肩透かしの果てに
正月飾りを天に返し、ようやく人心地がついた頃。茶色い枯れ葉が足元の凍え切った風に、ほんの少し太陽の温もりを抱き締めている。
くちなし村を管轄する警察署では、正月三が日を休めなかった署員らも遅れた休日を過ごし、一時の浮ついた空気を楽しむ余裕が漂っていた。交通課の職員が、運転免許証の更新にやって来た老人と筆談を交えつつ手続きの案内をしていると、俄かに正面玄関でどよめきが沸き上がる。
得体のしれないリュックサックを背負った口の悪い男が、入って来るなり『殺人事件の担当はどこだ』などと尋ねれば、それはそうなるだろう。
案の定、物腰は丁寧だが屈強な男性警察官に網代勘一郎が事情を説明すると、彼は網代を捜査室へと案内した。
薄い仕切り扉が開かれた、小さな机とソファが並ぶ捜査室の客間に通される。
網代の向かいに二人の警察官が現れた。彼らは後ろ手に扉を閉め、手短に挨拶をすると、早速聴取を開始した。傍らに佇む警察官は、調書を取りながら額を揉み解す。
ソファに浅く腰掛けていた捜査室長を務める警察官が、眉間の皺を指先で数えた。
可笑しな話だ。全くもって不可解極まる。
網代は自分が七歳の頃、同級生を殺した。と、自供し始めたのだ。
その話は荒唐無稽のように思え、しかし確かな筋が通っており、出来ない事はない。と、結論せざるを得なかった。最も、事件が本当に存在するなら。という、前提の元だが。
警察官はじぃっと、彼が持っていた運転免許証や船舶免許証に不正は見られないか確認する。データベースを照合し、不正がない事はおろか、免許取得以来無事故無違反という、かえって信ぴょう性の低い情報まで確認できてしまった。
泡足 くちなし村の自治会長が持参させたという証拠品の数々は、充分に事件の可能性を示唆していた。また、過去には彼が暮している くちなし村周辺の海で身元不明の遺体が確認されたことも事実だ。しかし、自供を元に過去の事件を調べても、それらしい捜査資料は全く見つけられない。
あくまで可能性。しかも、彼の言う事件が存在したのなら、その回数は一回二回に留まらず、ましてや一年二年という短期間で終わった話ではないということになる。
その中の一件に彼が関与し、たまたま良心に咎められて訴え出たのかもしれない。
なら、こいつを逮捕し、事件を公表して終わり。と、そうはいかないだろう。容易に想像がついた。子どもが遊びで子どもを殺したなんて事件は、公表すること自体危険だ。例えそれが過疎村一つから広がった悪意の伝染だとしても、全てを抑え込む強力な一手が思い浮かばない。それこそ、核爆発でも起こさない限り根絶やしに出来ないだろうし、もしかしたら、それでも根絶やしに出来ないかもしれなかった。
一度その存在を知れば、どれほど上手に忘れる生き物であっても、無意識の領域に刻まれてしまう。
だが、ここで警察官は網代という男に、光り輝く事実を見つけた。
「網代さん。失礼ですが、あなたは最近まで療養施設にいらっしゃったとか」
「はい」
「具体的に、どのような御病気で入所されたのでしょう。ご説明いただけますか」
「もちろん。構いませんとも。入所当時、私は神経を病んでいました。自分が、先ほどお話した事件の当事者だと気づいてしまったからです。難しい事は分からんのですが、心理士の先生は妄想性パーソナレテイ障害だと仰っていました」
「その喉の傷はもしや……」
「はい。これは真実に気づいた時、自殺しようとしてしくじった痕です」
「ふぅむ。妄想性パーソナリティ障害ですか」
警察官の雰囲気が丸くなり、空気が温く弛緩する。
「大変失礼ですが、警察ではこれ以上のお話をお伺いすることはできません。療養所の連絡先は分かりますか?」
「そりゃあ、まあ。わかりますとも」
「では、そちらへお伺いしてください。貴重なお話をどうもありがとうございました」
「捜査はしてくださるんですか?」
「残念ですが。その事件は全てあなたの作った妄想。空想です。この世界には存在しない事件なので、捜査する事は出来ません」
「そんなバカな話が! いや、失礼。これだけ証拠が揃っているんですよ? これだけあって、どうして捜査が出来ないんですか」
「こちらのリュックサックに入っている物は、確かに重要な証拠品です。我々できちんと管理させていただきます。しかし、これがあるから、島で凄惨な事件があった。とは言い切れませんし、事件が存在しない以上、捜査は出来ません。麻薬取引については、早速担当部署へ引き継ぎ、捜査を開始しましょう」
「お、おい。待ってください。俺が信用できないなら、泡足さんに聞いてくださいよ。この写真の人を当たってくださいよ。跨道美果に訊ねてくださいよ。実際、島に行った子ども達の話に、耳を傾けてくださいよ!」
「いえ。決して、そうではなく。これらの証拠を持ってきたのが、彼であっても、彼女であっても、子どもであったとしても。関係はありません。事件がないから、捜査が出来ない。と、ただそれだけの事なんです」
「あったんだよ! 事件はあった! 俺達は全部、忘れたふりをしているだけなんだ!」
「大丈夫。大丈夫です。どうか、安心してください。誰でも、忘れたふりをしますし、突然、思い出したふりもします……」
「室長……。あの、そろそろ一班が戻る時間です」
「おっと。そういえば、そうだった。では、失礼いたします」
「待ってくれ、冗談じゃない! なあ、頼むよ。信じてくれなんて、言っていないだろう? ただ、調べてくれって。ちゃんと、あんた達の目で見て、確かめてくれって、お願いしにきただけじゃないか」
「あとを頼むよ」
「ええ。きちんとファイルしておきます」
警察官たちが立ち上がり、薄い仕切り扉を開けた。
網代はリュックサックだけを失い、身分証やらボイスレコーダーやらは全て元のように返された。彼自身も、案内役の警察官と共に元来た道を辿り、正面玄関の外から軽トラックを運転し、駐車場から出て行くまで、恭しく見送られたのだ。
濃紫色の雲が流れ行く、橙とした空の下。バックミラーの隅に映った警察官が敬礼をし、足早に警察署へ戻っていった。
網代は軽トラックを運転し、家を目指す。ただ、漠然と家を目指していた。家に帰ったらこうしよう。という思惑は一切なく、こうしたい。という願いも持たないまま。赤信号が目に入っても、足はアクセルペダルから離れない。
瞬間、小さな白い陰が軽トラックの目の前を横切った。慌てて強くブレーキを踏み込む。上半身が揺れ、シートベルトで胸が押し潰された。
「なんだ⁈」
網代は驚き、横切った影を目で追った。
真っ白な細面の猫が、網代の醜態を見つめている。猫は小さく顎を持ち上げると、赤々と燃える太陽の光に呑まれて消えた。
網代の胸に、幼い何かが生まれた。無垢で、無邪気な、激情の始まりだ。
「畜生……。驚かせやがって。心臓が止まるかと思った……」
網代は瞬きをし、微かに腰を浮かせてシートに座りなおすと、海を目指して発進させた。
「よくもやりがったな! お前もビックリさせてやらぁ!」
彼は濃藍の夜空が深緋色の太陽を沈める頃、漁港に辿り着いた。
酷い風が吹き始めている。星明りに照らされた海が潮騒を響かせていたものの、沖の方から轟々と迫る風音の前に、間もなく、かき消されるだろう。
漁港に人の気配はほとんどない。堤防の側に夜釣りを嗜む釣り客の姿が二つほどあったが、市場の煌々とした灯りはついておらず、閑散としている。網代は駐車場の真ん中に車を停めると、白猫を探して歩き回った。
「どこ行った」
自動販売機の上。水槽の陰。側溝の隙間。貝干し中の浮きの裏。猫が隠れそうな場所を探し、覗き込んでは、わっ。と、叫ぶ。彼にはそれが、酷く虚しい行為だと分かっていた。
「畜生。あの猫め。いるのは分かっているんだ」
疑う余地はない。彼の意識は、はっきりとしている。
「出てこいクソネコ! 畜生、こうなりゃ意地だ。絶対に見つけてやるぞ!」
網代が叫び、徘徊し始めると、釣り客たちが目を背けながら帰り支度をはじめ、そそくさと去って行った。
だが、網代はいるはずのない猫を探し続ける。彼はすでに、半生の中で数え切れないほど、決死の覚悟をしてしまっていたのだ。一年前、泡島に上陸する直前。全てを思い出し、泡足の推理を聞いた直後。僅か一年と少しの間でその数、すでに二回以上。彼はその時、その瞬間、命の全てを燃やし尽くしてでも願いを果たそうと誓っていた。だが、全ては夜毎の夢よりも鮮明に、しかし真実ほど確かにはならず、空回りに終わる。
命はとっくに使い果たしたはずだった。使い果たさなければいけなかったのだ。しかし、彼の身体にはまだ、こうして無駄な事に意地を張れるほど燃え滾る熱が宿っていた。全て燃やさなければいけない。激情だけが彼を動かしている。
堤防の端から端まで歩き、束になった鉤棒の隙間、丸まった網の中を覗き込む。網を掴み、わっ。と叫んで広げた。やっぱり、猫はいない。
轟。風が鳴る。堤防の上に忍び寄る夜闇が、細い月の光を覆い隠した。
「何しているんですか?」
低くくぐもった声。月さえ呑み込もうとして失敗した憐れな夜闇の正体を、星が暴き出す。
それは、一年前と全く変わらない姿をした跨道美果だった。
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