フーテン、断捨離をする

 先日断捨離をした。箪笥の肥やしになっていた服は全て捨て、読まずに積み上げていた本も収集センターに押し付けた。スマホの写真も全て消し、書いていた途中で放っておいた詩や小説もゴミ箱に入れた。

 断捨離をするにあたって、特段これと言った理由はなかった。ただモノを捨てるという行為がだんだんと気持ち良くなってきて、気づいたら家のものをほとんど捨てていた。

 そもそもすれっからしのフーテンという体で暮らしているのに、家に大量にものがあるのは本末転倒である。モノを捨てる僕をざまあみろと笑っている僕が、部屋の端に体育座りしていた。


 断捨離をしていく中で写真や服を眺めていると、どうしても感傷的になる。当時の僕が何に感銘を受け、いかにして傷ついたかがありありと浮かび上がってくるせいだ。

 昔の友達と一緒に行ったディズニーランドや、ウキウキで買った服、死んだペットの写真…そういったものを積み重ねた塔の上に立って、僕は遠くまで見渡せるようになった。モノを捨てるということは一緒に思い出も捨てることであり、堅牢だったはずの塔は、今や崩れる間際のジェンガのようになり、グラグラと不安定に傾いでいる。

 しかしその塔は崩れることはなく、透明な何かに支えられながら、次の積み木を今か今かと待っている。思い出せないということは存在しないというわけではなく、形を変えながら今の僕を支え続けてくれているのだ。

 

 生産性のない思い出に耽ることは、世間からすれば女々しい行為になるのだろう。彼らはこぞって「今が大事」だの「これからどうするか」だのグチグチ講釈を垂れてくるが、僕はそうは思わない。人間いつだって辛い時がある。その時寄り添ってくれるのは友人や恋人、家族ではなく、過去だからだ。

 仕事を辞めて、夜の街をぶらついている時、ふと気になる店があった。こじんまりとしたバーで、初老のバーテンダーが一人で切り盛りしていた。そこで一人酒を飲んでいると、隣のO Lらしき若い女の子が凄まじい飲み方をしていた。我を忘れかかっている様子で、僕にも絡んできた。一人で静かに飲みたかったのだが、しょうがないので話を聞いてみた。

 彼女曰く、元彼が忘れられないらしい。僕はそれを聞いて呆れてしまった。忘れられないのならば忘れなければいいではないか。今の彼女があるのは彼氏と別れたからであり、今の自分の居場所を愛せばそれで済む話ではないか。

 そう言おうとしたが、あまりに凄まじい酔い方だった為、辞めておいた。酒瓶で殴られないとも限らない。それよりも彼女をお持ち帰りする方向にシフトし、適当に話を合わせて、同じペースで酒を飲んだ。

 だんだんと酔いが回ってきたが、どうにも止められない。結局彼女のことを放って一人で飲みまくり、気づいたらベンチに座ってゲロを吐いていた。何を話したか覚えていないが、ろくなことは言っていないだろう。


 話を戻すが、断捨離とは三つの考えからなり、①断業:入ってくる不要なものを断つ。②捨業:家にある不要なモノを捨てる。③離業:モノへの執着心をなくす。

 この三つからなるヨガ由来の考え方だ。これをすればモノに執着しない思想になるということだが、僕は結構懐疑的である。なぜなら先ほど述べたように、今の自分は過去の積み重ねだからだ。モノを捨てても思い出までは消えず、本質的には過去の自分となんら変わらないのではないだろうか。

 実際僕も断捨離をしてから徐々にモノが増え始めている。捨てたはずのテーブルと瓜二つのものをリサイクルショップで見つけたときは、思わず小躍りしてしまった。意志が弱いという人もいるだろうが、だまらっしゃいと言って今日は筆を置く。

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