに座る。向かいの席に榛鳥が腰を下ろした。

 ボーイがメニュー本を開いて机上に置いた。 「お飲み物は何になさいますか」  榛鳥はリモナータを、綾はクロディーノを頼んだ。ボーイがメニューを持って下がる。すぐにドリンクと前菜(アンティパスト)が机に並べられた。

「乾杯」

 榛鳥が照れながら言った。グラスを交わす。乾いた音が二人のあいだで響いた。

 榛鳥はポルチーニのスフォルマートにスプーンを入れた。上にはポルチーニ茸のソテーが乗っていた。

「これ、茶碗蒸しかな?」

「多分そうかもね」

 前菜がいくつか並んでいた。綾は、ブルスケッタに手を伸ばした。

「榛くん、アンチョビ食べられるの?」

「好き嫌いが無いのが、俺のアイデンティティですよ」

 しばらくすると、マルゲリータと鶏もも肉のグリルが置かれた。綾はピザの一切れをナイフで一口大に切り、フォークで口に運んだ。

「綾さん、今日ね、転校生が来たんですよ」

「転校生? 変わったこんな時期に?」

「しかも、僕の隣の席にですよ。凄くないですか」

 榛鳥が高校に入学してから、週に一度、綾と食事をするようになった。学校のことや出来事を綾に話す。一人暮らしの榛鳥にとって、それが一つの幸せでもあった。

 最後に、デザートのジェラート二種盛りとアイスハーブティーを堪能した。

 綾が手洗いで席を離れているとき、ボーイが伝票を持ってきた。榛鳥が受け取る。席を立ち、レジに向かった。

 少し高いな、と思った。だが、あまり気にならなかった。電子決済で払った。レシートを受け取り、席に戻ると、綾がいた。

「家まで送ります」

「ありがとう」

 二人は店を出た。綾が榛鳥の腕を組む。夜風の涼しさを二人で分かちあいながら、薄暗い道を歩いた。 


          ●●


 十字路にさしかかったところで、榛鳥はぴたりと止まった。

「綾さん、寄り道してもいいですか?」

「いいけど、どうして?」

「内緒です。こっち行きましょう」

 真っ直ぐ進むところを左に曲がった。公園に入る。

「綾さん、目を瞑ってください」

「うん」

 綾は言われるまま瞼を閉じた。榛鳥は紙袋を開き、細長い黒い箱を取り出す。綾の後ろに回り、その箱を持たせた。

「目、開けていいですよ」

「なに、これ?」

「開けてください」

 箱を開ける。一輪のカーネーションが入っていた。

「まぁ」

 綾が笑った。

「いつもありがとう、綾さん」

 榛鳥は綾を優しく抱きしめた。しばらく離さなかった。恥ずかしさを、愛情で上書きしていた。

「ナルシストだね、今年は」

 去年は、バイト終わりに花束を渡した。カーネーションは中一の頃から渡していた。

 榛鳥は綾から離れた。シャボンの香りは綾に残っていた。カーネーションを箱に戻し、紙袋に入れて綾に渡した。

「じゃあ、帰りましょう」

「ありがとう、榛くん」

 綾は榛鳥の腕を組む。元の道に戻った。

 街灯に照らされた住宅街を通り過ぎた。野良猫が影に染まった車道を横切る。自販機に名前の知らない虫が止まっていた。二十二時を迎えようとしていた。明かりが灯る家は数件だけだった。

 一軒の喫茶店が、暗闇を照らすように明るかった。ドアノブにチェーン付きの看板が下がっている。CLOSEDと書かれていた。扉が開いた。三十代後半ほどの、オールバックの男が出てきた。黒いシャツとエプロン。その上にノーカラーコートを羽織っていた。榛鳥のものと、寸分違わなかった。玄関先を箒で掃き始めた。

 綾が榛鳥の腕を離し、男に駆け寄った。

「ただいま、あなた」

「あぁ、おかえり」

 男は綾を一瞬、抱きしめた。

「じゃあね榛くん。水曜日ね」

 綾が手を振り、喫茶店の中に入っていった。

 踵を返して、榛鳥は来た道を戻る。

「榛鳥」

 男の低い声。榛鳥の足が止まった。男はエプロンのポケットから、小さなノートを一冊取り出した。店内から、レコードの音が漏れた。蘇る金狼のテーマだ。

「なに?」

 振り返り、男に近づく。ノートを受け取った。

「覚えてこい」

「うん」

 もう一度、踵を返した。帰りに自販機で珈琲を買った。まだ、あたたかいが、恋しかった。

  

          ●●


 十階建てのマンション。413号室が榛鳥の部屋だ。鍵を回した。スニーカーを脱いで手に持った。3LDKの間取り。真っ直ぐな廊下を突き進んで、右手の洗面所に入る。浴室にスニーカーを置いた。

 男から受け取ったノートをキッチンカウンターに置いて、冷蔵庫を開けた。だが、すぐに閉じた。リビング横の自室に入った。

「おかえり」

 麗美がベッドで胡座をかいていた。ゲームをしていた。半袖の柄シャツ、オレンジのバスケットパンツを履いていた。膝横にシュークリームの箱がある。榛鳥が帰ったら食べようとしていたものだ。

 榛鳥はタンスを開けて、ジャージを取り出した。服を脱ぐ。黒のトランクスが見えた。麗美に気にせず画面を凝視していた。

 ベッドとモニターに挟まれるように白いテーブルが置いてある。スモークチーズとビーフジャーキー、ペットボトルが置かれていた。

 麗美がチーズを触った手でコントローラーを触った。

「おい、チー牛触ったら拭けって」

 榛鳥が言った。麗美は、だるそうな顔をしながらティッシュを三枚取って指を拭いた。

 シュークリームの箱をどかして、麗美の隣に座る。

「左の部屋に宝箱あるよ」

 赤糸威胴丸鎧を着用していたキャラが左の部屋に入る。壁沿いに置かれた葛籠を開けた。中から顔を覆う大きさの蜘蛛が何十匹もキャラに襲いはじめた。 画面に赤色で死亡の字が現れた。

「あはははは、馬鹿女が、ざまぁみろ」

「ねぇ、二時間かけてここまで来たのに、また山登りしなきゃいけないじゃん」

「パパも、逆落としで一日使ったらしいぜ」

 麗美が握っていたコントローラーを榛鳥に投げた。溜め息を吐きながら、仰向けにベッドへ倒れた。

「ねぇなにか作って」

 榛鳥の背中を蹴りながら、言った。

「なにがいいの?」

「なんでもいい」

「今からカレーは無理だよ」 

 榛鳥はビーフジャーキーを口に運びながら自室の扉を開けた。

 キッチンの明かりをつける。惣菜パンにチーズをかけて、トーストで二分ほど焼く。カウンターに置いたノートを取る。料理のレシピが仕込みから仕上げまで、細かく書かれていた。

 トースターからチンと、音がした。一緒にスマホの着信音が鳴った。姫坂からだった。通話ボタンをスライドさせた。

「もしもしはっくん。いま平気?」

「トースターからパンを出したい」

 姫坂の笑い声が聴こえた。

「今日さ、数学のとき口パクパクしながら寝てたよね。鯉みたいで面白かった」

「やかましいわ」

 榛鳥は、面映ゆい心を打ち消すように、無意識に指先でワークトップを叩いた。

「これからゲームやらない?」

「靴洗ったあとならオケよ?」

「分かった。また後で電話するね」

 トレイを持って自室に戻った。パンとコーラ二缶が乗っていた。机に置くなり、麗美がパンを手にとった。

「これ食ったら帰れよ」

「誰と話してたの?」

「姫坂。ゲームやろうって」

「あんた、姫坂さんと仲良いよね」

「同中だからな」

「姫坂さんとうちら、同じクラスになったことないじゃん、どう知り合ったの?」

 麗美がコーラのブルドッグを引いた。

「中二のときの職場体験だよ。幼稚園の先生やったよ」

「懐かし」

 コーラを飲み干した。

「中二ってことは、うちら付き合ってた時期じゃん」

「一か月だけだったけどな」

 榛鳥は自室から出て、風呂場に向かった。良い日だと思えた日の夜は、靴を洗う。中一からの習慣の一つだ。綾の笑顔を思い出した。

 

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