第3話 ーその月、血の如く紅なりー
その月、血の如く紅なり
夜は、ただ静かに沈んでいた。
世界は闇に呑まれ、風は冷たく、鉄と血の匂いを運ぶ。
滅びの余韻を残しながら、僕とツクモは無言のまま歩を進めた。
戦いの爪痕は、まだ肌に残る。浴びた血、交わした刃、噛み締めた生。
そして、手にした"真実"。
「法王ルキウス・アークレイドの名の下に、"吸血鬼の血"を余さず回収せよ——」
狩るだけではない。"血"を集める……それは、何のために?
火を放ち、灰に帰すのではなく、敢えて"残す"という選択。
"血"に秘められた何かを求めている。
「……しっかし、ようやく帰るか」
風がざわめき、森の影が深く落ちる。
ツクモが呟く。銀の毛を振り払い、鼻を鳴らした。
「ブラッド邸までは、もう少しだ」
僕は視線を上げる。
黒き樹々が絡み合い、夜の闇が獣の気配を覆い隠す。
蛇の森——かつての棲み処。
「……懐かしいな」
無意識にこぼれた言葉に、ツクモが鼻で笑う。
「ヘッ、随分と余裕じゃねえか。この森を懐かしむとはな」
「僕にとっては、ね」
そこには、かつて"家"と呼んだ館がある。
滅びたものの残骸、置き去りにした過去の影。
ツクモの縄張りでもあり、僕の記憶の一部でもある。
「まあいいさ。主が何を思おうが、俺の役目は変わらねぇ」
ツクモは肩をすくめ、森へと踏み込む。だが——その足がすぐに止まる。
「ツクモ?」
「……妙だな、やけに静かだ」
彼の金の瞳が、闇の奥を射抜く。
違和感が、森全体を覆っていた。
蛇の森は、夜ともなれば獣たちの囁きで満ちる。
梟の声、風に乗る羽音、木々を縫う影、低く響く唸り声。
しかし、今は——
音が、すべて消えている。
「……まるで、"喰われた"みてぇだな」
ツクモが低く唸る。
耳を僅かに動かし、"無"の気配を探る。
風が吹き抜ける。だが、それは"ただの風"ではなかった。
誰かの耳元で囁くような、気味の悪い音。
「……人間の匂いだ、警戒しろ」
ツクモが牙を剥く。
月光が、その金の瞳を鋭く照らす。
そして、闇が蠢いた。
静寂の中、異質な気配が支配する。
まるで世界が息を潜めたように、木々のざわめきは消え、虫の声さえも聞こえない。
次の瞬間——
闇の中から、一つの影が滲み出た。
黒衣を纏い、長柄の武器を肩に担ぐ男。月光が銀の刃を照らし、夜気に冷たく光る。
「……血の匂いがする、まさか吸血鬼が彷徨いているとはな」
低く、静かな声が闇を切り裂く。
その男は、オズワルドを
「見た所、吸血鬼の幼子……今、ここで芽を摘もう」
足元の枯葉が僅かに揺れる。
月の下、銀の刃が静かに構えられた。
「……あの騎士どもの遺体、貴様の仕業だろう? 随分と生き永らえたものだな……だが、そろそろ幕を引く時だ」
銀の刃が奔る。
オズワルドは咄嗟に剣を合わせるが、衝撃が腕を痺れさせる。
(……重い)
刃を受けるごとに体勢が崩され、動きを読む暇すらない。
「……どうした、吸血鬼。お前たちは人の脅威だったはずだ。夜を統べ、恐怖を刻んできた……が、今はどうだ」
間合いを詰められる。
剣を振るうが、軽く捌かれ、即座に反撃が飛んでくる。刃を横へ弾くが、重い蹴りが腹に叩き込まれ、地に膝を着いてしまう。
視界が揺れ、地面を蹴る力が、僅かに鈍る。
黒衣の男は目を細め、剣先を僅かに傾ける。
「牙は鈍り、影は薄れ、狩られるだけの獲物とはな……」
その声音には、わずかな嘲りと……抑えきれぬ嫌悪が滲んでいた。
「哀れなものだな。かつて狩る側だった者が、狩られる側になるとは……」
オズワルドは息を整えながら、剣を握り直す。
だが、指先に力が入りきらない。
「それとも……もう、人を狩るだけの力すらも、残っていないのか」
言葉を返せなかった。
確かに、この男の言う通りだ。今の僕は、狩る側ではない。狩られる側だ。
ツクモが横から飛びかかるが――
「チッ……かすりもしねぇ……!」
人狼の爪は、ハルバードの柄によってことごとく弾かれた。
黒衣の男はわずかに眉を動かし、冷めた声を落とした。
「……獣か、吸血鬼の"飼い犬"とはな」
じりじりと追い詰められる。
オズワルドの背後には、森を見下ろす崖が広がっていた。
「さぁ……ここで仕舞いだ、吸血鬼よ」
銀の刃が、首を狩るように振り下ろされる——
その瞬間——
「主っ!」
ツクモの蹴りが鋭く黒衣の男の脇腹を捉えた。鈍い衝撃が響き、わずかに息を呑む音が漏れる。
体が揺らぎ、足元の土が崩れた。
重力が絡みつき、身体が沈むように落ちていく。銀の刃が夜気を裂きながら遠ざかり、やがて闇へと消えた。
後には、折れた枝と葉々が擦れる音だけが残った。
「早く行くぞ!」
ツクモが乱暴にオズワルドの襟を掴み、そのまま軽々と背に乗せる。
次の瞬間、白銀の獣影が疾風のごとく駆け抜けた。
風が裂け、木々の影が目まぐるしく流れる。夜の森は静寂を抱いたまま、彼らの疾走を見送っていた。
オズワルドはツクモの背にしがみつきながら、静かに口を開く。
「また、助けられたな……。それにしても、あの男……凄まじい、人間とは思えない身のこなしだった……」
ツクモが鼻を鳴らす。
「ああ、奴の名はハンス。"処刑人"と呼ばれている。吸血鬼を狩ることを生業とする狩人だ……」
ツクモの走りが僅かに速まる。
牙を噛みしめるような声音で、短く吐き捨てた。
夜風が、森を駆ける二人の間を抜けていく。
オズワルドは、ふと独りごちた。
「吸血鬼狩り……帝国の手の者か?」
「確証はねぇが……帝国からのスカウトは受けてるらしいぜ。最近じゃ、吸血鬼以外にも手を出してる。……俺の同胞も奴にやられた」
ツクモの声は冷静だった。だが、その奥に沈んだ怒りは、まるで燻る焔のように熱を帯びている。
オズワルドは僅かに目を細めた。
「どこでその情報を?」
ツクモは鼻を鳴らし、薄く嗤う。
「はっ、俺は獣だぜ。森のささやき、夜を駆ける翼、鼠のざわめき——あいつらはよく喋る」
木々がざわめく。夜風が枝葉を揺らし、まるでその言葉に応じるかのように。
オズワルドはツクモの背から夜の森を見遣り、静かに息をついた。
「……特殊な情報網だな」
やがて、森の奥に黒い影が浮かび上がる、古き館。
闇に沈みながらも、その存在感は揺るがぬ。まるで、この世の時の流れを拒むかのように。
——オズワルドが、かつて"家"と呼んだ場所。
二人は屋敷の前で足を止める。
巨大な扉が、夜の静寂にそびえ立っていた。
オズワルドが一歩進み、重厚な扉に手をかける。冷たい鉄の感触。軋む音が、沈黙を切り裂いた。
扉が開かれると、そこに広がっていたのは——
豪奢な空間だった。
時の流れを拒むかのように、館の内部は変わらぬ輝きを保っている。燭台の灯りが煌めき、赤絨毯が広間を深く彩る。
そして、正面には大階段。その上に、かつての主の姿があった。
オズワルドは無言で、それを見つめた。
——あの日と同じように。
重厚な扉がゆっくりと閉まり、館の静寂が戻る。オズワルドは廊下に立ち尽くし、微かに息を吐いた。
この屋敷に足を踏み入れるのは、久方ぶりだった。
城の石壁と違い、ここには柔らかな灯りと、微かに滲む過去の気配があった。
ゆっくりと視線を巡らせる。
天井に並ぶ燭台、磨かれた大理石の床、そして闇に沈む廊下。
父は指を鳴らすだけで、この館を灯していた。
かつて、そんな姿を何度も見た。
……ならば、僕にもできるのだろうか?
そう思うことに、何の疑いもなかった。
オズワルドは手を上げ、試しに指を鳴らす。
パチン——。
瞬間、燭台の炎が揺れ、館の闇が静かに後退した。廊下が、ゆっくりと温かな光に包まれる。
指先が僅かに熱を持つ。だが、それが妙に心地よかった。
オズワルドは小さく息を呑む。
懐かしさと、微かな高揚が胸を満たす。
……変わらないものも、あるのだな。
微かな感動を覚えながら、大広間の階段を上り、迷うことなく、自室へと向かった。
扉を開ける。
埃一つない部屋が、そこにあった。
まるで、今も誰かがここに暮らしているかのように。
オズワルドはゆっくりと血に塗れた衣服を脱ぎ捨てる。肌にこびりついた冷えた血が、僅かに不快だった。
クローゼットを開くと、新品同様の白いシャツが目に入る。その隣には、黒と赤を基調としたコート。
何一つ変わらない。
オズワルドはそれらを手に取り、静かに身に纏う。布が肌に馴染み、わずかに感じる温もりが、過去の記憶を揺さぶる。
……まだ、この館は"生きている"。
そう思うと、少しだけ安心する自分がいた。
館の静寂が、夜の深さとともに濃くなっていく。燭台の灯は微かに揺れ、長く伸びた影が壁を這う。
かつてこの屋敷は、血族の栄華を讃え、主を迎える場であった。
だが今は、遺された者の帰還すら、まるで幻のように迎えていた。
オズワルドの指が、無意識に動く。
この館に残された、唯一の証。
血の剣——紅月のショーテル。
それは、代々の領主にのみ許された"誓約の刃"。
だが、領主亡き今、その剣の主は誰なのか。
ふと、胸の奥に微かな疑問が浮かぶ。オズワルドは静かに歩みを進めた。
向かうは、館の最上階。
扉の先にある、月の下に捧げられた祈りの場——
礼拝堂。
扉を押し開くと、
ここだけは、時の流れに縛られていなかった。誰かが手入れをしていたのだろうか。塵ひとつなく、燭台はなおも灯を揺らめかせ、影を織りなしていた。
死した館の中に残された、唯一の聖域。オズワルドはゆっくりと進んでいく。
中央の祭壇には、一振りの剣が鎮座していた。
紅月のショーテル——血と繁栄の象徴。
刃は、欠けることなく、赤黒い光を帯びている。
この剣こそ、ブラッド家の誓約であり、月食を崇める民の信仰の証。血に染まりし一族が、滅びるまで捧げ続けた刃。
オズワルドは剣を見つめながら、ふと脳裏に浮かぶものがあった。
——父上の言葉。
「血の剣など、呪われた遺物に過ぎん」
幼き頃、父がこの剣を嫌っていたことを思い出す。祭事のたびに、彼はどこか遠くを見るような目をしていた。まるで、その刃に刻まれた何かを、振り払おうとするように。
オズワルドの父、フリードリヒ・ブラッド——先代のブラッド領主は、厳格でありながらも平和を愛する者だった。
戦を望まず、争いを遠ざけ、血を流さぬことを誇りとした。そして何より、民と家族を護ることを己の義務としていた。
だが、平和は対価なしには得られない。時に領主たる者が、己の血をもって誓約を立てなければならぬ時がある。
この剣は、まさにその象徴だったのだ。
紅月のショーテル—— それは、"血を捧げし者"の証。この刃を掲げることは、戦を受け入れること。
血を引き換えに誓約を交わすことを意味する。
父は、この剣を拒絶した。平和のために、無益な争いを生まぬ為にと。
だが、その選択は報われることなく、家族も国も奪われた。
ならば、今のオズワルドはどうするべきか。
剣を見つめる。
ただの祭具ではない。それは、血の誓約を交わす"契約"そのもの。
柄に指を伸ばす。
刹那、微かな熱が走る。
それはただの冷たい金属ではなかった。まるで、何かが目を覚ますように。
主の帰還を、剣は待っていたのか。
扉の向こうで、ツクモが静かに佇んでいた。彼は何も言わない。だが、その金色の瞳は、オズワルドの決意を映していた。
——夜はなお深く、血の刃がその手に戻る。
館の空気が、微かに揺れた。
それはまるで、忘れ去られた血の誓約が、今ふたたび目覚める兆しのようだった。
オズワルドは静かに、祭壇の上に横たわる剣を見つめる。
紅月のショーテル——それは、かつて血を浴び、信仰と誓約の象徴として祀られた刃。祭具でありながら、人の業を断ち、幾度となくその赤い軌跡を夜空に描いた剣。
そして今、その刃はただ静かに、主の手が触れるのを待っている。
指が柄に触れた瞬間、金属の冷たさが骨にまで染み渡る。
まるで、長き時を経ても変わらぬ厳格な審判のようであり、手にする者の覚悟を問う、鋭き問いかけのようでもあった。
オズワルドは微かに息を吐く。
そして、ゆっくりと手を滑らせるように、剣を握りしめた。
「……僕が、お前の主だ」
刹那、剣が微かに震えた。
その瞬間、鋭い痛みが指先を貫き、冷たかった刃が熱を帯びる。
まるで生きているかのように、刃がわずかに脈打ち、吸い寄せられるようにして肌を裂き、紅い雫を飲み込んだ。
血の滴が刀身を伝い、夜の闇に消えるかのごとく、ゆっくりと刃へと吸い込まれていく。
それはまるで、欠けた月が天に溶けるような静寂の中で、紅く輝いていた刃は、徐々に色を失い、やがて深い漆黒へと沈んでいった。
黒く染まりし刃は、ただ一つの意思を示していた。
血を受け入れし者こそが、主であると。血と誓約の刃は、領主の帰還を認めたのだ。
オズワルドは、黒く染まった刃を見下ろす。
それは決して穢れではなく、むしろ今この瞬間にこそ、本来の姿を取り戻したかのようだった。
紅月は、誓約の刃として生まれ変わったのだ。
「……これが、"血の剣"か」
オズワルドの声は、驚きと僅かな畏怖を滲ませながら、
まるで長い間封じられていた秘密を解き明かすように低く響いた。
だが、その刹那——
「……よかったな、主よ」
扉の外から、ツクモの声がした。
振り返ると、金色の瞳がじっとこちらを見据えている。
まるで、すべてを見通したかのような眼差しで。
「お前の"家"は、お前を見捨ててはいなかった」
オズワルドは静かに剣を握り直し、漆黒の刃に映る自らの姿を、じっと見つめた。
黒く染まった刃を握りながら、オズワルドは不思議な感覚に囚われていた。
まるで、刃が彼に語りかけるかのように——否、それはもっと直接的で、本能に訴えかけるような感覚だった。
頭の奥に、染み込むように知識が流れ込んでくる。それは、誰かに教えられたものではなく、書物で学んだものでもない。
ただ、紅月を握った瞬間から、既にそこにあったもののように、その能力が、当然のように自分の中に"在る"と理解できた。
血の刃。
血を糧とし、血で断つ武器。
主の血に応じて、刃が応え、彼の望むままに奔る。
オズワルドは静かに息を吐く。
自らの存在が、剣に適合していくような感覚があった。
——いや、違う。
剣が、彼を"選んだ"のだ。
まるで、元からオズワルドがこの剣の主であったかのように、それは彼に語りかけ、彼の手の中で確かな感触を残していた。
これこそが、"紅月"。
血に応じ、血で斬る、領主の刃。
「……無茶するなよ。」
扉の向こうで、ツクモが低く呟いた。
彼は壁に寄りかかりながら、金色の瞳を細め、どこか呆れたような口調だった。
「その顔は、何かやらかす時の顔だ。……いやな予感がするぜ」
「はは、試してみたいだけさ」
オズワルドは刃を掲げたまま、視線を剣先へと落とす。
それは、まるで彼を誘うように、闇の中で微かに鈍く光っていた。
血に応じる刃ならば、試す方法は一つ。
オズワルドは躊躇なく、指先を刃に滑らせた。
鋭い痛みが走ると同時に、鮮血が滲み、紅い滴となって刀身へと落ちる。
刹那——
闇が裂けた。
血が触れた瞬間、紅月が脈動し、まるで目覚めたかのように刃が震えた。
次の瞬間、刀身から放たれた斬撃が、空間そのものを断ち切るように走る。
血の軌跡が、まるで燃え盛る月光のごとく飛翔し、礼拝堂の扉をかすめ、その衝撃が壁へと叩きつけられる。
低く、鈍い音が響いた。
紅き月の咆哮のような、斬撃の残響。
「……これは……」
オズワルドは、自らの手を見つめた。そこには確かな"力"を感じるのだ。
だが同時に、微かに体を蝕む疲労が、僅かな倦怠感となって伝わってきた。
そうか。
この刃は、主の血を糧とする。
ただ振るうだけではない。斬撃を飛ばせば、その代償として、血が奪われるのだ。
「……なるほど。これなら、戦える」
オズワルドは静かに呟き、紅月の刃を見下ろす。彼を選び、血に応じて力を示したこの剣は、今まさに"領主"の手にある。
「……ったく、やっぱりやりやがったな」
ツクモが大きく息を吐くと、気だるそうに肩をすくめ、だがその口元には、どこか楽しげな笑みが浮かんでいた。
「まぁ、頼りにはなるな」
彼はそう言いながら、牙を見せるように笑うと、まるで血の香りを愉しむかのように鼻を鳴らした。
夜の静寂が、かすかな異音によって破られる。
遠く、闇に沈む街道の先——不規則な振動が大地を伝い、微かに木々を震わせていた。
硬く踏みしめられた土を打つ、蹄の響き。それは規則正しく、無秩序な夜の音とは違う、まるで世界に秩序をもたらそうとするかのような、重く冷たい律動だった。
——騎馬の群れ。
ツクモが鼻を鳴らし、牙をちらつかせながら、低く呟いた。
「……厄介な連中が、こっちに来てるぜ」
オズワルドはその言葉に答えず、静かに屋敷の扉の前に立つ。
先ほどまで手に馴染ませていた紅月のショーテルが、今や自然と彼の掌の中にあった。
血を糧とする刃は、先ほどの試し斬りの余韻を残しながら、なおも闇に沈み込むような黒を帯びている。
風が吹いた。
血の匂いと、鉄の気配が混ざる。
それを嗅ぎ分けながら、オズワルドはゆっくりと唇を歪ませた。
「やぁ、皆さん。客人を招いた覚えはありませんけど」
屋敷の扉を押し開き、外の冷えた夜気を受けながら、静かに笑う。
だが、それはいつもの彼の笑みとは異なっていた。
穏やかで丁寧な口調の奥に、滲み出るような嗜虐の気配。
瞳の奥に、冷たく鈍い光が宿る。
月光に照らされた庭の先、騎馬の群れがこちらへと迫っていた。
漆黒の鎧に身を包み、銀と青の紋章を掲げる聖騎士たち。
見たところ十騎か、それ以上か。
馬上で剣を掲げ、まるでこの館のすべてを"浄化"せんとするような、決然とした佇まい。
先頭に立つ騎士が、鋭く声を張る。
「穢れた吸血鬼よ! 貴様の血もまた、主の御業のもとに頂戴する! そして……仲間たちの無念を此処で晴らさせてもらう……!」
オズワルドは微かに目を細めた。
おそらく、あの野営地にいた肉塊どもの仲間だろう。だが、興味もないと言わんばかりの薄い微笑を浮かべながら。
「……ふふ……ははは……。いいや、血を貰うのはこちらだ」
聖騎士の一人が、鋭く馬を駆る。
銀に輝く刃が、月光を反射しながら、まっすぐこちらへと振り下ろされる。
瞬間——
紅月が応えた。
オズワルドの手から放たれた血の斬撃が、まるで夜を切り裂くかのごとく疾走する。
赤黒い軌跡が一瞬の残光を描き、次の瞬間、騎士の身体は馬ごと真横に両断された。
刃が断つよりも早く、血が飛び散る。
裂けた胴体からは臓腑が溢れ、腸が弛緩しながら地面へと垂れ落ちる。
断たれた馬の胴が倒れ込むよりも前に、その背の騎士は無残に地に伏した。
先程の威勢は、怯えとなり、静寂へと堕ちてゆく。
誰もがその光景に息を呑む。
だが、その沈黙を破ったのは、オズワルド自身だった。
「——ははっ。」
唇の端が引きつる。
喉の奥から、押し殺すような笑い声が漏れる。
胸の内から湧き上がるのは、純然たる愉悦。
強くなる——ただそれだけではない。
血を斬り、血を浴び、血に応じるこの刃の感触が、ただ心地よかった。
「……これは、いい」
「――我ら帝国聖騎士団に惰弱なし!」
その言葉を皮切りに、次々と騎士どもが突撃してくる。
怒号とともに剣が振り上げられ、幾つもの蹄が地を蹴る。
オズワルドは躊躇わず、刃を振るった。
紅月が血の斬撃を生み出し、赤黒い閃光が奔る。
一撃、また一撃。斬られることを知ることなく、戦場を駆け抜けてきた聖騎士たちが、
次々と紅い弧を描きながら倒れ伏していく。
斬られた者の断末魔が響く。
剣を掲げる間もなく、頭ごと飛び、切断された腕が宙を舞い、ばら撒かれた赤い飛沫が、月の光を浴びて鈍く輝く。
その声すらも、オズワルドにとってはただの戦場の調べにすぎなかった。
愉悦。
この瞬間、この場において、オズワルドは確かに"狩る側"だった。
ツクモは、一歩後ろでその光景を見ていた。
彼は驚いていた。
——いや、それだけではない。
その圧倒的な力の顕現に、興奮し、そして同時に、わずかに滲み出す畏怖を覚えた。
「……主よ」
彼は低く呼びかける。
だが、その声は今のオズワルドには届かない。
オズワルドの瞳は、血の香りに濡れていた。
夜はなおも沈黙を讃えていた。
冷たい月光が、大地に横たわる亡骸を照らし、空気には、鉄と血の匂いが重く滞っている。
オズワルドは、ゆっくりと息を吐いた。
手の中の紅月はなおも黒く、刃には戦の余韻が残っている。
先ほどまでの興奮が、名残惜しげに指先に残る感触とともに、じわじわと冷めていくのを感じた。
——だが、疲れがそれ以上に重くのしかかる。
紅月を振るうたび、血が奪われる。
それは、試し斬りのときに理解していたはずだった。
だが、今は違う。
先ほどまで心地よかった刃の感触が、今は指先に沈むような重みとなっていた。
膝が揺らぎ、支えきれずにその場へと崩れ落ちる。
「……っ」
重い。
まるで身体の中から何かが抜け落ちたかのような、酷い倦怠感。
血が足りない。
そんなことは、吸血鬼である自分が最も理解しているはずだった。
「……生き残りは……当然いないな」
ツクモが少し離れた場所から低く呟いた。
視線の先には、肉と鉄とが絡み合う惨状。
聖騎士の遺体は、ことごとく両断され、四肢が無造作に散らばっている。
「全員、見事に真っ二つだ」
獣のような嗅覚を持つツクモが、鼻を鳴らして周囲を見回す。
彼は愉快そうに目を細めながら、だがどこか呆れたように続けた。
「……生きてりゃ何か聞き出せたのかもしれねぇのにな」
オズワルドは、その言葉に微かに笑い、肩をすくめた。
「はは、ごめん」
すまなさそうに見えたが、実際のところ、それほど後悔はしていなかった。
狩りの余韻はなおも残り、胸の奥では、まだどこかで渇きを覚えている自分がいる。
だが——その時だった。
紅月が震えた。
オズワルドは反射的に刃を握り直す。
刃全体が微かに振動し、まるで何かを訴えるように脈打つ。
そして——
遺骸が、一斉に血を吐いた。
無残に散らばる死体から、赤黒い液体が噴き出すように刀身へと吸い寄せられる。
それはまるで、見えざる力が血を引きずり出しているかのようだった。
切断された首の断面から、裂けた腹の奥から、床に広がる血溜まりまでもが、紅月へと向かって流れ込む。
「……これはっ……」
オズワルドは息を呑んだ。
紅月が、血を飲んでいる。
まるで、それが当然であるかのように。
指先から感じる刃の冷たさが、じわじわと熱を帯びていく。同時に、身体の奥から少しずつ力が戻ってくるのを感じた。
倦怠感が、薄れていく。
疲労が、消えていく。
そうか……そういうことか。
紅月は、主が血を失えば、自ら周囲の血を吸い、補う。
それはただの刃ではなく、生きた器官のようなもの。血の巡りとともに、剣そのものが呼吸し、応じているのだ。
オズワルドは改めて紅月を見つめる。
黒い刀身は、血を啜ったことで赤黒く染まり、夜の闇の中で、まるで皆既月食のように妖しく浮かび上がっていた。
血の剣——それは、まさに"紅月"の名を冠するに相応しい。
「……ったく、危ねぇ武器だな」
背後から聞こえたツクモの声に、オズワルドは振り返る。
「俺が後ろにいなきゃ、俺の血まで吸われるところだったぜ」
金色の瞳が、わずかに警戒の色を帯びている。
それは、彼が本能的にこの剣の性質を理解した証拠だった。
「……悪い、知らなかった」
オズワルドはそう言いながら、未だ僅かに脈打つ紅月の柄を握りしめた。
知らなかった——だが、今は知った。
この剣は、主とともに生き、血に飢え、血を渇望する。
そして、それを与え続ける限り、決して朽ちることはないのだ。
——なるほど、いい武器だ。
血が巡る。紅月が吸い上げた血は、オズワルドの身体を満たし、熱を宿らせる。
倦怠感は消え去り、代わりに湧き上がるのは、圧倒的な力の昂揚感。
この刃は、ただの武器ではない。紅月は血を喰らい、主の力を増幅させる。
そして今、オズワルドは確かに"狩る側"へと戻っていた。
彼は、思わず笑った。
それは愉悦にも近く、歪な高揚感が滲むものだった。
「……悪くない」
その刹那、冷たい声が夜を裂いた。
「——非道いな」
森の暗闇から、ゆっくりと現れる影。
それは騎士とも、ただの狩人とも違う、死神のごとき静寂をまとっていた。
吸血鬼狩り、ハンス・ブレナン。
夜風に靡く黒衣の裾、月光に反射する銀の刃。
彼の眼差しは、目の前の光景を見据えながらも、微動だにしない。
戦場に散らばる血の海、その中心に立つオズワルドを見下ろし、唇を引き結ぶ。
「……これ以上、好き勝手はさせん」
低く、鋭く放たれた言葉とともに、彼は動いた。
地を蹴り、重力を切り裂くように飛び込む。
月光を浴びた銀のハルバードが、風を裂いて迫る。
オズワルドは即座に紅月を構えた。
次の瞬間、刃と刃がぶつかり合い、夜の静寂を破る火花が飛び散った。
戦いが始まった。
ハルバードの軌道は、まるで流れる水のように淀みなく、そして重い。オズワルドは紅月で受け流しながらも、鋭い衝撃に手が痺れるのを感じた。
「どうした、吸血鬼。さっきまでの"狩り"の余韻に浸っていたんじゃないのか? 」
ハンスの声は静かだったが、その奥には確かな殺意が滲んでいる。
彼は一歩も退かず、むしろ着実に攻め込んでくる。
紅月をもってしても、互角——いや、わずかに押されている。
オズワルドは目を細め、瞬時に状況を整理する。
間合いの管理が的確すぎる。
ハルバードの長大な刃は、間合いを詰めさせず、紅月の攻撃はことごとく弾かれる。
反撃の機を窺う間もなく、次の一撃が押し寄せる。
「……流石は歴戦の吸血鬼狩り」
彼は息を整えながら、思わずそう呟いた。
「おいおい、俺を"歴戦"なんて呼ぶのか?」
ハンスは皮肉げに笑う。
「貴様らが勝手にそうさせたんだ……何百もの仲間を食い散らかし、血を吸い、牙を研ぎ、"人の敵"となり続けた結果がこれだ」
ハルバードが再び振り下ろされる。
オズワルドは紅月を交差させ、辛うじて受け止めた。だが、衝撃が腕を痺れさせる。
「それでも、まだ"力"が欲しいか? 」
ハンスの言葉には、嘲りが混じっていた。
「そんな剣に縋っても、それはお前の力じゃない。道具に生かされるだけの亡者よ」
オズワルドは、じっと彼を見つめる。
その言葉が、まるで自身の内側に突き刺さるような感覚を覚えた。
"力が欲しいか?"
"お前の力じゃない"
どこかで、何かが囁く。
それは、血の記憶か、あるいは別の何かなのか。
——呼べ。
耳元ではない。
それは心の奥深く、闇の向こうから響く声だった。
何を——?
その瞬間、世界が暗転した。
いや、違う。
闇ではない。"蝙蝠"だ。
突如、無数の黒い影が、館の周囲から湧き上がるように飛び交う。
夜空に溶けるように現れた彼らは、まるで主の命を受けたかのように、鋭い羽音を響かせながら旋回し——
ハンスへと襲いかかった。
「……っ!? 」
思わず身を引くハンス。
数え切れぬほどの蝙蝠が、彼の視界を覆い尽くし、まとわりつく。
鋭い爪が鎧を引っ掻き、牙が肉を裂こうとする。決して致命傷にはならぬものの、それは確かに彼の動きを阻害した。
数秒の攻防の後、彼は蝙蝠の包囲から一歩飛び退き、素早く距離を取る。
月光の下、彼は初めて顔を歪ませていた。
「……ほう」
鋭い眼差しが、オズワルドへと向けられる。
だが、次の一手を打つことなく、彼はゆっくりと後退し、闇の中へと姿を消していった。
——勝った?
いや、違う。
これは、引き分けだろう。
「今のは……"獣喚び"だな」
ツクモの声が、静かに響いた。
オズワルドは息を整えながら、彼を振り返る。
「獣喚び?」
「ああ。獣にしか聴こえない声で、獣を操る術だ。……主の親父殿も、得意としていた」
ツクモは、金色の瞳を細める。それは、どこか遠い記憶を思い出すような眼差しだった。
「領主となったことで、目覚めたのだろう」
オズワルドは、改めて自らの手を見つめる。
これは——新たな力。血の刃を得ただけではない。
彼は今、"吸血鬼"としての本能を、領主としての力を、確かに手にしつつある。
——悪くない。
「……面白くなってきた」
オズワルドは、薄く笑った。
静寂が戻る。
聖騎士の屍が散らばる庭に、再び夜の冷たい風が吹き抜けた。
闇の奥へと消えたハンスの残像がまだ瞼に残る。
彼はまた現れるだろう。
そして次こそは、"決着"をつけるために。
オズワルドは、深く息を吐いた。
まだ心臓が高鳴っている。
手の中の紅月も、熱を帯びたまま震えていた。
——だが、今は、それよりも。
彼はゆっくりと顔を上げる。
屋敷の正面にそびえる黒き塔、そして扉の奥へと続く廊下。
そこには、自らが生まれ育った館がある。
「……帰ろう」
オズワルドは静かに呟いた。
その言葉に、ツクモは小さく鼻を鳴らし、肩をすくめる。
「ようやく落ち着いたか。……ま、いいさ。屋敷まで戻るぞ」
金色の瞳が、オズワルドを見据える。
まるで彼の"変化"を見極めるかのように。
だが、ツクモはそれ以上何も言わなかった。
屋敷の扉を開けると、古びた空気が静かに揺れる。
積み重ねられた時間の匂いが満ちるその空間に、オズワルドは静かに足を踏み入れた。
まるで長い眠りから目覚めたように——
だが、彼は知っている。
これは"帰還"ではない。"始まり"だ。
"領主"としての道が、ここから始まるのだから。
――to be continued――
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