意地


 網代勘一郎が療養施設を出て、くちなし村に戻ったのは冬の事だった。神稚児祭りから間もなく一年が経とうとしている。

 山間の寒風に馴染んでいた網代は、分厚いレインコートとニット帽、マフラー、編み上げブーツという、おおよそ生温かい海辺の村へ行くには不釣り合いな格好で帰路についた。療養施設から帰る道中、彼は度々、足を止めた。回数は数え切れない。立ち止まる度に胸から耐え難い吐き気が込み上げてくるようで、首を縮め、肩を竦ませたが、いくら口を開こうと、公衆便器の縁に手を掛けようと、吐き出せるものは何もなかった。

 しかし、バスに乗り込み、くちなし村の傍までやって来ると、それまで胸中に渦巻いていた吐き気が、すぅっ。と消えて行く。結局、どれほど苦しい想いを抱いても、血と脳に刻まれた原初の記憶というのは覆せないようだった。

 網代が泡島神社分社前のバス停に降り立つと、待ち構えていたかのようにビャクシンの大樹が出迎える。彼は少々勿体ぶった態度でニット帽を脱ぐと、胸に抱えて挨拶した。

「よう。お前、大きくなったか?」

 ビャクシンの陰から、彼の妻、泡足、そして華恵が姿を現す。彼らはしばらく互いに抱き合い、再会を喜ぶと、社務所で小さな宴会を催した。


 華恵の通う小学校は、冬休みに入っていた。海はオフシーズンを迎えている。

 網代にとって、それは非常に好都合なタイミングだ。彼はブランクのある身体に鞭打って漁船に乗り込むと、早朝、霧立ち込める海をものともせず、沖に浮かぶ泡島目指して船を走らせた。

 泡島に上陸した網代は、小綺麗に草を刈られた島の中心に向かって歩き出す。目的の物は、探すまでも無く見つかった。彼の記憶するものより数は減っていたが、確かにそこで成長を続けていたのだ。彼はいくらか刈り取って袋に詰め込むと、さっさと担いで島を後にした。

 漁港で、網代の船がない。という騒ぎが起こり始めた頃、彼は口笛吹きつつ何食わぬ顔をして堤防の向こうに現れた。騒ぎ立てる組合長らに向かって手を振ってみせる。組合長が目に涙を溜め、怒声を上げた。

「このお前馬鹿! 何をやっている、さっさと帰ってこい!」

 網代が船のエンジンを止め、ロープを腕に抱えている間に、組合長が船に跳び乗った。

「お前、自分の事が分かっていないのか? はっきり言ってやる。お前は病人だ! 漁に行くのは勝手だが、誰かに一言伝えてからにしろ! 家族も行く先知らねぇなんて、いかれてる! 沖で倒れても気づけなきゃ、助けには行けねぇぞ!」

 網代は組合長の腕を軽く押し退け、陸にいた小峰にロープを投げ渡した。

「心配してくれて、ありがとうな。今度からは、誰かに伝えてからにする」

 組合長はしきりに瞬きを繰り返しながら、陸に飛び上がる網代を見送った。陸に上がった網代を、小峰が首を縮めて窺う。

「網代さん、大丈夫っすか? 事務所のストーブ炊いてあるんで、温まってから……」

「おぅ、そりゃあ、ありがたい。甘えていくかな。ついでに、お茶くれないか」

「え。ええ……。お茶なら確か、ありますけれど」

「そいつは良い事だ。向こうへ行ってから、すっかりお茶が気に入ってなぁ」

 やれやれどっこいしょ。と、腰を撫でながら事務所の扉をくぐる背中を、小峰は大口を開けて見届けた。

 すっかり角が取れて丸くなった網代を、くちなし村では薄気味悪く言う声が多く聞かれた。漁港周りでは彼を真似しようという者も少しはいたが、しかし、一週間も過ぎると、人々は彼の変化を気に留めなくなり、いつもの訛声を響かせて罵り合った。


 冬休みの間、網代は妻と毎晩のように丁寧な話し合いを続けた。時には華恵を交え、彼女の話に耳を傾ける。

 華恵は賢い子であったが、決して、物分かりの早い方ではない。網代が小学生の頃よりも遥かに多くの言葉や知識を操っていたものの、当然、分からない言葉や間違った捉え方をしている部分も多くみられた。それは特に、彼女がまだ身に着ける必要のない諦めであるとか、経験していないにも関わらず決めつけた言い方をする時に顕著だった。

 例えばこのようなことがあった。

 夫婦が小学校に通いたいかと尋ねると、華恵は通いたいと答えた。だが、続ける。

「でも、もう むり。だって、おともだちも いなくなっちゃったし みんな わたしがみえないの」

「皆、目が悪くなっちゃったのかな」

「うぅん。せんせいと ほかのおともだちは みえるの。わたしだけ みえないし きこえないの。わたし かみさまになったのよ。とうめいなの」

「華恵。あなたは華恵よ。私たちの子よ。ここにいて、触れられる。こうして抱き締めれば、ちゃんと胸が温かくて、生きているって分かるよ。あなたは神様でも透明でもない」

「じゃあ、なんで みえないの?」

「それは無視されているの。華恵、大きな虫は怖くて嫌いでしょう? それがここにいたら、あっちを見て、気づかないふりをするんじゃない? それと同じことをされているの」

「そっか……。わたし、むし されていたのね。でも、なんで?」

「約束を破ったとか。喧嘩したとか。お友だちが止めてって言ったのに、何度も同じことをしたりしなかった?」

「してない。と、思う。わかんない。でも、なにか、しちゃったかも」

「心当たりがある?」

「うぅん。ない。でも、凪咲ちゃんは、お祭りが げんいん だって。わたしが かみさまになっちゃったから、みんな、嫌いになったんだって。だから いなくなったんだって」

「凪咲ちゃんは、華恵がみえるの?」

「うん。凪咲ちゃんは おともだち。 でも、会いたくない」

「喧嘩したの?」

「うぅん。会いたくないの。でも、凪咲ちゃんがいなくなったら わたし しんじゃうわ」

 このような具合だ。

 夫婦は幾度も彼女の勘違いを正しながら、話し合いの末、一つの結論に達した。

「華恵。来年度から、違う学校に通おう。それまでは今の学校で我慢するの。教室に行って、凪咲ちゃんやお友だちに会うのが怖いなら、保健室登校にしようよ」

 と、このように決まったのだ。


 年が明けた。小学校では新学期が始まる。

 華恵は初めての保健室登校に緊張した面持ちだったが、網代が抱き締め、腕を撫でて声援を送ると、ほんの少し丸まった肩を広げ、胸を開いた。背負ったランドセルの脇で、細長いお守り袋が揺れる。大きく伸びをしたブチ猫模様の守り袋と、母親に寄り添われながらも、彼女は自分の足で小学校へと向かった。

 網代は二人の姿が見えなくなるまで見送ると、リュックサックを背負って泡島神社分社の社務所を目指した。山から厳しさを増す寒風が吹き下りている。風はくちなし村で滞留するぬるい空気を海へ運びながら、沸き上がる霧を押し返そうと強く吹いた。

 社務所までやって来ると、狩衣の上に品の良いコートを羽織った泡足が何やら妙な体操をやっていた。大きく息を吸い込み、腕を振ったかと思えば息を吐き出し、顔を真っ赤にしてまで吐き続けている。彼は大きく胸を広げて息を吸い込むと、ぜぇぃぜぇぃ。と、荒い呼吸を繰り返した。

 泡足は呆然と立ち尽くす網代に気づいて顔を動かすや、ほんのりと浮かんだ額の汗を拭った。彼は気恥ずかしそうに手を振り、挨拶をする。低く、それでいて滑らかな声だ。

「これは。網代さん。はぁ、これはなんとも。お恥ずかしい」

「体操ですか?」

「ええ。最近、知りまして。ただ長く息をするだけの体操なのですが、これがなかなか、難しい。二回ほどで、ご覧の有様です。気分は良いのですが、まあ、変な体操でしょう?」

 網代は面白そうに手を振りながら笑った。

「良いじゃないか。楽しく続けられるなら、見た目が変でも続くもんだ」

 泡足が瞼を薄く閉じ、目尻の皺と変わらないほど目を細くする。彼は嬉しそうだ。

「あなたもどうです」

 網代は正直に答える。

「お誘いは嬉しいんだが、生憎、いつもの体操でいっぱいいっぱいさ。泡足さんもやっていたってくらいにしておかないと、身体が参っちまう。組合長を誘ってやんな。ありゃあ、結構寂しがり屋だからな。文句言いながら長く付き合ってくれるよ」

「残念。ですが、そうですね。私には、その方がいいかもしれません」

 泡足が瞼を開き、網代の全身を遠目に眺めた。

「大きな荷物だ。一体何が入っているんです?」

「そうさなぁ。ヒキアシタヂカラヲノミコトの置き土産って所です。もしかしたら、間違えて泡足さんに神罰がくだっちまうかもしれねぇ」

 泡足は鼻を天に向けて大笑いした。

「はっは! あの神様ならやりそうだ。ですが、ご心配なく。神罰なんてものは、非現実的な空想です。私は人なので、自分が世界に働きかけた分しか罰せられませんよ」

 そういって、泡足は体操をした。吸い込んだ空気が全身を膨らませ、吐き出されていく。古い空気をすべて吐き出し切ると、彼は再び、ぜぇいぜぇい。と、貪るように新しい空気を吸い込んだ。彼は胸を開き、背中を逸らして、顎を持ち上げる。

「ああ。しかし。いや。こんなことでは。なかなかどうして、美しく生きるのは難しい」

 泡足の火照った息が、凍える風に攫われ消えていく。乾いた空気が震え、透き通った呻きを響かせた。

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