フーテン、映画館に行く
酷い二日酔いで目が覚めた。枕元にはウイスキーの空き瓶一本と爪切り、細かい爪が散乱していた。指先を見ると綺麗に爪が切り揃えられている。おまけに、指の鬱陶しい産毛まで綺麗に剃られている。どうやら酔っ払った僕は美意識が高まるらしい。泣き上戸ならぬ美し上戸か。女に生まれたらよかったのに。
台所に行って水をがぶ飲みしながら、今日は何をしようか考えるが、頭痛のせいでうまく頭が回らない。いつか脳が萎縮して車椅子生活になるかもしれない。だが、それも案外悪くない。股に一升瓶を挟み、車椅子で爆走する赤ら顔の僕を想像すると、自然と頬が緩む。
着替えを済ませて、街をぶらつくことにする。三十分ほど街をぶらつくと、こじんまりとした映画館があった。二日酔いでふやけた頭には単純な娯楽映画が一番だ。チケットを買い、開場とともに中に入る。この上映を待っている時間が好きなのだ。古臭いシーツの匂いを吸い込むと、今から何かが始まるという期待で胸が膨らむ。
しかし膨らんだ胸は、みるみるうちに萎んでいった。なぜなら前席に座った二対二の男女が凄まじくマナーが悪かったからだ。それはもう笑ってしまうほどで、しまいには僕は映画ではなく彼らを観察することにした。
まず左端の男。彼は上映中スマホで映画を撮影していた。普通に犯罪である。しかし何を思ったか、ラストの一番盛り上がるところを撮ればいいものを、中盤のちょっとダレるところだけを撮っていた。いったいなぜ?そう聞きたかったが、見た目が一番イカついので辞めておくことにした。
真ん中の男女はカップルらしい。信じられないイチャイチャしている。このままセックスまでしちゃいそうな勢いだ。あ、今キスした。セックスの時は暗がりと静寂が絶対条件だと思っていたが、暗がりなら何でもいいのだろうか。爆音で映画が流れているのに。あ、今キスした。これは映画の中の出来事だ。前席のカップルも俄然勢いづいていく。もうそのまま盗撮している男に撮影してもらえ。
右端の女はずっとスマホをいじっている。自撮りまでしている。僕の顔もしっかり写っている。僕の顔にまでフィルターがかかっているのを見ると笑ってしまった。
映画好きからしたら憤懣やるかたなしといった状況なのだろう。僕も映画好きだが、それ以上に面白い光景が見られるのだったら構わない。あまりに面白かったし、少し彼らに同調する気持ちもあった。
若さだけが持ちうるエネルギーがあると思う。それが満ちている間はこの世の全てが自分のためにあり、死なないことを確信している。永遠を手に入れたと本気で思っている。
しかしそううまくは続かない。質量保存の法則にもあるように、この世の中にあるエネルギーの総量は変わらない。水が蒸発して消えていくように、彼らが持つ若さも霧散し、別の美しい何かに変わっていく。それは虹だったり、幸せしか知らない赤ん坊の手のひらだったりするだろう。
僕は夢想から覚めると、席を立ちシアタールームを出る。入り口のところに立っている店員を見つけると、近くに歩み寄り、「すいません、前の席の人盗撮しているので確認してもらってもいいですか?」
映画はやはりいい。特に頭空っぽで見れる映画は最高だ。映画を見終わる頃には二日酔いも良くなり、久しぶりにカラオケでも行こうと思い立った。映画館近くのビルにちょうどカラオケが入っている。受付は3階らしい。今にもワイヤーがちぎれそうなエレベーターに乗り込む。
エレベーターの扉が開き、僕が出るのと入れ違いに中学生らしき女の子二人組がエレベーターに乗り込んだ。ドアのすぐ脇にある受付で大人一人だと伝えようとすると店員の女の子が聞いてきた。
「お客様お一人様でしたか?申し訳ないのですが、混雑時はおひとり様のご利用お断りしておりまして…」
そうだ。無職になってから曜日感覚が完全に崩壊してしまった。やたら人が多いと思ったが今日は土曜日だ。
謝る店員に問題ない事を伝え、エレベーターを見るとまだ扉が開いている。中を見ると中学生がこちらを見ている。きっとこの会話を聞いて扉を開けて待ってくれているんだろう。
なんてできた子供たちだ。僕に爪の垢を飲ませて欲しい。僕は感謝とともに乗り込んだ。
その瞬間ドアが閉まり、僕はがっちりとドアに挟まった。女の子の顔を見るとこっちを見て固まっている。どうやら閉めるボタンを押してドアが閉まり始める間のわずかのタイムラグに僕が入り込んでしまったようだ。
女の子たちに謝り倒してエレベーターに乗り込む。エレベーター内は沈黙が満ちていた。女の子たちの視線を背中に浴びながら、僕は爪の垢の味を考えていた。きっと僕のは、カビの生えた布団みたいな味で、彼女たちのは、太陽の光を浴びた芝生みたいな味がするだろう。
扉が開くと、僕は何でもないようなフリをして逃げ出した。僕は恥ずかしいことなんてなんにもやってませんよ、清廉潔白な人間です。今すぐ僕と肩を組んで歌いましょうよといった調子の顔をして人混みに紛れ込む。
どうやら僕はあの映画館の四人組を笑ったり、裁いたりできるような人間ではないようだ。今度あったら謝らないと。
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