熟成香
柊木蘭
第一話 榛鳥と学校
五月七日。
「こっちこっち」
女教員が、椅子から立ち上がって、職員室の扉前で立っていた女生徒に、手招きをした。
「これに座って」
「失礼します」
「失礼しちゃって」
女生徒は、肘なしのオフィスチェアに腰かけた。ブレザー制服を着ていた。
女教員の両膝が女の子に向く。四十デニールの黒ストッキングが、足を細く見せていた。
「あらためまして、二年四組担任の峰内です。よろしく」
黒のスカートスーツ。爪の保護のため、薄くネイルを塗っていた。
「北方です。お願いします」
ミディアムヘアの毛先がふわりと揺れた。
「明日、登校したら職員室に来てください。そうだね、八時ぐらいに来てほしいかな」
机の上の紙箱から包装されているチョコを一粒、北方に渡した。食べずに手の内に収めた。
「ところで北方さんは、進路は考えてたりしてる?」
「大学は行くつもりです」
「なら、英検に興味ない?うちの学校は準ニ級以上は、最初の受験料は学校が二割ほど負担してくれる」
机から冊子と数枚のプリントを手にする。
「これ、過去問。良かったらどうぞ」
「あ、ありがとうございます」
『鞄を持ってくれば良かったな』
下唇を凹ました。
●●
せっかくだし、明日から通う教室を覗いてきたら?
峰内の一言に押されて、北方は階段を登った。
二年生のフロアは三階。廊下は真っすぐ先から先まで見える。右は一組。その手前にトイレがある。
『左にバビューンと行けばある……』
四組はもう少し先にある。廊下を歩く。二組の教室を通り過ぎるところで、四組の教室の看板が見えた。手前の扉が閉まっていた。過去問で手が塞がれていた。教卓側の奥の扉が空いていた。
『そっちから入ろう』
扉を通り過ぎようとしたとき、ガラリと扉が開いた。黒髪の生徒が立っていた。鞄を肩に掛けていた。
「にひぃ」
驚いて、手の力が抜けた。持っていた過去問を落としてしまった。北方が、身をかがめて拾いはじめた。
「ごめんね」
黒髪の生徒も、拾うのを手伝う。ワイシャツの上に、黒と白のブロックチェック柄のノーカラーコートを羽織っていた。肘まで袖をたくし上げ、前腕を見せていた。
「っ……」
紙の角が、北方の指を鋭く撫でた。チクリとした痛みに視線を落とすと、細い赤い線が浮かび上がっていた。じんわりと滲む血に、北方は一瞬戸惑う。
「大丈夫?」
指先に触れるぬくもり。急に触れられた北方を、飾り気のないシャボンが柔和にする。男の手首からくる香水の香りだ。
男は迷いのない手つきでハンカチを取り出し、そっと血を押さえた。鞄から小さな絆創膏を取り出す。
「染みるかも」
北方の手を触れて、絆創膏を貼った。男の体温がじわりと伝わる。北方は息を飲んだ。
「ごめんね。驚かせちゃったよね」
「ううん。大丈夫です」
男が床に落ちたプリントを拾う。
「はい」
「ありがとうございます」
「じゃあ、俺行くね」
男の背中を見届ける。膝下までのロング丈のコートが揺れた。男にゆったりとしたシルエットを与えた。
廊下を橙色に染める夕日が、北方の頬を照らした。
●●
五月八日。
麗らかな風が通った。枝に残る桜葉が、陽に照らされて、白金にしたたる。風光が揺れた。校内は青春の
「おはよう」
麗美が教室の扉を開いた。騒がしいクラス内の空気に沈んだ。
「レイミン、おはよう」
響きが声に応ずるが如し。席に座っていた静香が、弾むように椅子から立ち上がり、麗美に抱きついた。
「もう、離してよ」
静香を剥がして、自分の席に座った。
「レイミン、今日、転校生来るの知ってる?」
「そうなの?知らないわ」
麗美がサンドイッチを食べながら言った。
教卓側の扉から、ショートカットの女生徒が教室に入る。深青色の毛先がふわりと揺れた。一番前の左端の席に座った。バッグを机の横にかけて、スマホゲームを始めた。
チャイムが鳴る。峰内が入って来た。
「おはよう。みんなGWは元気にしてたかな」
「みねねん、転校生は?」
静香が手を振りながら言った。
「慌てないの。入っておいで」
北方が入る。絆創膏は昨日の夜、貼り替えた。黒板にチョークで自分の名前を書いた。
「北方亜麻音です。よろしくお願いします」
拍手が響いた。北方はほっとした。
「北方さんは、あそこの席ね」
教卓から一番左の列の一番奥の席。扉の前の席だった。席の間を余所余所しく歩く。席に座る。左の席は空席だった。机を叩く音がした。北方は前を見た。
「宇津木麗美。よろしくね」
麗美が振り向いて言った。
「うん、お願いします」
北方の口端が揺るんだ。
すると、気の緩んだ北方を叱りつけるかのように、扉が、バン、と開かれた。汗をかいた黒髪の男が、隣の空席に鞄を置いた。ノーカラーコートを羽織っていた。
「へぇ!?」
『昨日の人だ』
顔はうろ覚えだが、羽織っていた
『当然だよね、四組から出てきたんだから』
北方は、指に巻かれた絆創膏を見つめた。
「セーブゥ゙ァァ」
男の脇腹にチョークが当たった。峰内が投げたものだ。
「こら、遅れたら、すいませんでしょうが」
「すいません……でした」
男は、倒れるようにうつ伏せになり机と一体化する。
チャイムが鳴り号令をする。教室から出ようとした峰内が、教室の方へ振り向く。
「みんな、来週の球技大会、北方さんと一緒に頑張るのだぞ」
右腕をあげて言った。
「北方?」
榛鳥がゆっくり顔をあげた。
「この子よ」
麗美が北方の左肩を叩く。北方が軽く会釈する。
「あの、昨日はどうも」
絆創膏を見せた。
「あぁ、怪我大丈夫そうだね」
「ただの切り傷だから、平気だよ」
「そっか、なら良かったよ。俺、
「うん、よろしくね伊佐奈くん」
一時間は化学だった。理科室で授業を行う。
「北方さん、移動だから一緒に行こう」
静香が言った。
理科室での席は自由だった。二人と麗美は同じ机の席に座った。榛鳥は別の席に座った。
「ねぇ、姫坂、これ見てよ」
向かいの席の姫坂にアプリゲームの画面を見せた。
「もう当たったの?」
「そう、四時から周回してたら、七時になってた」
「それで遅刻したの?」
「違うよ。体操着忘れたから、取りに行ったの」
「北方さん。一緒に食べよう」
昼休み。静香が麗美の席に座った。別の席に麗美は座っていた。
北方はバッグから弁当箱を取り出す。黄色のラインが入ったピンク色の布袋に包まれていた。
「おい榛鳥、揚げたてのカレーパン売ってるぞ」
別のクラスの男が廊下から叫んだ。
「なに!おい、俺とともに戦うやつは居ねぇか?」
クラスの男数人が手を上げた。
「先陣は任せろ」
「俺、旗掲げるぜ」
「昨日フラレたからなにも怖くないぜ」
「よしお前ら行くぞ」
榛鳥は、二人の男と騎馬戦の隊形を組んだ。上に乗った小柄な男が、
旗を持っていた。
「ありおりはべり」
「「「いまそかり!!」」」
騎馬は、購買部に向かって駆け出した。
HR。榛鳥はスマホを弄っていた。【二十時にいつもの所で】と、メッセージを送った。
峰内が教卓前に立った。
「伊佐奈くんには居残り作業してもらいますから職員室に来てね」
「なぁ!?」
「はい、日直さん、号令」
さようならを言うと、大半がクラスから出ていった。数人は掃除を始めた。姫坂は、廊下で待っていた女の子らと合流した。
男数人が榛鳥の肩を叩いて、教室から出ていった。
「おう」と言って、榛鳥は職員室に行こうとする。
「ねぇ、レイミン。図書委員の手伝いしてくれる人探してるの、お願いできる?」
静香が手のひらを合わせて、麗美を見つめた。
「ごめん、私これから部活があるの」
「静ちゃん。わたしで良かったら、手伝うよ」
北方が手を上げながら言った。
「いいの?でも……」
「困ってるなら、頼っちまえよ。俺も峰ちゃんの付き合い終えたら、来るからさ」
榛鳥は、肩に鞄を掛けた。
●●
十七時を過ぎた。図書委員の手伝いを終えた榛鳥と北方は、二人で帰る。校門を通り過ぎた。陸上部の友達を待つため、静香とは下駄箱前で別れた。
「転校初日で色々大変だったろ」
「ううん。むしろ楽しかった」
嘘偽りない、本心だ。北方の目が細まった。
「ねぇ、伊佐奈くん一つ聞いていい?」
「なに?」
「その……、ハマグリ渡して、女の子に告白したって本当?」
榛鳥は苦笑した。
「静から聞いたの?」
「うん、手伝いしてるときに話してくれたの。詳しくは聞いてないけどね」
「小四のときだよ」
「聞かせてよ。気になる」
「また今度な」
黄昏の眩さに笑い声が響いた。
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