第4話 ー赤き聖堂ー

その日、帝都ゾルディナの空は晴れ渡り、赤と白の帝国旗が広場に翻っていた。

 聖騎士たちの凱旋――それは、神の名のもとに戦い、勝利を掴んだ英雄たちの帰還であるはずだった。


 街の広場には多くの民が集い、誇り高き帝国の騎士たちを迎えんと、賛美の歌が流れていた。

 老いた者はかつての戦を思い起こし、幼き者は輝かしき戦士の姿に憧れを抱いていた。

 

 酒場では早くも祝宴の準備が進み、広場の中央には帝国の象徴たる黄金の鐘が据えられ、まもなく鳴り響くはずだった。


「きっと、壮大な行軍が見られるぞ!」

 

「聖騎士様たちは、また一つ、帝国の歴史に名を刻まれたのだ! 」


 人々は疑いすらしなかった。

 彼らが信じてきた神聖なる軍勢が、異端の吸血鬼どもを滅ぼし、血の審判を完遂したと。

 そうでなくてはならぬ。それこそが、帝国の、そして神の威光を示す証なのだから。


 ――しかし、その希望は、無惨にも裏切られる。


 帝都ゾルディナの城門が開かれたとき、広場に沈黙が広がった。


 そこにあったのは、勝利に沸く凱旋軍ではない。

 血にまみれ、歩くのもやっとの兵たち。

 疲弊し、鎧の隙間からは赤黒い血が滲み、肩を借りなければ立つことすらできぬ者たち。


 傷だらけの旗が、まるで敗北の象徴のように風に翻る。

 凛々しき軍勢の帰還ではない。そこにあるのは、戦場をさまよい、ようやく生還を果たした者たちの、残骸の行進だった。


 黄金の鐘は、鳴らされることなく、ただ広場に静けさを刻む。

 

 だが、その中で一際異彩を放つ者がいた。


 生まれながら灰色の髪の毛を持つ男。

 赤の騎士団・大隊長、灰色のスヴェン。


 黒き鎧に赤きマントを翻し、その堂々たる体躯は揺るがぬ威厳を保っている。

 だが、彼の左頬から額にかけて、痛々しく焼けただれた傷が走っていた。

 王都ブラッドハイム領主と妻を斬り伏せた後、天井から崩れ落ちた炎の梁が、彼の顔を焼いたのだ。


 彼の傷は、剣戟によるものではない。

 あの地で彼を焼いたものは、確かに"人の刃"ではなかった。


 しかし、それでも彼の鎧には傷ひとつついていない。

 まるで神の加護を受けたかのように——


 だが、スヴェンは知っている。神は、彼を見捨てたのだ。

 

 ――血の間 - 神の名のもとに。


 ゾルディナ帝国・神聖宮殿、血の間。


 血の聖母サングレナの巨大な石像が、ルキウスの背後で沈黙を湛えていた。

 赤き法衣を纏う法王ルキウス・アークレイドは、静かに彼の前に膝をつくスヴェンを見下ろす。


「これは、どういうことだ? 」


 声は静かだったが、その静けさこそが、尋常ならざる怒りを示していた。


「貴様は、赤の騎士団の大隊長。"神の刃"として戦場を統べる者。ならば、何故このような有様なのだ? 」


 スヴェンは、ただ黙って膝をついたまま、視線を前に向ける。


 法王の手が王笏を小さく叩いた。


「報告せよ。何があった? 」


 スヴェンは、一つ息を吐く。

 何を語ればよいのか。あの戦場で"異質な何か"を感じた、だが、それを言葉にするのはあまりに曖昧だ。


「……"何か"がいました」


「"何か"?」


 ルキウスの目が細められる。


「貴様ほどの男が、"何か"としか言えぬのか? 」


 スヴェンは答えない。


 あの戦場にいたのは、吸血鬼たちだ。

 だが、彼が感じたものはただの吸血鬼ではない。

 あれは、もっと禍々しい何か——決して、人の理の範疇には収まらぬ"異形"。


「法王陛下、ご冷静に」


 玉座の間に静かな声が響いた。


 漆黒の法衣を纏う男——ヴァーミリオン大聖堂の大司教、ウィル・バルサザーク。


「これは試練なのです」


 ルキウスの視線がウィルへと向けられる。


「試練、だと? 」


「陛下はご存知のはず。我らが聖母サングレナは、戦の果てにさらなる血を求められる方。ならば、これは"神の御意思"ではありませんか? 」


「……」


「吸血鬼がもがくのは当然のこと。しかし、それが何になります? 」


 ウィルの声は穏やかだが、まるで爪先で切り裂くような冷たさがあった。


「むしろ、これは"神の審判"の時が近づいている証。聖母がさらなる血を求めておられるのです」


 ルキウスの表情が僅かに変わる。


「……そうか……。これは"血の収穫"の兆しか」


「さようです、陛下」


 ウィルは、心の内で微笑んだ。

 この男は、決して私を疑わない。



 ――赤の聖堂・地下祭壇


 法王が去った後、ウィルは静かにヴァーミリオン大聖堂の奥へと進んだ。


 そこは、"血の聖堂"とも呼ばれる地下祭壇——吸血鬼の血を集める場。

 冷たい石壁に刻まれた古い聖句が、淡い燭光に照らされる。


「——オズワルド・ブラッド、か」


 ウィルは、ゆっくりと聖杯を持ち上げる。

 その底には、黒く澱んだ血が溜まっていた。


 すでに知っている。聖騎士たちが敗れた理由も、オズワルドの覚醒も。

 だが、スヴェンはそれを"見ていない"。

 それならば、法王に真実を話す必要もない。


 ウィルは杯の血をゆっくりと回し、ふと微笑む。


「あの男の血を捧げれば、他の血はいらない……さあ、オズワルド……どう出る? 」


 聖杯の血が波紋を描き、赤の聖堂の奥へと沈んでいく。

 その瞬間、ウィルの瞳が僅かに揺らめいた。


 静かな微笑をたたえたまま、ゆっくりと目を伏せる。

 そして、ふたたび瞼を開いたとき——


 黒い瞳は、血のように深い紅へと染まっていた。


 瞳孔は針のように細くなり、まるで暗闇の中で獲物を捉える獣のように鋭く光る。

 ウィルは喉の奥で短く笑い、ゆっくりと口角を上げた。


 白く尖った牙が露わになる。


 普段は丁寧に隠されているはずの、吸血鬼特有の長く鋭い牙が、静かに闇の中に浮かび上がる。

 人間のふりをするために、いつも押し殺している本性——

 その仮面が、ひび割れたかのように、わずかに剥がれ落ちる。


 ウィルは薄ら笑いを浮かべたまま、聖杯を指で軽く撫でる。


「……まったく、人間の目を欺くのは骨が折れるな」


 そう呟くと、彼はゆっくりと背もたれに身を預ける。今も、どこか満ち足りたような微笑を浮かべながら。


 静寂の中で、赤き瞳だけが冷たく煌めいていた。

 


 ――ゾルディナ帝国・聖堂宮殿


 重厚な大理石の柱がそびえる荘厳な宮殿は、信仰の中心であると同時に、法王ルキウス・アークレイドの権威の象徴でもある。

 

 消えかけた火が、再び燃え上がる。

 

「どういうことだ……! 」

 

 その中心に座する男の表情は、怒りに歪んでいた。


 王座の肘掛けを乱暴に叩き、法王ルキウスは吠えた。

 先の聖騎士団の遠征は惨憺たる結果に終わり、生還者は僅か。

 それどころか、赤の騎士団の大隊長スヴェンですら、大火傷を負って戻ってきた。


 この報告は、ルキウスにとって屈辱以外の何物でもなかった。


「なぜ、神の名のもとに仕える聖騎士たちが、汚らわしき吸血鬼ごときに敗れるのだ! "血の審判"は、我が聖母サングレナが人間に与えた試練……それを、この私が主導しているというのに! 」


 怒りに震えるルキウスを前にしても、ヴァーミリオン大聖堂の大司教ウィル・バルサザークは、微笑を崩さなかった。


彼は静かに玉座の前に跪き、慎重な声音で言葉を紡ぐ。


「陛下、ご心配には及びません」


「心配などしておらん! 」


 ルキウスの目が、血走る。

 しかしウィルは、あくまで冷静だった。


「……確かに、聖騎士団の損耗は予想以上のものでした。しかし、これは単なる"戦の失敗"ではなく、むしろ"好機"であると考えます」


「好機だと?」


 ルキウスは唇を歪める。


「何が好機だ! 我らが誇る灰色のスヴェンですら、あのような有様……これは帝国の威信を揺るがす大問題だぞ! 」


「ですが陛下……」


 ウィルの口調は、決して慌てることなく、むしろ楽しげですらあった。


「この戦いにおいて、敵の強さを見誤ったことは事実。ならばこそ、次に取るべき手は明確ではありませんか? 」


「……」


 ルキウスは黙り込んだ。

 その瞳には、苛立ちと同時に僅かな興味が浮かんでいた。


 ウィルは、その微細な反応を見逃さなかった。


「今回の敗北を踏まえ、より"確実"な手を打つのです。新たな指揮官として、赤の騎士団の隊長フランキスカを任命し、より大規模な軍を派遣します。——より大規模な"血の審判"を、ここに執り行いましょう」


 その言葉に、ルキウスの怒りが僅かに和らぐ。


「……フランキスカか。確か、まだ若い女だったな」


「ええ。しかし、彼女は貴族としての誇りを持ち、軍略にも長けた才女。彼女に指揮を任せれば、スヴェンの敗北を汚名とはしません。むしろ、より大きな勝利へと繋がるでしょう」


「ふむ……」


 ルキウスは考え込むように顎を撫でる。

 そして、僅かに眉を上げた。


「だが、それだけでは足りぬな」


 その声音には、明らかな欲が滲んでいた。

 

「"血の審判"には、もっと確実な戦力が必要だ……」


 ウィルの目が僅かに細められる。


「まさか」


 彼が問いかけるより先に、ルキウスはゆっくりと告げた。


「ハンス・ブレナンを連れてこい。"処刑人"が加われば、今度こそ確実に吸血鬼を狩れるだろう」


 ウィルは、静かに目を伏せた。そして、慎重に言葉を選びながら口を開く。


「……陛下、お忘れなきように。ハンス殿は、帝国の"忠犬"ではございません」


「だとしてもだ」


 ルキウスは唇を歪め、笑みを浮かべた。


「人とは"名誉"のためなら従うものよ。もし奴が断れば、その身に"血の審判"を下せばよい」


 ウィルは、それ以上は言わなかった。

 ただ、心の中で笑う。


 ——ハンスは、従わない。それも、すでに織り込み済みだ。


 ――帝都ゾルディナ・ハンスの住まい


 夜の闇が町を包み、路地には霧が漂っていた。

 帝国の繁華街からやや離れた一角、そこに佇むのは一軒の質素な家。

 他の町人と何ら変わりのない、何の変哲もない住まい。


 だが、この家の扉を叩く者は少ない。

 そこに住まう男の名を知る者ほど、その門をくぐることをためらうからだ。


 ——ハンス・ブレナン。"処刑人"と呼ばれる吸血鬼狩り。


 その扉の前に、黒と赤の甲冑を纏った数人の騎士が立っていた。

 ヴァーミリオン大聖堂の騎士、"赤の騎士団"の者たちである。


 扉の前に立つ騎士の一人が、短く咳払いをし、拳で扉を叩いた。


「ハンス・ブレナン! 我らは帝国聖堂の使いである! 開門されたし! 」


 しばしの静寂。


 扉の向こうから、何かが動く音が聞こえた。

 ゆっくりと、扉が開く。


 その先に立っていたのは、ぼさぼさの黒髪を持つ男。鋭い目つきの奥に、疲れたような、あるいは退屈したような色が見える。


 彼は、扉を半分ほど開いた状態で、まるで面倒くさそうに呟いた。


「……何だ、こんな夜更けに」


 前に立つ騎士は、わずかに眉をひそめるも、威厳ある声で語りかけた。


「法王陛下の命により、貴公を召集する。"血の審判"はまだ終わっていない」


 ハンスは眉一つ動かさない。


「悪いが、俺は帝国の犬じゃないんでな。帰れ」


 騎士たちは顔を見合わせる。

 事前にハンスの頑固さは聞いていたが、ここまであっさりと拒絶されるとは思っていなかったらしい。


「……貴公、この話の重要性がわかっているのか? 吸血鬼を狩ることは、お前の本懐ではないのか?」


「ふ、違いない」


 ハンスは軽く頷いた。


「だがな、それは俺が"好きで"やってることだ。誰かに命令されてやるものじゃない」


 騎士が舌打ちする。


「ならば、法王陛下の御心を踏みにじるというのか」


 ハンスは薄く笑う。


「踏みにじる? そもそも、俺はあのデブを崇めた覚えはねえんだが? 」


 騎士の顔が怒りに染まる。

 腰に手をやり、柄を握るが——その手を隣の騎士が静かに押さえた。


「……無駄だ。話しても、こいつが従うとは思えん」


 ハンスは面倒くさそうに片手を上げた。


「ご名答。さっさと帰りな」


 騎士は、鼻を鳴らし、踵を返した。


「……フランキスカ隊長に任せるしかないな」


 その名を聞き、ハンスの顔にわずかな変化があった。


「……ほお、お前らの隊長がわざわざ俺なんかに会いに来るのか?」


 騎士たちは無言で去っていく。

 ハンスは扉を閉めながら、小さく舌打ちした。


「まったく、貴族ってのは、しつこい連中だな」



 ――翌朝。


 扉を叩く音が響く。


 先ほどの騎士たちとは違い、今度は一人。

 扉の向こうに立っているのは、赤のマントを纏った女。

 赤毛を持ち、白磁のような肌をした若き女騎士——フランキスカ。


「……また貴族か」


 ハンスは苦々しく呟きながら、扉を開けた。


 フランキスカは、ハンスの前に立ち、真っ直ぐな眼差しを向ける。


「ハンス・ブレナン殿、貴方に改めてお話がしたい」


「話なら昨夜、あの連中とした」


 ハンスは扉を閉めようとした。


 だが、その動きを阻むように、フランキスカはわずかに足を踏み出す。


「待ってください」


 その声は、先ほどまでの冷静なものとは違っていた。

 どこか、探るような、慎重な響きを帯びている。


「何だ。まだ話すことがあるのか」


 ハンスは眉をひそめた。


 フランキスカはしばし躊躇した後、静かに口を開く。


「なぜ、そこまで攻撃的なのです?」


 その言葉に、ハンスの目が細められる。


「……どういう意味だ?」


「貴方の態度です。まるで私たち貴族が、憎むべき敵であるかのような物言いをなさる」


 フランキスカは真っ直ぐにハンスを見つめる。

 揺らぎのない瞳。貴族の誇りと自信に満ちた眼差し。


「私はただ、貴方の力を借りたくて来ました。それが、そんなに不快でしたか?」


 ハンスは短く鼻を鳴らした。


「……そういうところさ」


 フランキスカが眉を寄せる。


「何がです?」


「お前たち貴族は、いつもそうだ。上から手を差し伸べてやってるつもりなんだろう。『力を借りたくて来た』? 違うな。『都合よく使いたいだけ』だろう」


 ハンスの声音には、抑えきれない苛立ちが滲んでいた。


 フランキスカは微かに目を伏せた。

 彼女の口元が少しだけ引き締まる。


「……なるほど。貴方は、貴族を嫌っているのですね」


「そうさ」


 ハンスは即答した。


「俺にとって、貴族なんざ、平民を搾取するために存在するだけの道具だ」


 フランキスカの表情がわずかに険しくなる。


「私たちは、そんなつもりで生きているわけではありません」


「知るかよ」


 ハンスは短く言い捨てた。


「だから、俺は貴族ってやつを信用しねえんだよ。結局、平民の命なんざ、貴族にとっちゃ"数"のひとつに過ぎねえ」

 

 フランキスカは沈黙した。

 

「そんなもんがいるなら、俺はまだ"見たことがねえ"な」


「お気持ちはわかりました……"今回は"身を引きます。血の審判まで猶予がありますし、それに途中で気が変わるかもしれません。ですが……私はハンス殿、貴方を必ず我が騎士団に引き入れます」


 そう言い残し、早朝の閑散とした街中へと消えていった。

 

 扉が音を立てて閉じる。


「……"今回は"って……また来るつもりなのか……」

 

 静寂が戻った屋敷の中で、ハンスはただ、一人酒を煽った。



 ――to be continued――

 

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