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 翌日。都市大学を目指し、ホテルフロントのボーイに教えて貰った道を歩いて行く。この日は一体、世間で何のお祭りが催されていたのか。どこへ行っても人だかりができていた。

 長い歩道橋をくぐるように角を曲がると、痛んだ銀杏の並木道の先に、都市大学の校舎が見えた。赤レンガ造りの厳かな建物だ。月のように白く輝く針時計をこちらに向けるその風貌は、威圧的というよりも、ただ状況を静観しているだけの女神を想わせる。

 俺は門扉の前で一つ深呼吸をしてから、警備員にカフェテリアはどこか尋ねた。

 カフェテリア店内は広々としたワンフロアであり、多くの人で賑わっている。店内をうろうろ彷徨っていると、窓際の席に腰かけていた上品な紳士が緩く手を振った。

歩み寄った俺に、紳士は灰色の頭を傾げる。

「失礼ですが、網代さんでいらっしゃいますか?」

 目元には、広瀬の面影が宿っていた。

「網代勘一郎です。この度はどうも、急な話で迷惑を」

「迷惑だなんて、とんでもない。広瀬です。どうぞ」

 すらりとした手が椅子を勧める。俺が腰かけると、広瀬紳士は飲み物を勧めて微笑んだ。

「何かお飲みになりますか」

「じゃあ、アイスコーヒーを一つ」

「私は、どうしましょうかね。あったかい紅茶にしましょう。務めを果たして隠居暮らしの身ですから、急ぐことはありません」

 柔和だが、芯の通った声だ。相手は初対面のはずだが、どことなく泡足に似た雰囲気を感じ、油断した口が動く。

「ええ、まったくその通り。急いだってあとは」

 言いかけ、慌てて口を閉じる。俺が口を閉じると、広瀬紳士は無邪気な微笑みを浮かべ、店員が運んできた口の広いカップを持ち上げた。

「急いだって、物事はなるようにしかなりませんからね」

 立ち昇る紅茶の香りだけを楽しむ。そんな仕草がよく似合う広瀬紳士は、ゆるりと瞬いてから尋ねた。

「電話では確か、地方活性のヒントに、くちなし村で暮らしていた頃の話を聞きたいとか」

「ええ。自治会長からの頼まれごとでして。あ、話しを録音してもいいですか?」

「どうぞ。構いませんよ。しかし、三十年以上前の事ですからね……。当時とはずいぶん変わっているでしょうし、お役に立てるかどうか……」

 広瀬紳士は呟くように漏らし、緩く首を振って続けた。

「まあ、しかし。それを決めるのは私ではありませんね。憶えている限りの事は、話しましょう」

「ありがとうございます」

「さて、それじゃあどこから……。私の半生を話す訳にもいきませんし、何か、特にお聞きしたいようなことがあれば、そこから話しましょうか」

 広瀬紳士の気遣いに感謝しつつ、俺はメモ帳を開いた。

「一応、神稚児祭りっていうのが くちなし村にはあるんですが、これについては」

 広瀬紳士が懐かしむように目を細め、いくらか寂しげに窓の外を眺めた。

「神稚児祭り……。よく、憶えていますよ。当時、七歳を迎えた私の子が、神稚児に選ばれましたから。妹と違い、あれは、不運な子でした」

「神稚児に選ばれたから?」

「いいえ。生まれつきですよ。星の巡りが悪かった。とでも言いましょうか。つくづく、ついていない子でした」

 広瀬紳士はカップを両手で包みつつ、爪先を撫でる。

「生まれてすぐ、自力では産声を上げられなかった。妻が言うには、医者がこう、足首を掴んでひっくり返して、お尻を叩いて、ようやっと泣き出したそうです。それからも、保育園がなかなか決まらなかったり、小学校で友だちにいじめられたり。と、まあ、色々ありました」

「それは……。お辛かったでしょう」

「私よりも、あの子の方が辛かったと思います。一度だけ、酷い怪我をして学校から帰ってきたことがありました。なにがあった。と、聞いても答えんのです。ただ、分からない。とだけで、学校に問い合わせても、先生方は見ていなかったから答えられない。と、こうです。恥ずかしい話をしますが、当時の私は、まあ、どちらかといえばやんちゃな方でして。直接学校に行って、担任を問いただしたんです。担任も不思議がっていて、分からない。と」

「とんでもない話ですね」

「ええ。しかし、学校の様子を見ていて察しました。本当に誰も、分かっていないのです。あるいは、分かっていても止めようとしなかった。痛い目を見なければ分からない。と、そういう雰囲気です。私の目には、子ども達の遊びは度を過ぎているように見えました。透明ごっこと言って、誰それは今日見えない日だという。ジャングルジムに上った子が、下で待つ友だちの輪に向かって飛び降りる。それが危険な事だという感覚が、備わっていなかったんでしょう」

 俺は背筋に薄ら寒い物を感じ、身を震わせた。

「遊びというのは変わり続けます。ですが、人を殴れば、相手は勿論、殴った手も痛む物だ。大人はそれを体験して知っているから、子ども達に得意顔で説教できる訳です。しかし、大人もそれを体験していなければ、実感というのはありません。心に響かない。『悲しいからやめろ』『危ないからやめろ』と、説教したところで、子ども達は『叱られたからやめよう』『友だちに迷惑がかかるからやめよう』という実感しか持てません。聡い子たちはそれが事実だと勘違いしてしまう。なまじ、あの子は体力がありましたから。自分の力を扱い切れなかったのでしょう。あの子に降りかかったのは、そういう不運が重なった結果だった訳です」

 広瀬紳士が一口、紅茶を啜る。アイスコーヒーのコップを滴り落ちる水滴が、布コースターに染みを広げた。

「お答えし辛いことなら、無視してください。引っ越されたのは、いじめが理由で?」

「お気遣い、ありがとうございます。それもありますが、きっかけに過ぎませんよ。引っ越そうと決心したのはもう少し後で」

 広瀬紳士はその続きを呑み込み、はたと気づいたように頭を下げた。

「失礼、そういえば、神稚児祭りの話でしたね。年寄りは思い出話がすぐ脱線してしまう」

 恥ずかしそうに頬を染め、広瀬紳士は顎を持ち上げる。

「あれは……。確か、見渡と言いましたかな。村内を練り歩くあれ」

「ええ。仰る通りです」

 広瀬紳士の顔に皺が寄る。

「ほ。どうやらまだ、捨てた物ではないようだ。見渡は、本当に素晴らしかった。神稚児に選ばれたあの子の晴れ着姿は、七五三や娘の成人式とは全く違う趣がありましたから」

「七年間に一度だけ、しかも、一人だけが着られる着物ですからね」

「ええ。本当に特別な機会をいただけた。と、家族揃って涙ながらに喜んだものです。しかし……」

 俯いた広瀬紳士は口元を覆い隠し、呻くように囁いた。

「今にして思えば、あれは、惨い。失礼、言葉にするのが……」

「どうか、無理はしないでください」

 手を広げる俺に、震えのない声が答える。

「いえ。どう表現したらいいのか、迷ってしまっただけです。もう大丈夫。そう言えば、網代さんは子ども達が島に渡った後、どういった神事をするかご存知ですかな?」

 俺は躊躇い、曖昧に誤魔化した。

「あまり、よくは……。神主と子ども達だけで過ごすというくらいで」

 広瀬紳士の目が細くなる。

「子ども達だけ。そうですか……。それじゃあ、私たちの頃とは随分違うようです」

 違う。と、彼は口の中で繰り返した。

「きっと、代が変わったんでしょうな。私たちの頃、あの島へは子ども達と一緒に各組合長が見守り役として付いて行った。子どもの数が多い時には、船を出してくれた漁師も一緒に見守り役を務めるのだと、説明されました」

 俺は前のめりになった背筋を伸ばし、椅子に深く座りなおした。

「島では……。子どもがその身に神様を降ろして、一緒に遊ぶんです。ただ、それだけのお祭りなんですよ。しかし、あれを神様たちは遊びだと言っていましたが……、人の身には、遊びでは無かった。あれは、集団暴行。いや、集団殺人です」

「集団殺人……?」

「まさに」

「止めなかったんです?」

 広瀬紳士は、じっと俺の目を見つめて続けた。

「神様の行いを、ただの人間でしかない私たちが止められるはずありません。しかし、その庇護を離れた今なら言えます。あれは集団殺人という言葉以外で、表現できない物です。●●を殺した村には、いられない。しかし、言い訳がなければ怪しまれるでしょう。両親の介護を理由に、私たちはこちらへ引っ越したんです」

 それっきり、俺は広瀬紳士の語った言葉を何も憶えていない。

 ただ、別れ際に持参した手土産を渡し、とても喜ばれたことは憶えている。彼は無邪気な笑みを浮かべて、故郷の味を懐かしんでいた。

「おお、イカ酒盗ですなぁ。大好物ですよ。●●も、小学生ながらご飯に乗せて食べるのが好きでした。酒はやめたので、今夜さっそく真似をしてみましょう」

 両腕で抱えた紙袋が歪む。


 駅の売り場で人気ナンバーワンという菓子を買い、高速列車に乗り込む。身体が傾く様に揺れた拍子に、俺はポケットにしまったボイスレコーターの硬い表面を撫でた。胸を撫で下ろす。駅のホームに降り立ち、固い感触を確かめる。バスに乗り込み、また。と、俺は何度も繰り返しながら、くちなし村に帰った。

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