第2話 ー血と陰謀と目的ー

「……何か、おかしい」


 あのときは惨劇を目の当たりにし、何も考える余裕がなかった。だが、今になって妙な違和感が湧き上がる。


 ——流血の量が少なすぎる。


 吸血鬼は死ねば灰になる。しかし、流れた血まで消えるわけではない。だが、ここに残された血の痕跡はあまりにも少なかった。


「……嫌な予感がする。杞憂だといいが……」


 そう呟きながら、ふと空を見上げる。灰と黒煙に覆われていたはずの空は、いつの間にか橙色に染まっていた。


 通常、吸血鬼は陽の光に弱い。だが、東の国に生きる吸血鬼たちは例外だった。生まれながらにして日光への耐性を持ち、昼間でも行動できる。

 

 そのおかげで襲撃者たちに対し、ある程度は抵抗できた。だが ——奴らの持つ銀の武器には抗えなかった。


 崩れ落ちかけた城を見つめながら、オズワルドはふとあることを思い出した。

 かつて両親と共に過ごした別邸が、蛇の森 ——広大な森林の中心にあることを。


 生き延びるために、そこへ向かうしかない。


 だが、問題があった。蛇の森へたどり着くには、人間の領土を横断しなければならない。


 オズワルドは唇を噛みしめ、ゆっくりと歩き出した。


 闇の帳が降りた夜に、一筋の光が揺らめいていた。


 血の匂いに誘われるように、その灯りへと歩み寄る。焚き火だ。焚き火は太古から人間を守る象徴だった。獣の眼を欺き、寒さを払う温もり。だが、今そこに座すのは獣以下の者どもだった。


 燃えさしに照らされた鎧の影。武器にこびりつく赤黒い血。まるで誇らしげに纏う勲章のように。


「ぎゃははは!見たかよ、あの吸血鬼どもをよぉ!」

 

「俺の足に縋りながら、『命だけは!』って泣き喚いてさぁ!」


 嗚咽するかのように木々が揺れ、風が呻いた。


「んで、首跳ねたんだろ? 知ってるよ、ここに来るまで何回その話聞かされたか」

 

「ひっひっひ、まあいいじゃねえか。最高の狩りだったぜ!」


 無邪気に語るその声が、耳を腐らせるように響く。


 オズワルドは静かに目を閉じた。


(これほど醜く、これほど哀れなものを、私は他に知らない。)


 ふっと息を吐く。その吐息が、空気を凍らせるようだった。


 ——殺すのは簡単だ。だが、地獄へ沈めるなら、時間をかけたほうが良い。


 奴らが眠るのを待つ。

 夜が完全に支配権を握るその時を——。


 そして――

 

 深夜——沈黙の帳が降りた頃。


 焚き火は燼となり、微かな赤だけを残していた。闇がすべてを包み、夜の底へと沈める。


 オズワルドは影のように滑り込み、音もなく獲物へと滲む。


 見張りの兵士は、まるで夢と現実の狭間を彷徨うように、頭をかくりとかしげていた。死は、いつもこのように訪れるのだろう。ゆるやかに、静かに。


 彼の腰には、上等な短剣。


 オズワルドはそれを抜き取り、喉へ当てる。鋼が肌に触れた刹那、兵士のまどろみが引き裂かれる。


「……っ!」


 しかし、声は音になる前に止まった。空を裂くように刃が閃き、血の匂いがふわりと舞う。


 兵士は地面に沈んだ。喉を押さえ、短く痙攣し——そして、動かなくなった。


 オズワルドは瞬きもしない。命が消える瞬間を、ただ見つめていた。


 夜が、より深くなった。


 次は、テントの中の者たちだ。


 獲物へ忍び寄る黒猫のように、音を殺して進む。


 中では、男たちが無防備に眠っていた。鎧を脱ぎ去り、ただの肉塊となった姿を晒している。


 オズワルドは躊躇いなく刃を振り下ろす。


「……っ!」


 短剣が肉を裂き、温かい赤が肌を濡らす。男の呼吸は、次の瞬間には永遠に止まった。


 隣で寝ていた者にも、同じ運命が訪れる。


 ——訪れるはずだった。


「……ん? なんだ? 誰かいるのか……?」


(しまった…!)


 目を覚ました男が、殺気を察する。間髪入れずに短剣を振るうが、鋼が弾かれる音が響いた。


「く……! 貴様、何者だ!」


 腕力、勝てない。体格差、当然勝てない。己の非力さに腹が立つが、そんな事を考えている場合では無い。


 オズワルドはすぐに短剣を拾い、もう一度襲いかかる。しかし、相手は容易くそれをいなし、力で押し負ける。


「ちっ……!」


 その隙に、男は叫んだ。


「起きろ! 襲撃だ!」


 眠っていた者たちが、次々と目を覚ます。鉄が擦れる音、剣が抜かれる音。


 次の瞬間、オズワルドは完全に囲まれていた。

 

「おいおい、何かと思えば、ガキじゃねえか。」


 焚き火の向こうで、汚れた鎧を着た男がニヤリと笑う。


「ん?……おい、見ろよ。眼が赤ぇぞ。」

 

「ははっ! こりゃ吸血鬼か! しかもまだガキじゃねえか!」


 周りの男たちも、一斉に下卑た笑いを上げる。焚き火の影が、歪んだ顔を照らし出す。


「へへっ、こりゃいい。狩りの延長戦といこうぜ?」


 ギラリと銀の刃が焚き火の光を反射する。

 男が剣を握りしめ、ゆっくりと歩み寄ってきた。


 オズワルドは一歩も動かず、ただ冷ややかに彼らを見据えた。


(……ここで終わるのか。)


 血に汚れた地面。鉄と脂の匂いが鼻を刺す。

 人の屑どもが、悪意を玩具のように振り回している。


「人間様をナメた罰だ! ひと思いに首、はねてやるよォ!」


 銀の刃が弧を描き、振り下ろされる——その瞬間。


 ——オオォーーーーーン


 夜が吠えた。


 1つの咆哮が森の静寂を引き裂く。


 木々がざわめき、焚き火の炎が揺れる。森の中を何かが駆け抜ける音が、土を震わせた。


「ん……? なんだ?」


 闇が動いた。


 次の瞬間、白銀の閃光が弾けた。


 月光を浴び、滑らかな毛並みが浮かび上がる。


 ——白き人狼、ツクモ。


 野蛮な人間どもが、知らぬ異国の巨獣。


 そいつの圧倒的な質量が、襲いかかってきた男を無造作に押し潰した。


 グシャッ。


「ぎゃああああっ!!」


 鉄は脆く潰れ、骨は鈍い音を立てて砕けた。弾けた赤が、地に滲み広がってゆく。

 

「お、おい! なんだあれは!? でっけえ狼か!?」

 

「ち、ちげえ! 化け物だ、化け物だろアレェ!!」


 あれほど無邪気に笑っていた男たちの顔が、一瞬で蒼白になる。


 ツクモはゆっくりと立ち上がり、焚き火に映るその姿は、まるで夜の主そのものだった。


 金色の瞳が、獲物を狙うように光る。


 夜が、狩りを始める。 


 騎士たちの断末魔が夜の静寂を切り裂く。


 オズワルドは軽やかに舞い、銀の刃を翻す。ツクモの巨躯が跳び、骨を砕く。


 死が、戦場を覆い尽くしていた。


 その時——赤が飛沫を上げ、偶然にもオズワルドの唇を濡らした。


「……っ!」


 喉の奥に落ちた滴。舌を灼くような熱。

 鼓動が速くなり、視界が揺らぐのを感じる。

 全身が、歓喜に震えた。


(……これが、人の血……?)


 ありえないことだった。


 オズワルドの国では、人間の血を口にすることは禁じられていた。

 古くから吸血鬼と人間の間には微妙な均衡があり、血を奪うことで戦の火種となるのを防ぐため、吸血鬼は動物の血だけを糧としていた。


 それは、あまりにも当たり前の掟。

 生まれてこの方、一度たりとも破ったことはない。


 ——なのに。


 今、舌に残るこの味はどうだ。


 甘美、濃厚、脳髄を痺れさせるほどの悦楽。


 ——楽しい。こんなにも、楽しいのか。


 月光の下、舞うように刃を振るう。

 鮮血が弧を描くたび、喉を鳴らし、悦楽に溺れるように屠っていく。


「う、うわああああっ!!」

 

「化け物だ! こっち来るな!!」


 阿鼻叫喚の声が響く。


 オズワルドは足を止めない。

 もはや、彼を止められるものなど何もなかった。


 その様子を、ツクモは静かに見ていた。

(……これは、さすがに引くな)


 しかし、戦場に躊躇は不要。


 ツクモはため息をつき、転がる騎士の首元に牙を突き立てた。

 肉を裂く音。骨を砕く感触。温かい血の味。

 

「……俺にとっては、食い慣れた味だがな……」


 夜の森に、咀嚼音と絶叫が溶けていく。


 血の海と化した野営地。

 肉が裂け、骨が砕け、静寂が戻った街道。


 返り血を浴び、紅く染まったオズワルドは、夜風を受けながら荒れ果てた戦場を見渡した。


「……やりすぎたか?」


 血と鉄の匂いが鼻を刺す。

 だが、胸の奥にはまだ消えぬ高揚感が渦巻いていた。


「おい、主よ」


 ツクモの声が、夜の沈黙を破った。

 彼もまた、白銀の毛並みを血に染め、無造作に立っている。


 「余韻に浸ってんのはいいが、さっさとしろよ。誰か来たら面倒だろ」


 オズワルドはふっと口元を歪める。


「……ああ、だけど、その前に確認することがある」


「は? なんだよ」


「……野盗にしちゃ、装備が妙に整いすぎてるとは思いません?」


 ツクモは僅かに眉をひそめ、視線を戦場に巡らせた。

 確かに、鎧や武器は野党のものとは思えないほど精巧だ。


「たしかに……誰かに雇われたか?」


「可能性はある。だから、手がかりを探します」


「はっ?本気か?…ったく……早くしろよ。何かあったら知らせてやる」


 ツクモは野営地の外へ向かい、街道を見張り始めた。


「頼んだよ」


 オズワルドはそう言い、戦場を歩き出した。


 だが、あまりにも血と肉が散乱しすぎていて、まともな証拠を見つけるのは困難だった。

 頭を砕かれた死体、引き裂かれた鎧、転がる腕と足。

 無残な亡骸が、ただ無言で転がっている。


 ——だが、その中に、異質なものがあった。


 派手な装飾が施されたテントが、一つだけポツンと建っている。

 他のものと違い、明らかに指揮官用のものだ。


(……隊長か?)


 オズワルドはテントの中へ足を踏み入れた。


 中には、一人の男が横たわっていた。

 装飾の施された甲冑を纏い、喉を裂かれたまま動かない。

 既に事切れている。だが、その手には何かが握られていた。


 ——紙片。丸められた文書。


 死してなお、その指はそれを離さない。

 オズワルドは無言でそれを剥ぎ取り、広げた。


 そこには、ただ一行——


「法王ルキウス・アークレイドの名の下に、"吸血鬼の血"を余さず回収せよ——」


 瞬間、彼の瞳が細められる。


(……吸血鬼の血を、回収? なぜ?)


 これがただの虐殺ではないことは明白だった。

 吸血鬼を滅ぼすだけなら、血など必要ない。

 それを"回収"するということは、何か別の目的がある。


 オズワルドはもう一度、文書を読み直す。


 法王ルキウス・アークレイド——人間至上主義を掲げ、吸血鬼を"穢れた一族"と断じた男。

 だが、その男が「吸血鬼の血」を求めているのか。


(何かがおかしい……)


 考えを巡らせるオズワルドの脳裏に、一つの可能性が過った。


「法王は……なぜ血を求めているのか?」


 ——その答えを知るために、行くべき場所は決まった。


 ゾルディナ帝国。


 オズワルドは文書を握りしめ、静かに立ち上がった。


 ——すべての答えが、そこにある。



 ――to be continued――

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