小さな演出家
村に帰った俺を待っていたのは、泡島神社分社前のバス停に並んだ二つの人影だった。
沈痛な面持ちをした泡足と、妻だ。妻は両手を固く胸に抱いていたが、俺がバスを降りるなり腕を振って駆け寄り、縋りつくようにして泣いた。堰を切った様に涙を流し、呼びかけにも反応しない。尋常ではない様子だ。抱き寄せた妻の背中をさすっていると、どうしようもなく嫌な予感が込み上げてくる。泡足を見た。狩衣姿で佇んでいた泡足の口が、労うように弧を描く。
「おかえりなさい」
勿体ぶった態度に、苛立ちを感じた。
「なにがあった」
「とりあえず、中へ入りましょう」
言葉少なく、泡足は俺と妻を社務所の中へ案内した。社務所の中は相変わらず散らかっていたが、前回よりはいくらか整頓されているように感じる。廊下を埋め尽くしていた写真は、人が歩く道筋ぶんなくなって、当たり前だが快適に歩けた。
泡足は客間の前で立ち止まると、声を潜めて注意した。
「娘さんが眠っています。どうか、冷静に」
眠っている。その言い方に、俺の胸が針で刺されたように痛んだ。
床が見えないほどだった客間は、床に布団を敷いても広く感じるほど綺麗になっていた。腕に点滴のチューブを繋ぎ、布団に横たわって眠る華恵の姿さえなければ、軽口の一つでも言えただろう。叫びそうになった俺を、妻の手が制する。俺は妻に手を引かれ、膝を折って華恵の側に座ると、太腿の上に手を置いた。枕元に座った華恵のブチ猫が、心配そうに眉尻を下げている。
妻が俺の手に手を重ねた。
「足を縛って、海に飛び込んだの」
「なんでそんなことを……」
「分からないわ。分からないけれど、あなたが出かけた後、学校から帰ってきた華恵が、ここにいたくない。って、言い出したの。何か嫌な事があったのかと思って聞いても、分からない。としか話さなくて」
「学校で何かあったのか?」
泡足が首を横に振って答える。
「いいえ。私も一緒に問い合わせましたが、広瀬先生も把握していなかったようで、大変困惑していました。事実を確認する。と、それっきりです」
泡足は溜め息を吐き、こめかみを揉み解した。
「学校で何があったのかは、その場にいない限り、確認しようがありません。部外者にとっては全てが邪推になってしまう」
「今日、先生から学校に来ていないって連絡があって。心配になって探しに行ったら、この子が海に飛び込むところが見えて……」
「組合長と近くにいた漁師さんが、救助してくれました。救急隊も駆け付けましたが、一度意識が回復したので、もう大丈夫だろう。と。思った矢先に、眠ってしまったんです。幸い、活動が低下しているものの、心音や脳波に影響はないとのことでした。ただ、強いショックのせいで一時的な昏睡を起こしているだけだろう。と。お宅よりも、こちらの方がバス停に近い。それに、奥様おひとりでは不安かと思い、勝手ですが、こちらへご案内しました」
俺は膝を押して立ち上がり、握りしめた拳を自分の脚に叩き付けた。
「馬鹿……。そんな、馬鹿な話があるか! 子どもが自殺しかけたんだろう⁈ なんでお前、くそっ、馬鹿は俺だ……。リゾート計画に現を抜かして、華恵を気にかけもしなかった畜生め!」
脚と、拳が痛む。瞬間、俺はポケットを弄り、ボイスレコーダーを取り出した。壊れていない。一つ溜め息を吐くと、泡足も胸を撫で下ろした。
「ともかく、状況をお話できて良かった。あなたには確認したい事もありましたが、今日はご自宅へ戻られた方がいいでしょう。娘さんも眠っているだけのようですが、何かあれば、すぐに救急へ連絡してください」
「分かりました。すみません、泡足さん。色々、世話になって」
「お互い様ですよ。しかし、これ以上のお手伝いは……」
泡足は客間の壁を眺め、小さく溜め息を吐き出した。俺は泡足が言い淀んだ続きを、確かめるように言った。
「片付けが残っている?」
「ええ、あと半日、一日あれば落ち着くと思いますが……。申し訳ありません。それから、もう一つ。明日、学校が緊急の保護者説明会を開くそうです。こう言っては失礼ですが、内容は期待しない方が良いでしょう」
泡足が言った通り、学校の説明会では華恵が自分の脚を縛って海に飛び込んだ事は伏せられ、妻と泡足が語った内容以外の物は、何も説明されなかった。
保護者説明会を終え、学校の会議室を後にした俺は、校庭を走り回る子ども達に目を向けた。黄色く、明るい声が響いている。校舎にしみいる様な歓声だ。ふと、校庭のブランコに座った小さな女子生徒が目に留まった。
凪咲だ。彼女はブランコに座って爪先で地面を押し、前後にゆらゆらと身体を揺らしてはいたが、遊んでいる様には見えない。だが、華恵と一緒に過ごしていた彼女なら、不安な俺を慰める何かを知っているはずだ。
俺は自分を奮い立たせるように胸を広げ、大きく脚を振って歩み寄った。
「こんにちは」
凪咲は顔を上げず、小さな肩を震わせた。ただ、呟く様な声が風の囁きのように聞こえてくる。
「華恵ちゃん、へいき?」
「いや。ずっと眠っている。もう、起きないんじゃないかと不安に思う事がある」
「ああ、わたし、なんてことを……!」
俺が正直に零すと、凪咲は顔を覆って泣き出した。わんわんと大声を上げて泣きだした凪咲を慰め、話を聞くと、彼女は嗚咽を噛み殺しながら、懸命に答えた。
「何か知っているのかい?」
「わたし なにも、しらない。でも、クラスの皆が、華恵ちゃんの わるくちを言っていたの。わたし 聞かなかったふり しちゃった」
「わるくち」
「うん」
「そうか」
考えるだけで、憂鬱な気分になる。凪咲のいう、悪口というのがどういう類いのものかは、答えを聞くまでも無く心当たりがあった。大方、デブだの、気持ち悪いだの、デリカシーがないだのと、鏡を見たことのない人間が使う程度の悪口だったに違いない。
だが、ぼんやりとしていた俺は、凪咲の言葉に耳を疑った。
「きかないの? あじろさんは、華恵ちゃんのお父さんでしょう?」
「は……? お前……」
俺の言葉を、校舎から響くチャイムが遮る。凪咲は、ぱっとブランコから立ち上がると、駆け足で校舎の中に消えていった。
拭いきれない違和感が胸の中に渦巻く。薄気味悪い鎖の影が、首の影に重なっていた。
その日の晩。突然、凪咲の両親から固定電話に電話があった。電話をかけて来たのは彼女の母親で、きいきいと甲高いハウリング音のように受話器を震わせる。ほとんどなにを喋っているのか聞き取れなかったが、どうやら、学校で凪咲に声を掛けたのを不審に思っているらしい。
手に取った受話器が震える。
『凪咲はね! あなたに華恵ちゃんがもう起きないって言われたと、泣いているんです! 帰ってきてからずっとですよ? ずっと! 一体子どもを何だと思っているんですか! あなた、人の親でしょう⁈』
「いや、起きないとは言っていませんよ。ただ、起きないんじゃないか。と、不安に思っているとは言いましたけれど」
『不安! 子どもに向かって不安ですって⁈ いいですか? 子どもというのはとても繊細で敏感な生き物なんです。そこらの虫や犬猫じゃないんです。子ども達は私たち大人が感じ取れない微妙なニュアンスを常に感じて生きているのに、その子どもに、不安なんて大それた感情を打ち明けるなんてとんでもない事です!』
「えっと、いや。本当に、申し訳ありません」
『分かっていないくせに謝らないでください! そんな言葉は無意味です。聞きたくありません。あなたは自分が何をしたのか分かっていないんですよ!』
「しかし、俺は何も嘘を吐いた訳じゃ」
『嘘! それこそ嘘です! 大体あなた達漁師っていうのはいつも汚い言葉で罵り合っている。あなた達は日頃の行いが子ども達を蝕む毒だという自覚を持っていないから平気な顔をしていられるんですよ! 聞いています⁈』
「ええ、それは、もう。はい。泡足さんにも叱られたばかりで、申し訳ありません」
『分かっていないなら謝らないでください! 何にも教育を知らないくせにまあ、よくもそう軽薄な事が言えますね!』
俺は電話越しにがなり立てる声にとうとう耐えきれなくなり、怒鳴り返そうとして息を呑んだ。
だが、息を呑んだ拍子に、ふと視界の隅へノートの端っこが写った。書斎なんて洒落た物はない家だ。置き場がないから、とりあえず適当に電話帳の側へ置いた、二冊のノートが目に入る。
俺は受話器を持ったまま、そっと通話終了のボタンを指で押し、受話器を置いた。
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