フーテン、アルコール依存症を語る
僕はアルコール依存症だ。WHOが定めたアルコール依存症テストがある。15点以上でアルコール依存症、40点満点のテストで僕は36点を取った。立派な点数である。記念に飲みに行った。
基本的に酒浸りな為、禁断症状は体験したことがないが、メルヘンな幻覚が見えるのなら是非体験してみたいところではある。幸い幻覚剤は試したことがない。楽しめると思うのだが。
酒を飲むという行為は、自己破壊衝動によって支えられていると思っている。僕は自分自身と、自分が属する世界を憎んでおり、それらを酩酊がもたらす暗闇の中に放り込む手段として酒を選んだ。アルコール依存症に関する資料を眺めながら、酒を飲む。自虐的だが、そこには破滅の持つ美しさがある。
アルコールは一番身近で、しかも強烈に効くドラッグだ。身体的な特徴に関わらず、ある程度の量さえ飲めば確実に効く。しかしそんな便利な物があるにも関わらず、世の中には違法で危険な薬物にのめり込む人たちもいる。覚醒剤や睡眠薬などがいい例だ。
覚醒剤でボロボロになってしまった人間を見ると、嫌悪感ではなく、共感を寄せてしまう。彼らは何か劇的な悲しみがあって薬に溺れたのではなく、ただなるべき結果としてそうなってしまったに過ぎない。薬そのものではなく、薬にたどり着くまでの人生が背景として存在することで、初めて薬に出会う。言うなればドラマの筋書き通りに進んで、曲がり角で売人と鉢合わせしたと言ったところだろうか。そして大団円としてブラックアウトが来る。僕と彼らが違う点は何もない。人生を通して薬物に帰結する。ただそれだけの話だ。
依存症同士の傷の舐め合いという人もいるだろうが、僕は声を大にしてそれがどうしたと言いたい。彼らのような「清潔な」人生と、僕たち依存症患者の人生が交差することはない。「モラル」という境界線が僕たちをはっきりと分断している。南北時代のアメリカのように、資本主義と共産主義のように、僕とこれを読んでいる君のように…
思うに依存症を治すには、依存元となる薬物を使用しないで得られる以上の何かを得ることしかないのではないだろうか。家族のために酒をやめる。恋人のためにタバコをやめる。子供のためにコカインをやめる。どの根底にもあるのは、他者への愛や幸せと言った、抽象的なものでしかない。抽象的なものを支えとして生きていくにはあまりに脆く、儚い。風が吹けばすぐに頽れてしまうだろう。
それに比べて薬物はどうだろう。あるかどうかわからない幸せと、強烈な快感を与えてくれる薬物。二つを杖として見比べた時、ドラッグは、屹立する血走った男根のように立派だろう。
ただ、こうも思うのだ。何かに依存していない人間なんていないのではないだろうか。スマホやテレビ、日々の生活、夕焼け、温かい食事、仕事、朝の暗闇、干からびた時計バンド。これらがない日々はきっと灰色で、味のないスープみたいに耐え難いだろう。
その分アルコール一本に絞った僕は、ある意味職人的とも言えるんではないだろうか。入院しても、断酒会に行っても、依存症の本質なんて誰にもわからない。僕のアルコール依存を治せるのはきっと、甘え切った肉体を脱ぎ去った、透明な幽霊くらいだろう。
しかし、文章を書いていると脳がこる。脳みそをマッサージしなくちゃ。確か冷蔵庫に日本酒が入っていたはずだ。今日はそいつで一杯やろう。
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