真相
網代勘一郎が発狂した。割れたコップの欠片で喉を掻き切り、自殺しようとしたらしい。
幸い、夜半子どもの忘れ物を届けにやって来た泡足が網代の妻と共に現場を抑え、死なずに済んだ。酷い騒ぎになったので、娘が目覚めた事に誰も気づかなかったらしい。この知らせは風のように村中を駆けまわり、震撼させる。慣れない事で苦労していたせいだ。ストレスだろう。と、漁港では皆が囁き合った。発狂した男は山間の療養施設へ送られたので、しばらくは帰ってこないだろう。そのまま一生帰ってこなければいい。と、村の隅に木霊が響いた。
経営戦略チームリーダーが自殺未遂に追い込まれたという事態に、元ダイビングショップメンバーは厳しい反応を示す。泡足は引責辞任を表明したものの、泡島神社が有していた泡島本島の権利について、計画を引き継いだメンバーと争うことになり、交渉は夏の終わりが訪れるまで続いた。交渉の末、泡足はとうとうダイビングショップ側に権利を丸ごと移譲する形で合意し、一連の騒動は決着した。
秋風が吹き抜ける。冷たく澄んだ風が地表の熱を掻き抱き、去って行った。
泡足は花束を持って、くちなし村からバスと電車を乗り継ぎ一時間ほど離れた、山間の療養施設を訪れていた。彼はすっかり顔なじみになった職員らに挨拶をしながら、網代の行方を尋ねる。初老の職員が顎に手を当て、時計を見た。
「この時間帯なら、部屋じゃなくて植物園の方にいるかなぁ。ここ数日、かなり安定しているので、ご本人の希望で手入れをしてくださっているんですよ。一緒に行きましょう」
「ありがとうございます。では、甘えさせてください」
「はは! どうぞどうぞ。誰かに頼って貰えるというのは、若い時は煩わしくてかないませんでしたが、この歳になると、嬉しいものですなぁ」
巻き上がった風に、潮の香りは一切感じられない。歩く度、赤く色づいた木々の葉と枯れた草が揺れ、かなかなと鳴る。
泡足は分厚いコートの襟を立てつつ、首を竦ませた。
「穏やかな場所ですねぇ」
「でしょう?」
答える声は爽やかだ。
泡足がホールの扉を押し開くと、そこにはガラス張りの温室が広がっていた。
小さな鉢に植えられた多肉植物や、見上げるほど巨大なバナナの樹、両腕を一杯に広げても抱きかかえきれないほど太いバオバブなどが、あちこちに見られる。小さな植物園だ。
職員はホールの入り口に泡足を待たせ、木々の間を縫うようにして歩きながら、呼びかける。
「せぇんせぇい。網代さぁん。泡足さんが見えましたよぉ」
「おぉう。そっちへ行くよぉ」
バナナの樹の陰から、白衣を着た先生と網代が現れる。網代は腰から鋏の握り手が覗く道具ポーチを提げ、手には霧吹きを持っていた。霧吹きのトリガーを徒に握り、中空に霧をまき散らしている。泡足の眉尻が下がる。彼は腕を広げ、網代を待った。
「なんだい泡足さん。ずいぶん甘えん坊だな」
網代は軽口を叩きながらも抱擁で返し、久しぶりの再会を喜んだ。
和やかな笑みを浮かべて見守る先生を、網代が泡足に紹介する。
「この人は、俺の先生です。なんでも俺は、妄想性パーソナレテイ症候群だとかって奴だそうで」
白衣を着た先生が、少し困った様に唇を歪ませた。
「よろしく。しかし、網代さん。こちらの方がどれほど信用できる方だと言っても、本来病名というのは、あまり大声で言うものではありません。あと、症候群ではなく障害です。限定的ですよ。勘違いしてはいけません」
先生の溜め息に、泡足は共感する様に頷いた。
「素直なのが彼の魅力ですが、いやはや、それについては、私も思う所があります」
「あなたの様なご友人がいて、網代さんは本当に幸せ者です。積もる話もあるでしょう、私はこの辺で」
二人は先生と別れ、温室からバルコニーへ移動すると、視界一杯に広がった山裾を眺めながら、温めた紅茶を飲み交わした。琥珀色に透き通った紅茶に視線を落としながら、網代はぼんやりと呟いた。
「そっちはどうですか」
「ええ。島の権利を全て差し出す形にはなりましたが、やっと、決着がつきました」
「おっ。めでたい! 良かったなぁ」
「肩の荷が下りた心地です。ですが、良いのか悪いのか。彼らには少々、心配な部分もありますから。せめて大麻草を全て駆除してから。と、思ったのですがね……。それごと寄越せになってしまっては、説得しようがありません」
「くれてやりなよ。分社で管理できる分があれば、神事には困らないんだろう?」
「まあ、そうですが……。神様もあの島にはいなくなりましたし、困りはしませんが……」
「いつまでも抱えとくことは無いって。それより、俺の妻や華恵はどうしてます?」
「お二人とも、元気にしていますよ。華恵ちゃんも、良いカウンセラーさんとご縁があったみたいです。すっかり元気になって、学校にも通っています」
「そりゃあ良い。本当に、泡足さんが様子を教えに来てくれて助かるよ。でなきゃ今頃、浦島太郎だ」
ふにゃ。と、泡足は年不相応の幼い笑顔を浮かべ、紅茶を一口啜った。
「元気そうでよかった」
網代が身体を揺らし、道具ポーチを弄る。彼はそこからボイスレコーダーとデジタルカメラを取り出すと、泡足に差し出した。
「ずっと預かっていたのを、昨日思い出してさ。泡足さん、あんたも意地が悪い。散々通っている癖に、一度もコレの事を言わなかったじゃないか」
泡足はボイスレコーダーとデジタルカメラに手を伸ばし、ふと拳を握った。
「すっかり忘れていました……。いや、もう必要ありません。あなたに差し上げます」
押し返された道具をちらと見て、網代の目が細くなる。
「そりゃあ、どうしてだい。俺が同級生を殺したっていう、証拠でも見つかったか」
泡足が額を弾かれるように顔を上げた。網代は泡足の顔を、細めた目の隙間から見つめている。泡足は丸くなった目をさっと走らせ、紅茶のカップを見下ろした。
「確信はありません。ですが、そうかもしれない。とは」
「聞かせてくれ。俺はもう、覚悟を決めた」
「それでは」
泡足はひとつ深呼吸をし、語った。
「あなたに神稚児の家族を探して欲しいとお願いした後、護符の特徴が一致する写真を探しました。一致するものは、ありませんでした」
しかし……。泡足が続ける。
「一致しない。という事は、その写真がない。ということ。そう、考えました。今度は護符の写り込んでいない神稚児の写真を調べ、それが、あなたの代だけだと気づいたんです」
「でも、それだけじゃあ犯人とは言えないだろう」
「これも消去法ですが、あの海域に沈んでいた岩礁を調べました。夏の試験開業を諦め、そちらの捜索に切り替えたんです。結果として、遺体は沈んでいませんでした」
「じゃあ、神隠しにあったっていう神稚児はどこに行っちまったんだ?」
「捜索中、泡島の沖側で深い海溝が見つかっています。あそこに落ちて行ったとすれば、二度と出てこないでしょう」
推測だ。と、網代は鼻を膨らませる。
「それじゃあダメだ。もっと他にある。例えば動機。なんで俺が神稚児に選ばれた同級生を殺したのか」
「それについては、薬物中毒を疑っています。泡島では大麻草を育てていました。あなたが大麻を食べていたとすれば、意識が混濁して病的な発作を起こした可能性は高い」
「弱いな、泡足さん。こうは考えられないか? 例えば、意識が無いから殺せた。無意識でそいつを殺してやろう。と、決めていたとしたら」
泡足が紅茶のカップから視線を持ち上げた。
「トランス状態のあなたが、望んで同級生を殺した。と、あなたはそう言うのですか?」
「そうだ。俺はそいつをいつも変な奴だと思っていた。変な癖に、憎めない。近づきたいのに、気持ち悪い。皆で居なくなって欲しいと思っていたけれど、皆が殺すのはダメだという。そういうごちゃごちゃした理性が全部ぶっ飛んで、殺そうという方向に向かった。そら。ありそうじゃないか」
「ありえない……」
泡足の呻きを、網代は鼻で笑い飛ばした。
「泡足さんは薬で人が変になると思っているらしい。そりゃあ、そういう物もあるだろう。でも、本当に知らないし、本当に思ってもいない事が、薬飲んだくらいで出来る訳がない。泡足さん自身が証拠だ。あの葉っぱ食べた後でも、跨道を襲わなかった。大麻を子どもに食わせているのがバレた。止める人はいなかった。袖に鉈を隠していた。動機も機会も手段も、言い訳も、完璧だったのに。つまり、あんたは薬を飲んでも人殺しまではしなかった。しようと思っていなかったからさ」
網代の推理に、泡足は胸を抑える。
「それは……認めましょう。ですが、あなただって当時は子どもだ。同級生一人をあのように殺すことなんて、ましてや、神主が見ている中で」
網代がテーブルの天板を指で叩いた。
「遊んでいたんだとさ。そのレコーダーに、当時、神稚児に選ばれた家族の証言が入っている。それを聞けば、子どもが子どもを遊びで殺すのを、何人もの大人が見ていたって分かるぞ。しかも、その人は止めなかったそうだ。撮ったのを憶えちゃいないんだが、デジタルカメラの方にはその人と一緒に撮った写真も残っているよ」
ボイスレコーダーとデジタルカメラから目を逸らし、泡足は両手を膝の上に置いた。
「なら、あの子を殺した犯人は……」
「村人全員だ。実行犯は子ども。ほう助したのは大人たちって事だな」
泡足が震える下唇を噛み切った。赤々とした血が口から顎を伝い、紅茶の中に落ちて消える。網代は全身を戦慄かせる泡足に向かって、テーブルの上に置かれた道具を押し付けた。
「俺は警察に自首しようと思っている。だけど、それは泡足さんの物だ。勝手に持って行ったら困るだろう……。いや、違うな。こりゃあ、言い訳だ」
網代が首を振り、言いなおす。
「背中を押してくれないか。これ持っていって、自首しろ。と、泡足さんがそう言ってくれれば、俺はすごく助かる」
泡足の腕が微かに揺れ、テーブルの上に現れる。青白く染まった指先が、網代の手に触れた。
「それは……、持って行きなさい。ですが、まだ、あなたにはやるべきことが残っている」
泡足が唇から血を流して叫んだ。
「そうです。あなたにはまだ、やるべきことが残っている! 家族はどうなるのですか? あなたはそれでいいかもしれません。しかし、あなたが元気になって帰って来る。と、信じて待っている彼女たちは?」
網代の瞳が揺れる。
「泡足さん。あんたなら分かってくれるだろう。あんたが守ってくれ」
「分かりませんよ。まるで、ちっとも、これっぽちも、分かりません!」
駄々をこねる子どものように、泡足が呻く。彼は顎を滴る血を拳で拭い取ると、椅子を蹴って立ち上がった。
「私は未来を諦めていた。神稚児祭りは変えられない、終わりのない地獄だと思っていました。しかし、変わった! その瞬間を、あなたは見ていたはずだ。無責任なアイデアを拾い上げ、希望に繋ぐ過程を見てきたはずだ。まだ、未来は決まっていません」
泡足は一瞬顔を輝かせると、網代に背を向ける。バルコニーを去って行く、彼の脚は止まらない。
一人、バルコニーに残された網代は、テーブルの上で硬く拳を握りしめた。
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