VAMPIRE LORD -序-

野衾

第1話 -最後の吸血鬼-

あなたの弟の血が地からわたしに叫んでいる。

 ――創世記 4章10節

 

 「境界」――世界のどこかにあると語られる、神々に見放された大陸。

 

 そこには、人間、亜人、獣人、吸血鬼という四つの種族が交わり、生きてきた。

 果てなき荒野と深き森、氷に閉ざされた北方と、熱砂に揺らぐ南部――

 異なる大地の上で、それぞれの種は、それぞれの理を持ち、血を継ぎ、歴史を紡いできた。


 境界の地では、血こそが神聖なるもの。

 血は命の証であり、魂の器であり、時に契約の象徴ともなる。


 人間にとって、血とは神の祝福に等しい存在。

 神々が地に降ろした恩寵の証として、血を掲げ、その流れの中に理を見出す。

 彼らの宗教では、血を捧げることで神へと近づくことができるとされる。


 一方で、亜人や獣人にとって、血は自然の循環の一部に過ぎない。

 狩るものと狩られるもの、命の移ろいの中にある単なる流動。

 彼らは血を畏れず、それをただ生命の理として受け入れていた。


 だが、吸血鬼にとって、血は「関係の証」だった。

 血を分け与えることは、ただの施しではない。

 それは深い信頼の証であり、時に交わりに等しい神聖なる契約だった。

 彼らは血を通じて絆を結び、血によって支え合い、血の中に生きてきた。


 ――それこそが、彼らが異端とされた理由。


 血を神とする人間たちにとって、血と共に生きる吸血鬼は、穢れし存在だった。

 神聖なるものを飲み、分け与え、契りを交わす。

 それは敬虔なる信徒にとって、最大の冒涜であり、最も忌むべき罪であった。


 こうして吸血鬼たちは、不敬なる者として追われ、狩られ、葬られていった。


 そして、この世界の覇者は、ただ一つ――人間である。


 彼らは火を操り、鉄を鍛え、理を紡ぎ、幾千の歴史を築いた。

 そして、支配を正義とし、異端を闇へと葬る。


 人間至上の王、ルキウス・アークレイド。

 彼は宣言した。


「吸血鬼こそ穢れた血の徒。悪魔の手先たる禍根」と。


 銀の剣を携えし聖騎士たちは、その言葉を神託だと信じ、闇に潜む影を次々と狩り尽くしていった。


 ――東の王都、ブラッドハイム。

 

 燃える王都の空は、血の色に染まっていた。

 火の粉が降り注ぎ、崩れ落ちた尖塔の影が、ひしゃげた柱の間に長く伸びる。

 風が吹くたびに、炎の唸りと瓦礫の軋む音が響き、それに混じって、人々の叫びが絶え間なく響いていた。


 この地を統べていた者たちの末路は、すでに決していた。

 人間の王は命じ、銀の刃を持つ者たちは従った。そして、異端は灰となり、血は大地に吸われた。


 この世の理は残酷にして単純。

 人間は生き、異端は滅ぶ。


 誰もが、それを疑わなかった。

 まるで、それがこの世界の自然法則であるかのように。


 オズワルドは、ただ立ち尽くしていた。

 瞳に映る光景は、悪夢のようにゆっくりと進んでいた。

 焼け焦げた城壁、砕かれた石畳、炎に包まれた屋敷。かつてここが、彼の家だったなどとは、もはや思えないほどに。


 この場所は、城の"大広間"だった。

 王座の間へと続く空間は今やすでに炎に包まれ、天井を支える柱もまた、崩壊の兆しを見せている。

 

 野火のごとく燃える大広間の中心、一際目立つ大きな影がそびえ立っている。

 

 黒き甲冑に包まれた巨躯。

 その影は、炎の輝きをも呑み込むかのように、夜の闇と一つになっていた。

 彼の背には、一振りの剣があった。


 異様なまでに長大な剣。

 他の騎士たちが振るう剣とは、一線を画すほどに。

 銀で鍛えられたその刃は、まるで落ちゆく白銀の月のように、夜空に不吉な弧を描いていた。


 その剣は、ただの武器ではなかった。

 それは、「断罪」の象徴だった。


 その刃に触れた吸血鬼は、二度と蘇らない。

 傷を癒やすことも、血を吸って力を取り戻すこともできない。

 たとえどれほどの王族であろうと、どれほどの力を持っていようと、この剣の前では、すべてが等しく灰燼に帰す。


 そして今、その銀の裁きが向けられていたのは――


 吸血鬼の国。東の王都ブラッドハイム領主、フリードリヒ・ブラッドと、その妻。


 二人の吸血鬼が、膝をついたまま沈黙していた。

 かつての領主は背筋を伸ばしながらも、肩で息をするほどに傷つき、流れた血が地を赤く染めていた。

 

 隣にいる母の手は、小さく、ただ目の前の恐怖に震えていた。その仕草が、何よりも雄弁に、彼らの行く末を物語っていた。


「穢れし血族よ、汝らに裁きを」


 聖騎士は、静かに告げた。まるで神託を告げるかのような、冷たい声音だった。

 そこには怒りも憎しみもない。

 ただそこにあるのは、執行者としての確信。

 迷いもなく、戸惑いもなく。

 それは、世界の理を遂行する人形のようだった。


 オズワルドは、息を呑んだ。

 その瞬間、何かが崩れる音がした。


「――やめろ!」


 叫んだ。

 だが、その声は届かない。

 聖騎士の腕が、わずかに動く。


 その瞬間、夜が裂けた。


 長大な銀の剣が、空を裂く。

 まるで静寂そのものが斬り伏せられたかのように、世界が凍りつく。


 風が、鳴いた。


 断末魔すら許さぬ一閃が、二人を貫く。刃が父の胸を貫き、母の身体を断ち切った。


 そして――


 灰が舞った。


 風が吹く。

 父の姿が、母の影が、すべてが宙に溶ける。

 声も、温もりも、最期の言葉すらもなく、

 ただひらひらと、赤い月に吸い込まれていく。


 オズワルドの手が、無意識に宙を彷徨う。

 何かを掴もうとする。しかし、それは叶わぬ願い。

 指の間を、砂のようにすり抜ける冷たい感触だけが、残されたすべて。


「……違う、こんなはずじゃ……」


 膝が震える。

 怒りか、悲しみか、それすらも分からぬまま、ただ歯を食いしばる。

 そうするしか、心を保つ術がなかった。


 聖騎士が、ゆっくりと剣を持ち上げる。

 刃に絡みついた灰が、まるで新たな獲物を求めるかのように蠢く。


「――最後の一匹か」


 オズワルドの視界が、揺れる。

 銀の剣を掲げる無数の影が、彼を見下ろしている。

 彼らは笑っていた。

 異端が滅びることを、祝福するかのように。


「穢れた血族の幼子よ、貴様で最後だ」


 長大な剣が振り上げられる。銀の閃光が、ゆっくりと空を裂く。

 そして、振り下ろされ――


 轟音とともに、天井の梁が崩れ落ちた。


 熱風が吹き荒れる。

 灰と火の粉が舞い、赤黒い世界が煙に霞む。


「――今だ!」


 迷いはなかった。

 オズワルドは、本能のままに身を投じた。

 焼け付く喉、裂けた頬、傷ついた四肢――

 だが、そんなことはどうでもよかった。


  足が、勝手に動いていた。

 崩れ落ちる天井、爆ぜる炎、迫りくる死の足音――

 そのすべてが、彼の背を押していた。

 逃げなければならない。

 ここで立ち止まれば、すべてが終わる。

 だが、それは恐怖のためではなかった。

 彼の中で、亡き者たちが囁いていたのだ。


「生きろ」

 

「まだ終わらせるな」


 父の声が、母の願いが、灰となり風とともにそう聞こえた。気がする。


 彼は、運命を振りほどくように駆けた。

 熱に焼かれ、灰にまみれ、傷ついた身体を引きずりながらも、ただ前へと。

 この夜を生き延びることに、意味がある。

 この地獄を抜けることこそが、亡き者たちへの応えとなる。


 ――復讐のために。

 ――血の名にかけて。

 

 こうして、彼は命を拾った。だが ――失われたものは、あまりにも大きすぎた。 


 闇の底で、ひとり震えていた。

 冷えた石壁に背を預け、震える手で口を塞ぐ。

 嗚咽を漏らせば、それは死の呼び声となるから。


 遠く、炎に焼かれた国から、断末魔が響く。悲鳴、咆哮、絶望の叫び――

 それらは次第に途切れ、やがて沈黙が訪れた。


 代わりに残ったのは、人間たちの嘲笑と足音。鋼の鎧がぶつかり合う音、鈍く響く剣の鞘音、勝者の宴を思わせる、乾いた笑い声。


 ――すべてが終わったのだろう。


 静寂が戻るまで、ただ息を殺した。

 影に溶け、闇の一部となるように。


 そして、足音が消えたとき、オズワルドは歩き出した。

 崩れた城門をくぐり、灰に埋もれた祖国へと足を踏み入れる。

 瓦礫の下に埋もれた者たちを掘り起こし、その灰を、できる限り丁重に埋めた。


 墓標のない墓を、ひとつ、またひとつと築く。

 風が吹けば、積み上げた灰が揺らぎ、まるで亡き者たちが、別れの言葉を囁いているようだった。


 最後に、家族の眠る場所を作った。

 そこに、父のマントと、母のローブをかける。

 それは、二度と帰らぬ者たちへの、せめてもの弔い。


 そして、オズワルドは立ち上がる。

 燃え残った空の下、死者たちの沈黙が、彼の心を締めつける。


「……父上は言っていた。他の血族も、他の種族も、すでに没落したと。人間どもが生きる限り、この暴虐は終わらない。ならば、僕が王となろう。血の名のもとに統べるために」


 ――最後の吸血鬼は、そう胸に誓う。



 ――to be continued――

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