私とパインの話

霧澄藍

肉じゃがとパイン

 四時間目が終わって、今日も昼休みがやってきた。号令が終わった後すぐ、手早く教科書類を机に仕舞うと、弁当箱を取り出す。ランチバックから取り出し、蓋に手をかける。

私はこの瞬間が大好きだ。昼休みに味わって食べるために、十七年間早弁もしたことがない。

 ゆっくりと蓋を外して中を見る。今日は肉じゃがだった。弁当では珍しいかもしれないが、小出こいで家ではよく登場する弁当メニューの一つである。そしてもう一つ、肉じゃがにパイナップルが入っているのも、小出家のお約束である。

「あー!パイン今日も肉じゃが?やっぱパイナップル入ってんの?」

 クラスメイトの今森いまもり優衣ゆいが前の席にドカッと座り込んだ。

「よく食べるよね、それ。優衣パイナップル入ってる酢豚も許せないよ」

 優衣はワイシャツの胸ポケットから鏡を取り出すと前髪をいじり始めた。少しだけ化粧品の匂いがする。我が物顔で占領している机は別に優衣の席じゃないけれど、こうなったら多分動かない。席の主である山本やまもとくんを少しだけ不憫に思いつつ、箸を握りなおして弁当を食べ始めた。

 優衣はああ言うけれど、パイナップルと肉じゃがはやっぱり会う。肉は柔らかく仕上がるし、所々に感じる酸味が心地いい。というか、管理栄養士の母が作る料理に外れはほとんどないのだ。けれどそんな私を見て、優衣は苦い顔を向けてくる。

「美味しいよ?一口居る?」

「いらなーい。それよりパインさ、数学のノート貸してくんない?次提出のやつ」

 お願いっと両手を合わせて向けてくる。私は一旦箸を置いて、鞄の中を探し始めた。

「ありがとう~!授業始まるまでに写して返すから」

 ノートを見つけるより先に、感謝の言葉が降ってくる。見つけ出したノートを優衣に渡すと、パッと取って去っていった。

「パインからノートゲット!ほら、早く写しちゃお」

 おそらく美怜みれい菜月なつきも一緒に、ノートを写すのだろう。優衣を中心として、三人は仲が良い。いつも教室の真ん中で楽しそうに話している。

 小さくため息をついて、弁当を再開する。箸で掴もうとした肉じゃががうまくつかめず、パイナップルだけが白米の上に落ちた。なんとなく手が止まる。

「鈴ちゃん?大丈夫?」

 はっと顔を上げると、隣の席に座る学級委員の高松たかまつ真凛まりんがこちらを覗いていた。

「やっぱり今森さんたちのことで悩んでる?ノートとか…その、あだ名とか」

 高松さんは少しだけ目をそらして、左手でくいっと眼鏡を押し上げる。

「嫌なら私が注意しに行くから。ノートも返してもらおうよ」

「大丈夫。ありがとう」

 高松さんが驚いたようにこちらを見た。確かに「パイン」というのは、小出家の肉じゃがを初めて見た優衣がつけたあだ名で、三人ともそう呼んでいる。でも別に嫌なわけじゃない。

「高松さんがどう思ってるのか分からないけど、私は全然悩んでない。優衣たちは友達だから」

「本当?」

 もちろん、と小さく笑う。高松さんはどこか納得がいっていないみたいだったけれど、全く嘘じゃないし、これ以上言うこともない。

「そっか、でも、困ったらいつでも相談してね」

 高松さんはそう言うと自分の昼ご飯の準備を始めた。一緒に食べようと言われたので、机を動かしてくっつける。いつもは一人で食べるから、なんだか少し新鮮だった。

 ちなみに高松さんのお弁当はサンドイッチが二つ。自分で作っているらしい。今日は少し寝坊したから、おかずを用意する時間が無かったとか。肉じゃがを一口あげようかと思ったけれど、パイナップルに抵抗があるらしく、やんわりと断られた。

「そういえばさ、鈴ちゃん。明日の転校生の話、何か知ってる?」

 二つ目のサンドイッチを食べ始めた高松さんが唐突にそんな話題を振ってきた。正直、明日だったことを今思い出した。何も知らないので首を振る。

「そっか…。先生に聞いてみたんだけど教えてくれないんだよね。本人に聞けってことかな」

 眼鏡を押し上げてからサンドイッチを持ち直す。高松さんが転校生に浮足立つのが意外だった。

「気になるの?転校生のこと」

「うーんとね、気になるって言うか、この時期にしかも高校に転校って凄い珍しいから。もしかして何か事情とかあるのかなって思って。ほら、学級委員として、クラスになじめるように何か手伝いたいの」

 確かに、今は五月。しかも高校二年生となると、何か事情を考えてしまうのも分かる。

「偉いね、高松さん。さすが学級委員」

「そんなことないよ、私が気になってるだけだし」

 そう言う顔は少し満足そうだった。




 翌日、予定通りに転校生がやってきた。

篠原しのはら波音なみねです。よろしくお願いします」

 拍手が起こる。昨日高松さんに言われて少し気になっていたけれど、全然普通の子、というのが私の印象だった。特に問題もなく、一カ月もすれば、もともとこのクラスに居たくらいには馴染んでいるのだろう。

「篠原さんの席は後ろね」

 先生の言葉に、軽くうなずいて歩いてくる。席は私の後ろだ。隣の高松さんが真剣な表情で見つめていた。

 朝のホームルームが終わり、振り返って話しかける。

「私、小出鈴。よろしく。ねえ、波音って呼んでもいい?」

「いいよ、えっと…鈴ちゃん?」

 波音が緊張したように話す。鈴でいいよ、と言おうとしてふと思う。仲のいい優衣たちは私のことをパインと呼ぶのだから、そう言った方が良いのだろうか。

「ねえねえ!波音ってさ、パインだよね!」

 大きな声が降ってきた。見上げると、優衣が波音と私の隣に立っていた。

「確かに!波って熱波とかのパで、音ってえっと…福音?とかのインだよね」

 菜月が笑いながら賛成する。視線の先を見ると、黒板に書かれた「篠原波音」の文字があった。

「ってことで波音のことこれからパインって呼ぶね!」

 優衣が明るく笑って言う。優衣に悪気はない。それはわかっている。これが優衣の距離のつめ方で、友達になるということだ。波音は困ったように笑って頷いた。優衣は満足げで、次の授業の準備のために菜月と美怜とロッカーに向かった。

 これで波音は、優衣達のグループだと決まったようなものだ。つまり私は仲良くできる。喜ばしいことなのだろう。

 でも私は、私がパインだと言うタイミングを逃してしまった。




 波音は、やっぱり何の問題も障害もなく、クラスに馴染んでいった。性格の良さ、適度な真面目さ、など。苦手になる要素はほとんどなかった。あと可愛いって男子が言っていた。

 優衣がパイン、と呼ぶので私が振り返ると、波音はすでに居て、嫌な顔一つしないで笑っている。そんな波音に一拍遅れて、私も優衣たちの方へ向かう。何の話?と平然を装ってその輪の中に入っていく。振り落とされないように。

 今日の話題は恋愛リアリティショーの話らしい。私は詳しくないけど、菜月や美怜も見ているようで、優衣と三人で楽しそうに笑っている。誰と誰がくっつくとか、誰が良いとか悪いとか。

「だからさ、やっぱりこの二人だと思うんだよね。パインはどう思う?」

「うん、私もそう思うよ」

 反射的に返事をしてしまった後で、失敗したかもしれないと思った。今のパインはおそらく波音に向けたものだったのではないだろうか。波音の方を見ると、波音も驚いたように私を見つめている。

「あ、ごめん。波音のことだった?」

 空気感に耐えられなくて、思っても居ない言葉が口から零れ落ちた。

「あー、そっか、二人ともパインだもんね…でも二人ともパインなんだよな~」

 うーん、と優衣が悩み始める。ただ友達のあだ名を考えているだけのはずなのに、私には優衣がすごく大きい何かに見えた。

 波音は、どこか浮かない顔をしている。そこでやっと気が付いた。波音は、本当はパインと呼ばれるのが嫌なのではないだろうか。

 当たり前すぎて忘れていたけれど、波音は転校初日で、まだクラスメイトの名前も何もかもわからないときに「パイン」と名付けられたのだ。呼びこそしないけれど、クラスの他の人だってきっと内心「パイン」と思っている。普通、良くは思わないだろう。

 もし、今私が優衣を止めたら、優衣は波音を「パイン」と呼ばなくなるだろうか。

 だけど、よくも悪くも真っすぐな優衣だから、その理由を聞いてくるのだろう。私は答えられない。だって、他の人がどう思ってるかはわからないけど、優衣は誰かを傷つけたいわけではないから。

 とても長く感じられた沈黙を破って、優衣が口を開いた。

「パインとパイナポーでどう?」

「どゆこと?」

 すかさず菜月が訊く。

「波音はパイン。だって名前がパインだから。で、鈴はパイナポー。肉じゃがに入ってるのがなんか…あれ、あの、ペンに刺さってるのとかと似たようなくっついた…キメラ感?がある気がするから」

 優衣は自分で納得したらしい。波音と私を交互に指さしながらパイン、パイナポーと呟いている。波音が困ったように私を見た。

 その顔が、何だか凄く癪に障った。誰にも言わないけど。

「今森さんたち、そろそろ授業始まるから席ついて」

 高松さんの声が飛んできた。時計を見ると、もう授業が始まっていてもおかしくない時間だった。先生が少し遅れているのだろうか。つくづくチャイムの鳴らない学校は大変だと思う。

「まだ先生来てないからセーフだってば、真凛」

 真面目だね、とからかうように菜月が言う。それでも私達はそれぞれの席に戻った。机の中から教科書を取り出していると先生が入って来る。定型文みたいに遅れてごめんなさいと言いながら出欠を確認しているとき、最前列の優衣が波音の方を振り返っていたずらっぽい笑みで口を「パイン」の形に動かしていた。




 今日のお弁当は、まるで仕組まれたみたいに肉じゃがだった。もちろんパイナップル入り。教室の真ん中で開けた弁当箱の蓋をそっと閉じる。どうしてか、いつもみたいに食べ始めようと思えなかった。

「鈴ちゃん、波音ちゃん、昼ご飯一緒に食べない?」

 高松さんが誘ってきた。教室を見回すと、優衣たちの姿はない。特に断る理由もないので、一緒に食べることにした。波音もそうするみたいだ。机を動かしてくっつける。

 既に机の上に弁当を広げていた高松さんがいただきます、と律儀に手を合わせてから高松さんが食べ始める。私もそれに続いた。波音は鞄の中からコンビニのビニール袋を取り出した。

「あ、それ知ってる!新発売のパンだよね」

 高松さんが波音のパンを見て言う。そのいちごのジャムパンは今日から発売される季節限定商品らしく、波音も嬉しそうに言った。

「そうなの。私このシリーズのパン好きなんだ」

 ほんとは冬のチョコバージョンが良いんだけど、と付け加えて、美味しそうに食べ始めた。

 三人で黙々と食べる。特に話したいこともないから、仕方のないことだけど困る。こういう空気は好きじゃない。そんな私の思いを感じ取ったように、波音が口を開いた。

「鈴ちゃんのお弁当は…それ、肉じゃが?」

 波音が少し不思議そうに覗き込んでくる。確かに初見だとこの黄色いのが何かはわからないだろう。

「そうそう、これね、パイナップルが入ってるの」

「え?」

 波音が目を見開く。こういう反応は久しぶりだ。

「酢豚とかにさ、パイナップル入ってることあるでしょ?それと同じ。パイナップルのおかげでお肉が柔らかくなるの」

 お母さんの受け売りね、と付け加える。波音は納得したように頷いた。

「だからパインとパイナポーなんだ……」

「そう。波音が転校してくる前は、私がパインって呼ばれてたんだよ」

 豚肉とパイナップルを同時に口に入れる。染み込んだ味とパイナップルの程よい酸味が組み合わさって口の中に広がった。

「私結構パイナップル好きで、色々食べたつもりだったけど、パイナップル入りの肉じゃがって食べたことないや」

「食べてみる?」

「いいの?」

 波音が笑う。記憶にある限り私の肉じゃがを食べると言ってくれた人は初めてだった。まさか食べるとは思っていなかったので、若干心の準備はできていない。でも言った手前あげないことはできないので、箸でひと口分取る。どう渡すべきか悩んで、少し固まった。

「あ、私割りばし持ってるよ」

 高松さんが割りばしを取り出した。左手で受け取って、持っていたひと口分の肉じゃがを一旦置く。力を入れると簡単に二つに分かれる。

「あ、自分でとった方が取りやすいか」

 波音に聞いて、波音に箸を渡すことにする。いただきます、と波音が遠慮がちに豚肉とパイナップルを一切れ取っていった。

「え、美味しい!」

 波音が目をぱちくりさせてこちらを見る。お世辞じゃないかと思ったけど、嬉しかった。どうも調子が狂う。

「でしょ?高松さんも食べる?」

 波音の予想外の反応に驚いていたみたいだったけど、やっぱりパイナップルがどうも受け入れられないらしく断られた。そう、これが普通の反応だ。

「私も今度作ってみようかなー、あ、コツとかあったら教えて」

 波音が笑って言う。お母さんに聞いとくよ、と答えながら、私が居得た事じゃないけれど、変わった子だなと思った。

 話題が落ち着いたのを見計らったように、高松さんが箸を置いた。まだお弁当は少し残っている。どうしたのかと見ると、何故か左右を確認して、秘密の話でもするように真剣に話し始めた。

「あのさ、二人とも、困ってることとかない?」

 ああ、そうだと気づく。高松さんはずっと、私がパインと呼ばれていることを気にしていた。

「今森さんたちが二人にあだ名付けて呼んだりしてるの嫌じゃない?言いづらいかもしれないけど、今は三人ともいないから、もし困ってたら教えてほしい」

 高松さんが私と波音を交互に見る。学級委員として、正しいことをしようとしている。でも私の答えは変わらない。

「あだ名って『パイン』のこと?そんな高松さんが思ってるほど深刻じゃないし、悩んでなんかないよ、私は。パイナップル嫌いじゃないし。むしろ楽しんでる」

 本当の本当に嘘じゃない。とか言うと嘘みたいだけど嘘じゃないから仕方ない。

 私からはこれ以上何も得られないと思ったのか、話のターゲットは波音に移る。

「転校先のクラスがこんなんで私も不甲斐ないんだけど…」

「全然大丈夫だよ、いつもありがとう」

 波音が言う。本当?と言う高松さんにも笑って返す。

「なるほどなって思ったの。ほら、波音を音読みしてパインって、言われたこと無かったからさ」

 高松さんはまだ納得がいっていないみたいだったけど、波音は今まで聞いたことが無いおどけた口調でそう言った。

 そのとき、教室のドアが開いて先生が入ってきた。時計を見てもまだ次の授業までには十五分はある。どうやら誰かを探しているらしく、キョロキョロと教室を見渡して私たちの方向に向かって歩いてきた。

「あ、高松さん、先生来てる」

 三人で席をくっつけると丁度高松さんの席はドアに背を向けることになるため気付いていなかった。驚いて振り返る。

「高松、今日実行委員会やるから、委員集めといて」

「あ、わかりました」

 それだけ言うと先生は去っていく。高松さんは少し残っている弁当を手早く片付け始めた。

「私、他のクラスの委員の所回らないとだから……、いつでも困ったことあったら相談してね」

 最後に念押しをして鞄に弁当をしまうと、机を戻して隣のクラスに向かった。教室を出る前に、男子の輪の中で騒いでいるもう一人の学級委員の山本くんに声をかけることも忘れない。

 波音と二人で顔を見合わせる。高松さんが居なくなると机がハの字に二つ並ぶことになり、若干話しづらいなと思っていると波音が机を動かし始めたので私もそれにならった。二人で向かいあう。

 こうやって二つ並べると、近いなと思う。教室の机は思ったより小さいのだ。

 波音がジャムパンを少しずつちぎって食べ進める。珍しい食べ方だなと思ったけど、すごい綺麗な食べ方だった。

「ん?どうかした?」

「ううん、何でもない」

 波音が不思議そうに首をかしげる。私は視線を自分の肉じゃがに戻して続きを食べ始めた。

「波音はさ、さっきはああいってたけど、ほんとのほんとに嫌じゃないの?パインって呼ばれるの」

 少し波音の方を見る。波音は笑って言った。

「だから大丈夫だって。私は。むしろ鈴ちゃんこそ、嫌なんじゃないの?本当は」

「いや、私は別に。ずっと優衣たちと一緒にいたから。…こんなこと言ったらなんだけどさ、波音はいいの?その、このままで」

「どういうこと?」

 優衣たちと一緒に居ていいのか、と聞こうとしたところで、いつもの声が聞こえてきた。優衣たちが戻ってきたのだ。別の言葉を脳内から振り絞る。

「いや、なんというか、今波音って…、えっと、まだ話してない人、クラスにたくさんいるでしょ?なんかもう、私たちのグループ、みたいになっちゃってるから」

 波音の動きが一瞬止まる。言葉を間違えたかもしれない。

「だから、その…色々挑戦してみてもいいのかなって。ほら、もうすぐ修学旅行の班決めもあるわけだし」

「パイン!」

 私が自分の言葉に迷っている間に、優衣の声が飛んできた。

「あのさ、古典のプリント持ってない?放課後提出のやつ」

「え?何それ」

 優衣が言うプリントは、波音が転校してくる前に配られたものだ。だから持ってるはずがない。そして私のプリントは、今机の中に入っている。

「あ!そっか、パインまだ居なかったじゃん」

 優衣が気づいた。右手で箸を握りなおして、左手を机の中に差し込んで感触を確かめる。半分に折りたたまれたB4サイズのプリント。言われれば、すぐにでも取り出せる。

 でも、優衣は私の方を見てくれなかった。

「優衣ー、これだよね、優衣の」

 美怜が得意顔で一枚のプリントを優衣に手渡した。どうやらさっきから優衣の机の中を三人で探していたようで、優衣は見つからないと諦めてこっちに来たみたいだった。

「え、マジ?ありがとー!ってか思ったより埋まってる」

「やってないとか言ってたのどこの誰?」

 菜月が横からプリントを覗き込む。

「このくらいだったら提出までに間に合うよ。手伝う」

「さすが菜月!あ、パインも一緒にやる?提出あるかもだし」

「流石に転校生にいきなりそんなこと言わないでしょ」

 四人の視線が一気に私の方に向いた。いつものことなのに、少し緊張するのはなぜだろう。

「まあ、それもそっか。でも、のぼるの授業速いしさ、内容確認しといた方が良いんじゃない?」

 いこ、と波音を連れていこうとする。まだ食事中なのに、と言いたかったけれど、波音はもう食べ終わって机に上はゴミが入ったビニール袋しか無かった。逆に私はまだ食べ終わっていない。

 波音が私の方をちらちら見てくるので、何でもないという風に軽く笑っておく。律儀に机の位置を直してから優衣の席に向かった。

 机の中の左手をそっと抜いて弁当箱を持ち直す。減ってきた中身を角に寄せて、まとめて食べきった。最後、角に残る味は他よりもパイナップル感が強い。私は別に嫌いじゃないけど、この一口を食べると、好き嫌いが分かれる味なのはわかる。そういえば、優衣は結局一回も「パイナポー」と言わなかった。


 あと五分で昼休みが終わるというところで、高松さんが教室の電気を消した。次は体育なので、全員移動するのだ。もうほとんどの人は更衣室に向かっていて、教室には私と今戻ってきた高松さんしかいない。

「あれ?鈴ちゃん珍しいね、いつも早いのに」

 そんな高松さんも、学級委員として「五分前行動を心がけよう」と言っているだけあっていつもならもっと早い。教室の電気を律儀に消す人が少ないので、体育の前は十分前くらいから教室が暗いのが普通なのに。

「ちょっと1組の学級委員が見つからなくて」

 誰に言うわけでもなく呟きながら、机の横にかかっている体育着を取ってドアへ戻る。

「鈴ちゃん?急がないと遅刻するよ」

 高松さんはそう私に言うと、体育館へ小走りで向かっていく。私も急いで後を追いかけた。


 号令をかけている最中に滑り込んできた私に視線が集まる。チャイムが鳴らないこの学校ではこれはセーフになる。

「皆さんたるんでますよ、昼休みの直後なら遅刻するはずないでしょう」

 先生が決まり文句を言いながら私と他数人を一瞥した。なら予鈴を鳴らせばいいと誰かが呟き、それがこの学校の特色だと先生が言う。あなたがこの学校を選んだんでしょ、と。ここまでがセットだ。

「この話はここまでね、授業始めますよ」

 パタン、と先生が出席簿を閉じると、自然と静かになっていく。

 女子の体育の内容はバドミントンだ。今日の授業では前回に引き続きダブルスをやるらしい。自由に二人一組を組んでよいという先生の言葉に、皆が喜んでいた。私の場合、出席番号順だったとしても隣は美怜になるので大差ないけれど。

 皆で体育館に三つのコートを準備しながら、優衣を誘おうかな、と考えてふと気づく。前回、私のクラスは誰も余らずに二人組を組むことができた。でも、その後、波音が転校してきたのだ。今日は誰かが余ってしまう。

 そして、この授業は隣のクラスの女子と合同だ。つまり、余ったらほとんど話したこともない隣のクラスの人と組むことになる。

 でも、私にとって大事なのはそこじゃない。優衣、菜月、美怜、私、そして波音。この中で自分が知らない人と組むことになるよりも、自分以外でペアが完成するのが嫌だった。

 優衣は波音と組みたがるような気がする。

 そして誘われたら波音は断らない。ならば。

「じゃあ、ペアを組んで座ってください。余ったらクラスまたいでもいいからね」

 先生の声が聞こえてすぐ、私は波音に声をかけた。

「波音、一緒にペア組まない?」

「ありがとう。あ、私バドミントン苦手だけど…いい?」

 波音が遠慮がちに言う。あんまり聞いてなかったけど、どうやら今日の授業はダブルスのリーグ戦で、最下位はバービージャンプ十回らしい。こういう謎の罰ゲームは好きじゃないけど、別に構わない。

「全然。私もあんま得意じゃないし」

 にこっと笑ってみる。波音がお互い頑張ろうね、と言ってくれて、二人でペアになって座る。

 一安心して周りを見回すと、どうやら優衣は美怜と組んだみたいで、高松さんが隣のクラスの子に話しかけていた。

 先生がホワイトボードにリーグ表を書いて、好きな所に名前を入れるように言う。

「たまに間違える人がいるので、ちゃんと自分が書いたところの試合のコートと順番、忘れないでくださいね。あ、名前は別にチーム名とかでもいいですよ、自分たちだってわかるなら」

 皆がホワイトボードの前に集まって、どこがいいだの、どこが強いだのと話し始める。一番最初に名前を書いたのはクラスで一番運動が得意な絵里香えりか堀川ほりかわさんのペア。絵里香曰くバドミントンは細かい動きが多くて得意じゃないらしいが、そう言って何でもできることをもうクラスの人なら誰でも知っている。今日もすでに昼から男子とバスケットボールでもやっていたのか、体育着が若干汗ばんでいた。その点、堀川さんは対照的だけど、女子体育の授業で無双する絵里香についていける実力者である。

「鈴ちゃん、書くのお願いしていい?私あんまよくわかんないから」

 波音が言った。と、言われても正直私もどこでもいい。確かに絵里香ペアと試合したら完封されるのは目に見えてるけど、最下位にならなければいいのだ。その後一勝できればいい。

 だんだん埋まってきたリーグ表で、菜月のペアの隣が空いているのを見つけて名前を書こうとペンを取る。

 左右の名前を見て、漢字とかひらがなとかアルファベットとか、色々書いてあって少し迷った。ちなみに隣には「スギマエペア」と書いてある。前橋まえばし菜月の「前」と、杉山すぎやま芽生めいの「杉」を組み合わせたのだ。

 小出・篠原、とそのまま書くのは面白くない気がしたので、菜月たちのマネをしようかと思ったとき、ある妙案が思いついた。

 若干抵抗はあったけれど、思いついたからには書かない手はない。

「何書いてんの、って、『Wパイン』?あ、二人のこと?いいじゃん」

 優衣が笑う視線の先には、私が書いた文字があった。

 優衣の声を聞きつけて菜月と美怜が見に来る。高松さんは微妙な顔をしていた。

 自分たちの最初の試合が真ん中のコートで二番目なことを確認して、波音の元へ戻る。事の顛末を伝えると、波音も笑っていた。

 試合が始まるまで体育館のステージの上で待つことにして、波音と並んで座った。波音が思い出したように口を開く。

「そういえば鈴ちゃん、昼休みの最後、どこ行ってたの?体育館行こうとしたらいなかったから」

「ちょっとお手洗い行ってただけ。戻ってきたら四人ともいないんだもん。びっくりした」

 いつもなら優衣は高松さんが電気を消すタイミングを過ぎてもぎりぎりまで教室に居座る。今日だけ早かったのが不思議だった。

「優衣ちゃんたち、私のこと更衣室とかまで案内してくれたの。最短ルートって教えてくれて。更衣室のロッカー、入口左の所使うと遅刻しづらいんだって」

 語る波音が楽し気で、少しもやもやする。どうして、その話の中に私は居ないのだろう。

「鈴ー!空いたよ」

 絵里香の声が飛んできた。まだ他の二つのコートは試合中だ。やっぱり強い。初戦で当たらなくてよかった。

「行こ、波音」

 ステージから飛び降りる。波音は一回ステージの端に座ってから、ゆっくり降りた。

 私たちの初戦の相手は菜月と芽生のスギマエペアだ。私がサーブを打って試合が始まる。お互いにそこまで上手くないのはわかっているので、シャトルが放物線を描きながらネットを行ったり来たりする。

 何回目かの行き来の後、菜月が打ったシャトルが私と波音の間に飛んできた。ラケットを持った手を伸ばす。打とうとしたとき、波音が隣にいることに気付いた。前にいたから気付けなかったけれど、波音もこのシャトルを取ろうとしていたのだ。

 今更避けられなくて、そのままラケットを振る。波音も同じように振った。二人分のラケットで半分くらいの速さのシャトルが飛び出す。

「ごめん!」

 多分ネットまで届かず落ちるだろうと思い、振り返って波音に言う。でも波音は私の向こう側のシャトルを見ていた。

「入った!入ったよ鈴ちゃん」

 波音に言われて振り返ると、確かにネットの向こう側らしき場所にシャトルが落ちていて、拾いに行こうとした菜月が一歩手前に出ていた。

「さすがWパイン!息ぴったりだね」

 いつの間に試合が終わっていたのか、審判の位置に優衣が立っていて、私達に向かって笑いかけた。

 照れくさくて、今何点?と聞くとわからないと言われた。

「これで両方マッチポイントだと思う」

 芽生に言われて試合に集中する。これに勝てば、Wパインが勝ち進める。

 芽生から私の方向にシャトルが飛んできた。一歩前に出て、ラケットを当てる。少しだけ力を入れて跳ね返した。シャトルが菜月の足元に落ちる。

「Wパインの勝ち!」

 優衣の声が響く。私は波音の顔を見て笑った。




「……以上が、学級委員からの連絡です」

 高松さんがホームルームをそのまま締めて、一日が終わる。来週の金曜日はチャイムが鳴る「アリチャイムデー」で、五時間目に修学旅行の班決めもするという盛沢山な日らしい。帰るために荷物をまとめていると、美怜の楽し気な声が聞こえてきた。

「ねえ、今日カフェいかない?新作出たんだって!」

 見ると美怜のスマホを優衣と菜月が眺めている。

「えー!優衣これ飲みたい」

「結構いろんなフルーツあるんだねー」

 私も一緒に見るために、片付けようと思っていた教科書を机の上に残して立ち上がる。

「ねえ、何見てるのー?」

 もちろんカフェの新作メニューを眺めていることは知っている。

「前一緒に行ったカフェの新作出たんだって」

 美怜が私にも画面を見せてくる。夏の季節限定ということで、色とりどりのフルーツのスムージーや炭酸が並んでいた。

「一緒に行こ?優衣これが良いんだけど、」

 優衣がシャインマスカットのスムージーを指さす。いいね、と返しつつ目で目的のものを探す。黄色は目立つから写真が付いていれば色で見つけられるはず。ないということは、この細かい文字の中にあるのだろうか、パイン味のスムージーは。

「パインも誘う?」

 菜月の声に、見ていたスマホ画面から顔を上げる。優衣を見る。優衣は私の顔を見ていた。どうする?とでも言うように。

 優衣なら自分から誘いに行くと思っていたのに。思ったよりWパインは強いらしい。

「もちろん!誘ってくるね」

「ありがとー」

 優衣が笑う。私は三人から離れて、波音の席の方に向かった。背中で三人の楽しそうな話し声を聞く。

 波音は帰り支度を整えて、まさに帰ろうとしているところだった。ゆっくり歩いたけど、帰る前に間に合った。

「波音、今日の放課後空いてる?」

「え、うん。どうして?」

 こんなに話していて、気付いてないわけないのに。

「私達四人でカフェ行くんだけど、波音も来る?」

 学校近くのおすすめのとこ、と付け加えて三人の方を示して、もう一度波音を見る。迷ってるみたいだった。

「パイン!パインスムージーあるって!」

 菜月の声に波音が反応した。そういえば、波音はパイナップルが好きだと言っていたっけ。

「本当?行きたい!」

「やった!」

 波音がいつもより明るい声で言ったから、私も明るく喜んだ。


 そのまま五人で学校を出てカフェに向かった。波音はまだあまり学校周りを歩いたことが無いみたいで、終始いろんなところを見ていた。

 店のカウンターでそれぞれ注文して、ドリンクを片手に席を探す。放課後の時間帯は若干込んでいて、小さめのテーブル一つしか空いていなかった。

「前もここ座ったね」

 私が言うと、そうだっけ?と美怜が首をかしげる。

 忘れるわけがない。私が初めて学校帰りに寄り道したのがこのカフェだったから。一年前、優衣たちに誘われて、戸惑いつつもこのカフェに来て、おすすめされるままにパインスムージーを飲んだ。そのときも混んでてこの席しか空いてなくて、四人で詰めて座ったのだ。

 ただ、この席は五人座れる広さじゃない。おまけに今日は美術の作品が返ってきたせいで荷物も若干多い。

「隣の席空きそう」

 菜月が言うので見ると、確かに隣のサラリーマンがパソコンを片づけ始めている。少し待って立ち去った瞬間を見計らって席を取った。そのまま菜月と座る。もともと空いていた机には、優衣と美怜と波音が座った。

「え、これ思ってた味と違う。思ったよりキウイ感が強い」

 何入ってるんだろう、と優衣が緑色のスムージーをまじまじと眺める。確かシャインマスカットフレーバーだったはずだ。

「一口ちょうだい……ほんとだキウイの味する」

「美怜のも飲んでいい?」

「いいよ」

 優衣と美怜のドリンク交換の隣で、波音は一人パインスムージーをまじまじと見つめていた。一口貰いに行こうかと思ったけど、そういえば自分の手元には同じものがあるし、まだ飲んでない波音に言うのもなんか違う気がいた。

「パイン、飲まないの?」

 菜月が訊く。波音がはっと顔を上げて一口飲んだ。口角が上がって、美味しいと呟く。その声がすごく本気だったので、隣の優衣が興味深々だった。

「パインのも飲んでいい?」

 波音がスムージーを持つ手を少し自分に近づけた。はっと気づいた顔になって、目が泳ぐ。

 明らかに拒絶だった。せっかく優衣に飲んでいいか聞かれているのに、波音は断ろうとしている。そして断り方に迷っている。ここで私が私のスムージーを差し出したら、優衣と波音は喜ぶだろうか。

 私がそんなことを考えている間に、波音は決断してしまった。

「いいよ、はい」

 優衣はありがとう、と言って飲む。

「えー、こんな味かあ…パインって本当にパイン好きなんだね」

 その後、優衣が飲む?と自分のマスカットスムージーを波音に見せたけれど、波音は笑いながら断っていた。

 私はマスカットスムージー興味があったけど、一口貰いに行くには優衣の席は遠すぎたので諦めた。菜月はパインスムージーに興味が沸いたみたいで、私のスムージーを一口あげる。菜月が飲んでいたレモンスカッシュはちょっとだけ苦い大人の味だった。

「パイン、ちょっとそれ取ってもらっていい?」

 私が呼ばれたわけじゃない。優衣の声に波音が隣の荷物の中から一つの袋を優衣に渡す。

「やっぱ上手。何で隠したの」

 今度は本当に優衣が私の方に向かって言った。何のことだかわからなくて振り返って絶句した。優衣の手にあったのは、私の美術の作品だった。

「あ、ちょっと優衣、返して」

「えー?何で?すごい上手なのに」

 ほら、と優衣が美怜と菜月に見せる。二人とも口々に上手いと言ってくれた。波音も。嬉しかった。

 ちょっと大げさに嫌がりつつ、パッと優衣の手から作品を抜き取る。

「これはダメ」

 えー、と優衣が笑いながら言う。この作品は美術の授業で『昔の自分の肖像画』というお題で描いたもので、自分の小学校の頃の写真を見ながら描いた。絵は嫌いじゃなかったし、かなり本気で描いたから自信作だ。でも、写実的に描きすぎて逆に恥ずかしかった。

「本物の写真みたいで上手なのに」

「皆みたいに可愛く描けなかったんだもん」

 完成した作品を見てみたら、皆思ったよりもデフォルメしていてアニメっぽかった。美術の先生には個性がよく出ていて素敵と褒められたけど、ちょっと辛かった。

「そうかな?可愛いと思うけど」

 いつの間にか絵を持つ手が緩んでいた隙に、波音が横から除き込んでいた。自分に引き寄せて隠す。

「本当にこういう子だったんだろうなって目に浮かぶ。鈴ちゃん可愛いよ」

 波音が真剣に言ってきて少し驚いた。

「波音まで…あ、じゃあ波音の昔の写真も見せてよ」

「え?私の?」

 この授業の時、描くために全員が写真を用意したので、昔の写真を友達同士で見せ合ったりしていたのだ。すっぴんの優衣とか、ツインテールの美怜とか、眼鏡をかけた菜月とか、いつも見れない一面がちょっとだけ見れた。

 波音は戸惑っていた。絵を抱えたまま、見せて、と波音の方を向く。

 改めて波音の顔を見つめて、すごく綺麗な顔をしているな、と思った。二重の瞳、目立たないけど整った形の鼻と唇、手入れされて白くて綺麗な肌。これでノーメイクだ。

「私、あんまり家に写真とかないんだよね。その、親が、あんまり撮って無かったみたいで。だから無いかも」

 ごめん、と波音が笑った。この顔なら、子供の頃の写真だって可愛いに決まってるのに。

「そう言って、見せたくないだけでしょ?可愛いに決まってるんだから、今度持ってきてよ」

「いや、無いから」

「そう言わずにさ」

「だから無いんだってば!」

 一瞬、波音が怒ったように感じた。はっと気づいたように波音が口元に手を添える。

「ごめんね、皆がちょっとうらやましくて。探してみる。もしかしたらあるかも」

 いつもの綺麗な笑顔に戻った波音がそう言った。

 これ以上は追求もできなくて、約束だよ、とだけ波音に言う。波音は笑って応えた。

「ねえ、皆の絵も見ていい?」

 波音が優衣たちに聞く。美怜と菜月は顔を見合わせて、ちょっと見せられないかも、と返したけれど、優衣だけは明るくOKした。鞄のそばに無造作に置いてある白い袋から絵を取り出す。お世辞にも上手いとは言えないけど、可愛らしい絵が出てきた。コスメのおもちゃで遊んでいる瞬間だ。

「このころからこのリップ使ってるの?」

「ううん。この辺はおもちゃで、これはママのリップ。まだ今みたいにうまく使えてないから」

 絵の中の優衣は小学校一年生らしい。四人の話を聞きながら、私はもう一度自分の絵を見つめた。優衣と同じ小学校一年生の頃の絵。これは公園で年賀状用に撮った写真だけど、ポーズは当時好きだった魔法少女アニメのポーズだ。この頃の私はまだコスメなんて知らなかった。

 波音は写真が残っていることを羨ましいと言った。でも私は、この写真が残ってしまっているからこそ、優衣との違いを強く感じてしまっている。

 小学一年生くらいから、コスメが好きだったらよかったのに。

 優衣みたいに。

 でも写真の中の自分の行動は変わらないし、自分の過去は写真と違って加工すらできない。

 絵の中の自分の顔にそっと触れて、写真よりも唇の色を鮮やかにしたことを思い出す。写真に近づけることを意識しすぎて、そこまで変わらなかったけど。

「こういうところって京都にもあるのかな」

 いつの間にか絵の話は終わっていて、美怜が唐突にそんなことを言いだした。私も絵を片づけながら話に耳を傾ける。

「何で京都?」

「だってさ、修学旅行、自由行動の時間あるから、そんな時までお寺とか回ってもなって」

 美怜がスマホで調べ始めた。

「せっかくだから京都でしか飲めないフレーバーとか飲みたくない?」

「抹茶とか?抹茶スムージー!」

「美味しいの、それ」

 美怜のスマホを優衣が覗き込み、菜月が身を乗り出して二人の話に参入する。一拍遅れて私も身を乗り出す。

 でも私は、どこに行くかよりも、誰と行くかの方が気になっていた。

「あ、これ良い!京ブドウだって」

「ネーミングセンスが海ブドウなんだけど」

 優衣の声に菜月が反応する。反応して私も笑う。京都ってブドウ取れるんだ。

「菜月ちゃん、場所替わろうか?」

 波音が言う。ありがと、と言って菜月が波音の方に動いた。

「あ、全然座れるから大丈夫」

 波音が立ち上がろうとして菜月が止めた。戸惑いつつも波音が座る。私の方を一瞬見る。笑っている。

 これで席は、四人と私一人になってしまった。

 話に置いて行かれないように笑い声を一段階大きくする。

 今、この修学旅行の計画の中に、私は入っているのだろうか。この四人で完結していないだろうか。

 笑い声を一段階大きくする。

 修学旅行の班どうする?って聞きたかった。でもこの話に水を差してしまう。それに、もし想定外の答えが返ってきたら、私は耐えられない。

 笑い声を一段階大きくする。

 きっともうみんなの中では自由行動の班が同じだなんて当たり前で、言うまでもないような事なのだと思う。そしてその中に、当たり前に私は入っている。そう信じたい。

 笑い声を一段階大きくする。

「パイン、京風パインレモネードだって」

 優衣が言った。この「パイン」は私だろうか、波音だろうか、それともWパインだろうか。

 笑い声を一段階大きくする。

 波音が居なければ、迷うことなんてなかったのに。

「見て、この店、二人で撮れるパインの顔出しパネルある」

「これはWパインで撮らないとだね!」

 パインが一人だったら、隣に誰が入るだろう。

 笑い声を一段階大きくする。

 波音は静かに微笑んでいる。

 私は笑い声を一段階大きくする。


 隣の席から舌打ちが聞こえて、私たちはうるさくしすぎたことに気付いた。少し周りを見ると、視線が集中している。

 やばっと小さく優衣が呟き、私たちは少しずつ残っていたそれぞれのドリンクを飲み干して、荷物を手に取る。優衣は机の上の自分の絵をばっと掴んで、皆でそそくさと店を出た。




 結局、修学旅行の班の話は一回もできないまま一週間が過ぎて、金曜日になった。いつも通り学校に行くと、階段を登っている途中でチャイムが鳴る。驚いて腕時計を確認する。まだホームルームが始まるまで五分あった。今日は電車も遅延していなかったから、遅刻しているはずないのだ。

 一応、少し急いで教室へと歩く。教室内はまだ人は揃っていなくて、休み時間の空気が流れていてほっとした。

「おはよう」

 高松さんに声をかけられて返す。私の後ろの波音の席の隣に立って、二人で話していた。気になったので高松さんに聞いてみることにする。

「さっきチャイム鳴った?まだホームルーム始まってないよね?」

「あ、さっきのは予鈴。そろそろ本鈴なるから座ろう」

 言われるまで気付かなかった。そういえばチャイムには予鈴と本鈴があった。中学校まで当たり前だったのに、慣れって改めて恐ろしい。

 チャイムが鳴り始めると、どんどん教室に人が入ってきた。いつもチャイムが鳴らないから、五十九秒以内ならセーフ、みたいに考えてギリギリを攻めている人たちが多いのだ。

 教卓に立った先生も笑いながらその光景を眺めている。

「本当はチャイム鳴り始めたら遅刻だからねー、早く座ってー」

 、と言うということは、今日は鳴り終わるまでセーフなのだろう。それに気づいた駆け込み勢がほっと胸をなでおろす。

 チャイムの余韻が消える瞬間、駆け込んできた最後の一人に教室が若干ざわついた。堀川さんが、セミロングの髪をバッサリ切ってショートになっていたのだ。いつもつけている大きなヘッドホンを外しながら先生の方を見る。なぜか絵里香が立ち上がって堀川さんに駆け寄った。

「じゃあ堀川さんまでセーフ…ほら、二人とも何してるの。早く座って」

 二人が席に戻る間に、先生が今日は「アリチャイムデー」だと改めて伝える。途中、「ノーチャイムデー」と二回言いかけた。このネーミングは、やっぱりどうにかした方が良いんじゃないだろうか。

 ホームルームが終わってから堂々と優衣が登校した。教室を出ようとした先生に、元気に遅延です、と答えている。

「遅延証明書は?」

「五分なんで出てないです」

 多分嘘だ。私が来た時点では全く遅延の気配も無かった。でも優衣は得意の話術で乗り切ってしまう。

「いや、この時間の遅延やめてほしいんだけど…て、あ!」

 優衣の視線の先には堀川さんの姿があった。

「つかさ、髪切ったの?凄い似合ってる」

 つかさ、とは堀川つかさ、堀川さんのことだ。

 やっぱボーイッシュなの似合うね、という優衣は嘘をついてない。こういうところが本当に気持ち良いと思う。

「ありがとう」

 堀川さんが少し照れた。


 運命の五時間目がやってきた。今日何度目かのチャイムが鳴る。

「全員居…あれ?堀川さんと篠原さんは?」

 先生の言葉に後ろを見ると波音が居ない。昼休みまではいたはずだったのに、どこに行ったのだろう。

「つかさは多分保健室に居ると思います」

 絵里香が声を上げた。

「わかりました…今日のホームルームは、修学旅行についてのことを話すと思うので、後は学級委員にお願いしていいですか?先生は保健室見てきます」

 先生が高松さんと山本くんにホームルームを任せて教室を出ていく。

「今日決める内容は先週話した通り、修学旅行の班を決めます。男女比は自由ですが、一班五人か六人くらいになるようにしてください」

 高松さんの声に、全員が一斉に動き出す。私も立ち上がって、優衣の近くに居られるように動きつつ、女子の輪に集まる。波音はまだ教室に居ない。

 男女比自由と言われて、男女の班を組む人はいなかった。女子がなんとなく集まって分かれ始めた。

「優衣、一緒に組も」

「もちろん」

 私が勇気を出していった言葉を、優衣は当たり前のこととして受け取ってくれた。一気に肩の力が抜ける。

 周りには菜月と美怜も居て、修学旅行が一気に楽しみになった。

「ねえ、私達も混ぜて」

 芽生が声をかけてくる。見ると、高松さんと二人で立っていた。

「いいよー!もちろん!」

 優衣が快くOKする。これで六人。波音を入れなければ。

「芽生の恋バナ楽しみにしてるよ~!」

 菜月がニヤニヤしながら言う。芽生が顔を赤らめつつ、まんざらでもなさそうに言い返す。

「じゃあ、とっておきの話、用意しとく。あ、皆の話も聞きたいからね」

 芽生が皆を見回した。少しだけそわそわする。皆は誰が好き、とかあるのだろうか。私はあまり男子と話さないけれど、このクラスだと一番カッコいいのは坂下さかしたセナだと思っている。運動も得意だけどすらっとしてて、一般的なクラスのイケメンって感じだ。

「ねえ、つかさは私たちの班でいい?波音は?そこ?でも人数合わなくなっちゃう気がして」

 絵里香が女子全員に聞こえる声で問いかけた。絵里香の班はまだ三人で、堀川さんが入ったとしても最低であと一人足りない。

 対して、私たちの班はすでに六人。

「波音転校してきたばっかだし、話したことある人たちの方が良いでしょ?だから誰か一人か二人こっち来てよ」

 六人でお互いに顔を見合わせる。絵里香は正論だった。でも、私は勿論動く気はない。なんとなく、高松さんの方を見る。こういうときに動いてくれるのは高松さんだ。しかし今回に限って、動く気配が全く無かった。

 私の視線を感じたのか、高松さんが一歩芽生の方に近づく。なんだか珍しかった。

 このまま誰も手を上げなかったら、私たちはこの六人班で決まると信じていた。同じ班の人を無理やり相手の班に移動させることはできない。

 必然的に、波音が居ない私たちの班が完成する。

「誰か居ないの?えー、真凛、七人班と四人班っていいんだっけ」

 絵里香が訊く。高松さんは五人か六人がルールだから、と呟いた。でも、私がそっちの班行くよとは言わない。

 どうすることもできずに微妙な空気が流れていたとき、教室のドアが開いた。

「パイン。どこ行ってたの」

 優衣の問いかけに、波音が軽く笑う。

「ちょっとね…、今これって班決め中?」

 波音が私達を見回しながら言った。絵里香がすかさず口を開く。

「五人班と六人班に分けないといけないんだけど、今四人と七人だから、誰か動いてくれるの待ってる」

 波音を私たちの班にするために、とかそういう話は無かったけど、顔ぶれを見て、波音は状況を理解したらしかった。

「私、全然どっちの班でもいいよ。というか、どっちでも楽しそうだから嬉しい」

 それで解決する?と絵里香に向かって訊き返す。絵里香が少し戸惑ったように、高松さんの方を見る。高松さんは気づいていないみたいだった。

「波音がそれでいいなら、良いと思うけど…」

 絵里香の語尾が濁る。波音は笑ってよろしく、と言って絵里香たちのチームに近づいていった。

「これで決まりでいい?じゃあ、班長決めてこの紙にメンバーの名前書いて。あ、班長って言っても大した仕事もないんだけどね」

 高松さんの声に、菜月たちとどうしようかと顔を見合わせる。

「真凛、班長やるの?」

 優衣が訊く。

「ほかにやりたい人いなければやるけど…」

 高松さんが私たちの顔を見回したけど、高松さんよりそういうことやりたい人はいないだろうと思った。班長やるね、と高松さんが言って話は終わる。

 高松さんが班員の欄に私たちの名前を書いていくのを横から覗き込む。

 高松真凛。

 杉山芽生。

 今森優衣。

 如月きさらぎ美怜。

 前橋菜月。

 小出鈴。

 これで六人。もちろんそこに、篠原波音の名前はない。一気に肩の力が抜けて、喜びを感じる。この喜びの黒さに気付かないふりをした。

 優衣の楽しそうな笑い声に同調しながら輪の中に戻る。久しぶりに波音が居ない。今、優衣が「パイン」と言ってくれたなら、それは私だけのものだ。

 チャイムが鳴る。それぞれが雑多に広がっている状況は、まるで休み時間なので忘れていたが、今は授業中だった。

「全員班決まった?次の時間は班別のコース決めとかやるから、あ、説明は六時間目の最初にプリンと配ります」

 山本くんが大きな声で言って、聞いてるんだか聞いてないんだかわからない、私を含めたクラスメイトは休み時間を続行する。

「自由行動の時間ってどのくらいだっけ」

「二日目丸一日。確か八時から十六時くらい」

 菜月の問いに高松さんが答える。美怜が目を輝かせて言った。

「じゃあ結構回れそうだね」

「前言ってたカフェ?」

「そう、あの後も調べたんだけど、結構色々あるみたいで。せっかくなら抹茶のパフェとかも本格的なの食べたいなって」

 美怜に優衣が賛成する。私も優衣たちと食べる抹茶パフェを想像して、すごく楽しみになった。抹茶にパイナップルは合うだろうか。

「でもルールで一か所以上は寺社仏閣とか行かないといけないのと、あと昼ご飯の場所も決めないとだから」

 高松さんの声に優衣がニヤッと笑う。

「昼ご飯パフェにしちゃえばいいんじゃん!あと、実際どこのお寺言ったとかって先生たちわかんないでしょ」

「でも半券とか必要だし…」

「真面目だなー、真凛。半券がないところ行ったことにすればいいじゃん」

 菜月も優衣に同調する。

「でも、ほらせっかくの京都なんだから、北野天満宮とか行かないと勿体なくない?」

「学問はもう十分だって」

「なら清水寺とか」

 高松さんはお寺を譲りたくないらしい。私はカフェ派だけど、せっかくの京都なら一つくらいは巡っておきたかった。

「優衣、清水寺行こうよ!恋愛の神様が何とかってところでしょ、確か」

 恋愛、というキーワードに芽生が反応した。それを見た優衣が面白そうに笑う。

「じゃあ、セナの班と時間合わせて一緒に行こっか!」

「え、あ、それは、う~ん」

 芽生が言葉に詰まる。美怜と菜月もニヤニヤと見つめている。何か私の知らないことがあるみたいだった。芽生もセナが好きなのだろうか。

 班行動だよ、と高松さんが言っても気にしない。

「せっかくだし今言っちゃおーよ!ほら、行ってこいっ!」

 優衣が芽生の背中を小突く。よろめいたような芽生が男子の輪の方に行こうとして躊躇う。

「やっぱ、後で言っとくから!」

「今日も一緒に帰るってことですか~?芽生さん」

 菜月がやっぱりニヤニヤする。芽生は開き直って頷いた。

 セナと芽生は付き合っている。ここまで見せられれば流石の私にもそのくらい感じ取れた。そして、皆はそれを当たり前に知っている。

 高松さんを見ると、はあ、とため息をつきながら手元のプリントを眺めている。

「本当に一緒に行動するなら、コースを先生に申告するときに五分ぐらいずらせばバレにくいかも」

 その言葉に、優衣と美怜が細かい計画を話し始める。私は高松さんがそんなことを言うのが意外だった。そういえば、高松さんと芽生は仲が良い。ということは、高松さんもセナと芽生の関係を知っていたのだろう。

 私だけ、知らなかったのか。

 目が自然と波音を探す。特に誰と話している訳でもなく、一人で席に座っていた。

 ガラッと教室の扉が開いて、先生が入ってきた。すぐにチャイムが鳴る。

「出欠を確認するから、一回席について」

 この時間も引き続き班別に修学旅行の話をするのだから、正直必要ない気がするけど、授業に居るか居ないかは大切らしい。堀川さんの席はまだ空席だったけど、荷物は残っているから帰ったわけではない。

 この時間は、絵里香も居なかった。

 先生は事務的にその確認をしただけでそこには触れず、話し合いを続けてください、といういつもの通る声で言った。

 何事もなかったかのように六人で教室の後ろに集まる。

「ねえ、芽生の告白の話、詳しく知りたいんだけど」

「それは夜で!教室で言うのちょっと恥ずかしいし…」

 もう完全に恋バナモードの優衣たちは、班別行動ルートを決める空気ではない。

「そういう優衣は誰か好きな人居ないの?」

 芽生が反撃する。優衣がちょっとだけ頬を赤らめた。

「そういえば、優衣が好きな人知らないかも」

「せっかくだから教えてよ~」

 美怜と菜月も口々に言う。優衣は意を決したように、皆を集めた。珍しい小さな声で話す。私も聞き逃さないように近づく。

「ぜったい他の人に言わないでよ…………私が好きなのは、勇気ゆうき

 きゃあ、と歓声が上がる。優衣が静かに、と言ってもこういう熱気が収まらないのは優衣が一番知ってるだろう。

「やっぱり!よくサッカー部眺めてるもんね」

「え、それは違うってば」

「もう、隠さなくていいのに」

 優衣が話題を変えようと私の方を見た。

「パインは?好きな人誰?」

 一瞬、自分が呼ばれたことに気付かなかった。気付いて、久しぶりの感情を感じる。ふわふわとした気持ち。私がここに居ていいと、優衣たちの輪の中に居ていいと、思わせてくる。

 そんな魔法の言葉。

 波音じゃなくて、私のことを呼んだ。確実に。

―——ねえ、これからパインって呼んでいい?

 初めて話した日の肉じゃがの味を思い出す。

「どうしたの?」

 優衣の声に我に返る。そうだ、今は目の前の話に集中しないと。えっと、好きな人。このクラスなら、セナ。あ、でも、駄目だ。セナは芽生の彼氏だから、多分。

 あれ?セナって本当に芽生の彼氏なの?

 じゃあ、他の男子なら…セナと同じサッカー部の勇気。これも駄目。さっき優衣が言っていた。

 あれ?私は何に気を遣っている?

 好きな人を一人言えばいい、普通の女子高生だもん、好きな人は本当に居る。こういうときに何も言わない方が面白くないことだって知っている。

 面白くない?そんな事気にしてたっけ?

「恥ずかしがらないで教えてよ」

 これは菜月の声。

「あ、もしかしてこの学校じゃないとか?」

 これは美怜の声。納得するみんなの声。

「そういうこと?それなら早く言ってよ、鈴」

 これは優衣の声。そしてこの言葉の行き先は…

 あれ?「鈴」?

 はっと顔を上げる。自分でも自分が動揺しているのがわかる。優衣が不思議そうに見てくる。何か言わなくてはいけない。

「あ、そうそう、そんな感じ。中学生の時にすごい好きな男子が居て…」

 こういう時の嘘って、驚くほどすらすら出てくる。

「じゃあこのクラスで強いて言うなら?」

「うーん、誰とも違うって言うか」

「えー、つまんないの」

 優衣に悪気はないのは知ってる。でもかなり刺さった。優衣は気づいたように、もう一度私の方を向く。

「でもクラスの誰も及ばないって、その男子の話普通に聞きたいんだけど」

「でも知らない人の話だよ?それなら菜月とか美怜の気になってる人も知りたいんだけど」

 教えてよ、と興味もない話を振る。話題が移った。もう大丈夫。

 とりあえず同調して笑ったりしてみたが、この時間は全く頭に話が入ってこなかった。ずっと恋愛の話をしていた、と思う。よくこんなに盛り上がれるものだ。

 そんな私たちのグループの隣で、波音が別の子と話している姿だけが、何故か記憶に残っている。




 週が明けて月曜日の昼休み、どうしても優衣たちの居る教室に居る気になれなくて、お弁当を持って教室を出た。階段を登って屋上に向かう。

 屋上はたまに行く。屋根が無いからあまり人が居ないのだ。特に今日みたいな梅雨っぽい日は。

 入口のドアに手をかけ、ぎぎっと音をたてて開ける。

「鈴ちゃん…?」

 開けた先に、なぜか波音が立っていた。

「波音、何でここに?」

 そりゃ生徒の一人なのだから、居てもおかしくないけれど、聞いてしまった。

「ちょっと用事…ううん、お昼ごはん食べようと思って」

 波音が私のお弁当を見て、一緒に食べる?と誘ってきた。軽くうなずいて、一緒に屋上の壁にもたれて座る。

 波音がどう思っているのか分からないけど、私は一人で勝手に気まずくなって、黙々と弁当の蓋を開ける。今日は肉じゃがじゃなかった。

 波音の持っているパンがまた見た事ないパッケージだったので、聞いてみる。

「パイン蒸しパン。食べる?」

「ううん、遠慮しとく」

 聞かなきゃよかった。丁度波音の手で隠れていた部分にパインの文字が合って気付けなかった。

 また話題がなくなって、弁当に視線を戻す。箸を取り出して食べ始めた。

 本当は謝りたい。でもその勇気も、状況も、私には無かった。

「その箸…」

 波音がほとんど聞こえない小声で言った言葉が、静かな屋上で私の耳に届いた。

「これのこと?昔好きだったアニメの。ずっと同じ箸使ってるからさ」

 例の、美術の絵の中で小学一年生の私が取っていた魔法少女アニメのキャラの箸だ。

「思ったよりちゃんとしてて買いなおすほど劣化しないんだよね」

「確かこのキャラって、前の美術の絵の中の鈴ちゃんが遊んでたキャラだよね」

 驚いて波音を見る。私の絵を覚えてたのも、このアニメのキャラが分かるのも驚きだった。

「波音も好きだったの?」

「好きだったって言うか…うん、すごいハマってたな。あの頃」

 波音が笑う。高校でこのアニメの話になったのは初めてだ。

 いや、違う。この箸に引っかかったのは波音だけじゃない。優衣も一回そんなことを言ってきた。でもあの時は私が嘘をついたのだ。「お母さんが間違えた」と。その後はずっと、優衣たちの前で箸のイラスト部分を隠して持って使っていた。

 でも、波音の前だとそんなことを言う気にはなれなかった。

「ごめん」

 自分の口からそんな言葉が出てきたことに驚くと同時に、今しかないと思った。

「突然どうしたの、鈴ちゃん」

「班決めのとき、班、移動させちゃってごめん。いなかった波音のこと、考えられなくて…」

「鈴ちゃんが謝ることじゃないよ、私はこの班でも十分楽しいし、何なら新しく話せる人が増えて嬉しい」

 波音はきっと気を遣っている。ううん、違う。私はまだ、私まだ、胸を張って波音と友達でいたいのだ。Wパインに関わらず。

「でも、私は波音と一緒の班になりたかった。波音がどう思ってるかはわからないけど、私にとって、波音が一番の、友達なのかなって、思ったから」

 どんどん声が小さくなる。告白みたいになってしまった。ちょっと恥ずかしい。波音を見上げると、いつもの綺麗な笑顔で笑って私のことを見ている。

「ありがとう、鈴ちゃん」

 嬉しくて波音に抱き着きそうになって、自分が今絶賛お弁当を食べていることに気付いて諦めた。

「鈴ちゃん、恋バナしよう」

「え?」

「班ごとに話し合ってるとき、鈴ちゃんの班ずっと恋バナしてたでしょ?私聞けてないから知りたいんだ」

 私はこれは噂なんだけど、と前置きを置いて話し始めた。セナが芽生の彼氏なこと。優衣が勇気を好きなこと。二人だけで、屋上だけど、気分は修学旅行のホテルだった。

「鈴ちゃんは好きな人いるの?」

 波音に聞かれて、一瞬躊躇う。優衣達の前では言ってない。

「絶対誰にも言わないでよ?」

「もちろん」

「私はね、このクラスだと一番格好いいのはセナだと思ってる」

 波音が目をぱちくりさせる。

「セナって…坂下くん?芽生ちゃんの彼氏の」

「そう!だから秘密ね」

 恋のライバルだね、と波音はちょっと意地悪そうに笑った。

「そういう波音は好きな人居ないの?」

 聞いてから気付く。まだ転校してきて一か月くらいだ。居ない可能性の方が高い。でも波音は私に、絶対言わないでよ、と前置きをした。頷く。友達の好きな人って興味が沸くものなのだと、今気づいた。

「私ね、女の子が好きなんだ」

 息するくらい自然に、波音の口からそんな言葉が飛び出す。なんとなく通り過ぎた音を引き戻すように、自分の中で波音の言葉を反芻する。好き、女の子が、好き。どう考えても、この「好き」は、あの「好き」だった。私はさっき、セナが格好いいと言ったのだ。そして波音に聞いたのだ。好きな人は居ないのか、と。

 触れてはいけないところに触れてしまったような罪悪感と好奇心で、何を言うこともできなかった。

「やっぱり変だよね、こういうの。わかってる。私はちょっと変なんだと思う。だから無理して一緒にいなくていいよ」

 いつもの笑顔で綺麗に笑う。この笑顔にずっと感じていた違和感の正体が「諦め」だったのだと初めて気づいた。

「ううん、変じゃない。全然」

 反射的に手を掴んでいた。掴んでおかないと、どこかへ消えてしまいそうな、そんな感じがしたから。

「私も、変だよ。パインって呼ばれる波音のことが羨ましいし、セナのこともまだ好き。だから、波音と一緒にいることも、全く無理なんてしてない」

 波音は掴まれた手を凝視して固まっている。私もどう言えばいいのかわからない。でも、この手を放したくなかった。

「波音が、その、女の子を好きだってこと、変だって自分で思ってるのかもしれないけど、変じゃないと思うよ。そういう人だっている。私はそんな波音と一緒に居たいから」

 論理が矛盾しているのは自分でもわかってるけれど、言いたいことは言えたつもりだ。しばらくの沈黙の後、波音が口を開いた。

「ありがとう。でも、嫌だと思うな」

 波音が引き抜こうとした手を握りなおす。波音が顔を上げて私を見た。

「もし、その好きな女の子が鈴ちゃんだったらどうする?」

 一瞬、何を言っているのか理解できなかった。冷たい風が頬を撫でて、自分が屋上に居ることを突然思い出す。私の手が固まった瞬間を狙ったかのように波音の手がするりと抜ける。

「ほら、そろそろ行かないと。授業始まるよ」

 チャイムが鳴らないって大変だね、と零す波音はすでにいつもの調子に戻っていた。私だけが屋上に取り残されたように感じて、慌てて片付けを始める。珍しく半分近く残った弁当に蓋をして包みなおし、立ち上がった波音に一拍遅れて顔を上げる。

 そこに立っていたのは、いつも通りの綺麗な笑顔で笑う波音だった。いこ、と差し出された手は取らずに、自分の弁当を持ち直して立ち上がり、二人で屋上を後にした。

 昼休みの後も、二時間、授業を前後の席で受けたけど、私は波音に話しかけることができなかった。古典の時間に回ってきたプリントを後ろに回すときさえ、目を合わせないように最低限の動きで後ろに送った。自分の意思の弱さが嫌になる。

 でも、それだけ、波音の発言は私にとってショックだった。

 一日が終わって、気付いたら波音は帰宅してしまっていた。




 翌朝、起きたら雨が降っていた。そういえばもう梅雨だった。なんとなく足が重くて学校に行く気になれない。でも休むわけにも行かないので、のろのろと着替えて玄関に向かう。

「鈴!お弁当!」

 傘を持ってまさに家を出ようとしたとき、母に声をかけられて始めて自分がお弁当を忘れていることに気付いた。

「ありがとう。行ってきます」

「なんか元気ないわね。どうしたの」

「いや、ちょっと雨が嫌だなって」

「梅雨だから仕方ないでしょう。あ、今日のお弁当、鈴の好きな肉じゃがだから。ちょっと多めに詰めといたわよ」

 肉じゃが。そういえば、波音と初めてお昼ご飯を食べたときも肉じゃがだった。管理栄養士の母が作った、パイナップルの入った肉じゃが。優衣も高松さんも食べなかったけど、波音だけは一口食べて美味しいと言った肉じゃが。

「ねえお母さん、肉じゃが、今日もパイナップル入ってる?」

「え?当たり前じゃない」

 なら、今日は、波音と一緒にお弁当が食べられるかもしれない。自信をもって、波音に話しかけることができるかもしれない。

「行ってきます」

 元気に言って家を出る。

 波音の「好き」を、私はまだ受け止められていない。甘酸っぱい話も、私はきっと得意じゃない。でも、そんな私のことを、波音は嫌がらなかった。「好き」だと言ってくれた。

 私は、友達としてなら間違いなく波音のことが好きだ。

 ランチバックに入った肉じゃがのことを考える。パイナップルの酸味を思い出す。初めは母が何でこの組み合わせにしたのかが理解できなかった。でも、今は当たり前に美味しく食べている。

 登校したら、波音におはようと言おう。

 ちゃんと目を見て会話しよう。

 私はまだ、知らないことが多すぎる。

 でもたった一つ、波音と友達になりたいという思いが、本物だって気づけたから。

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私とパインの話 霧澄藍 @ai_kirisumi

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