閑話 誰も起こしてはならぬ
翌朝。俺は漁港で買った土産物を用意しつつ、駅を目指すバスに乗り込んだ。駅からは泊りがけの小旅行気分で鈍行列車の席を取ったのだが、早速、後悔する羽目になった。ただでさえ時間がかかるというのに、踏切の点検で遅延したのだ。おかげで辿り着く頃には日が暮れ、ホテルでチェックインを済ませると、すっかり夜も更けてしまった。
腹が減って仕方がない。朝食までは時間がある。
「っち。しかたねぇなぁ……」
俺は荷物をまとめて部屋に放り込むと、あまり気乗りはしなかったが、夜の街へと繰り出した。
誘蛾灯に釣られる羽虫のように、俺は灯りを探してふらふらと街路を歩いた。ふと、眩い光を明滅させる一角を見つけ、歩み寄る。アーケードの先は、夜が昼にひっくり返ったような街が広がっていた。ナイトドレスにファーコートを羽織った女性が、俺を追い越して光の中に溶けて行く。ぶわり。と、後ろ髪から嗅いだことのない異臭が漂う。とてもじゃないが、夕飯目的に訪れるような場所ではない。俺は大きく鼻から息を吐き出すと、爪先を立てて回れ右した。
薄暗い路地の先に、小さな中華料理屋を見つける。玄関脇には食品サンプルを飾ったショーケースと、配達用のバイクが並んでいた。そっと赤い暖簾を持ち上げ、店内の様子を窺うと、店内から若い男性店員の爽やかな挨拶が耳を震わせた。
「いらっしゃいませ。何名様ですか?」
「一人です」
「かしこまりました。空いてるお席へどうぞ」
とても素直な町中華店に、俺は夜の蝶を見つけた時よりも心を躍らせながら、カウンター席に腰を下ろした。店内は小さなテレビから聞こえるエンタメ番組の喝采と、キッチンから響く調理音が響いている。他の客はいなかった。
メニューを眺める。値段も良心的だ。水の入ったガラスコップを差し出した店員に、壁掛けメニューから適当な品を三つほど注文すると、店員が引き継ぐよりも先にキッチンから悲鳴染みた叫び声が上がった。
「あぁー! お客さん、ごめんちょっと待ってもらえる⁈ あと五分したら作り始めるから!」
「おう。のんびりやってくんな。こっちは後、飯食って寝るだけなんだ」
キッチンに向かって手を振り答えると、中から威勢のいい返事が聞こえた。
「なんかあったのかねぇ」
俺は手持無沙汰に、水を口に含み、ゆっくりと瞼を閉じてから呑み込んだ。知らず、疲れていたらしい。溜め息が零れ落ちる。
「はぁ」
ぼんやりと店内を見回した拍子に、俺は自分の目を疑った。
隣の席に、女性客が座っていたのだ。一体どこにいたのか。いつの間に現れ、席に着いたのか。まるで分からなかったが、葡萄色のパンツスーツを着た血色の悪い女性が座っていた。彼女はスーツのジャケットが皺になるのも厭わず、ワイシャツ諸共に袖まくりをし、青白い腕を晒している。絡めた両手の指に顎を乗せ、瞼を閉じる姿は、眠っているようにも、死んでいるようにも見えた。微かに、長い睫毛が震える。
「あ、あの。大丈夫ですか?」
俺はなんだか妙に心配になり、思わず声を掛けていた。
徐に瞼を持ち上げた女性は、二つそのまま瞬くと、顎を持ち上げて首を伸ばす。ゴリゴリという不可解な音が彼女の首筋から鳴り響き、そうして、ようやく喉から絞り出された声は、まるで耳をネズミに齧られた猫のように掠れていた。
「ぅんあぁ……? ああ、これは失敬。些か、疲れが溜まっていたようだ」
女性は鼻の付け根まで広がった濃紫色のくまを撫でると、俺の顔を見て眉尻を下げた。
「ありがとう、見知らぬ紳士。君が声を掛けてくれたおかげで、私は無事、ここに帰ってこられたようだ」
「え。あ、はぁ……。構う事では。あの、大丈夫ですか?」
「大丈夫、というのが肉体の健康を案じているとするなら自信はないな。だけど、精神の健康を案じているとすれば、心配無用だとも。私は今、すこぶる機嫌がいい」
この女性は、間違いない。危ない人だ。俺が曖昧に微笑み返すと、彼女はこちらを眺めたまま頬杖をつき、とりとめのない話をした。
「私の頼んだ料理が出来るまで、もう少し時間がかかるだろう。その間、また眠ってしまわないとも限らない。少し、話をしても良いかな? まあ、断わられても勝手にしゃべらせてもらうよ。なにせ三日ぶりの食事でね。食べそこなうと、私は意気消沈して自暴自棄を起こしかねない」
「え、お嬢ちゃん。あんた、何を言ってんだ。今、三日ぶりの飯って言ったか?」
「うん? ああ、その問いかけは、三日ぶりというのは正確とは言えないのではないかということかな。そうだね。厳密にいえば八十二時間と四十五分。四日には達していないからまあ妥当だろうと思ったけれど、君はどうやら、大局よりも細かい路傍の石ころみたいなことが気になるらしい。美徳だ。その才能は伸ばしたまへ。だが、先ほどの場合、重要なのはそこではないだろう。重要なのは、食べそこなうと私は自暴自棄を起こしかねないという点だ。つまり。君が声を掛けてくれかったら、私は自分が眠ってしまった為に食べ損ねたのだという事実を責任転嫁し、この場で、やだやだやだ! おなかすいたぁごはんたべるのたべたいの! こいつがおこしてくれなかったのがいけないの! と、泣きじゃくる悪童の醜態をさらしていた訳だ」
「は、はあ」
溜め息が漏れる。女性が再び話し出そうと息を吸い込む寸前で、店員の爽やかな声が響いた。
「お待たせしました」
店員の肩幅をゆうに凌ぐ、巨大な皿一杯の酢豚が女性の前に置かれた。続けて、ラーメンどんぶりに山を成した白米と、申し訳程度のサラダが運ばれてくる。
彼女は両手を丁寧に合わせて挨拶をしてから、嬉しそうに表情をほころばせた。
「一宿一飯。この恩には必ず報いよう」
「いや、そんな気にしなくても」
「残念だ……。もう、君の顔を憶えてしまったよ」
それだけ言い残すと、女性は脇目も振らず料理を食べ始めた。綺麗な所作で酢豚を口いっぱいに頬張り、ふんふんと鼻唄でも歌うかのように呼吸を繰り返している。
俺はもし、この怪物を起こさなかったらどうなっていただろう。と、想像し、首を横に振った。頭が冷える。どちらにせよ、ろくな目には合わなかったに違いない。俺はすっかり胸やけを起こし、頼んだ料理を半分以上持ち帰った。
ホテルに戻り、備え付けの冷蔵庫に料理を仕舞って、ベッドに寝ころんだ。
奇妙な夜だ。全てが夢だったのではないかとさえ思う。
ふと、瞼の裏に、外套の裾を膨らませた、大正モダンボーイの背中が浮かんだような気がする。彼はこちらに背を向けて、遠ざかっていくようだ。しかし、その背を追いかけようとか突き飛ばそうとか考える前に、意識は眠りの中へ溶けて消えた。
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