海底から、あなたへ
朝日が昇る。初日の出だ。
俺たちは二艘の船を並べ、大漁旗を掲げて漁港に向かった。波は穏やかだが、沖の方で微かに白波が立っている。跨道がプレジャーボートの船尾から青白い顔を出さない内に帰った方がいいだろう。
華恵と凪咲は俺の漁船に乗っていたが、お互いに気まずそうな雰囲気はなく、手を繋いで初日の出を仰いでいた。
太陽の光が目に沁みて痛んだ俺は、彼女たちから目を逸らし、プレジャーボートを見る。
プレジャーボートの縁から、子ども達が顔を出していた。昨夜の大騒ぎをすっかり覚えていないらしい。船に揺られて何度も吐いたせいか、胡乱な顔で船尾へ流れて行く波を見つめている。
デッキの奥で舵を操作していた泡足と、視線が重なった。彼は小さく手を振る。少々、気恥ずかしそうではあったが。
「なんだい。人間らしいことするじゃねぇか」
俺は泡足に手を振って返し、華恵に頼んで鞄の中から使い捨てカメラを出して貰うと、プレジャーボートを指さした。
「初日の出とプレジャーボートに大漁旗だ。記念に一枚撮っておくれ」
華恵はカメラを構え、首をかしげた。操舵室へやって来るなり、カメラを差し出す。
「お父さん、これ こわれてる。おしても おとがしないよ」
「壊れてる? そんなはずは……。なんだ、フィルムを巻いていないだけじゃないか。ここのギザギザが動かなくなるまで回して、それからシャッターのボタンを押すんだよ」
俺が間の抜けた声を漏らすと、華恵は肩を竦ませた。
「なにそれ。へんなの」
子どもらしい拗ねた声に、俺はたまらず噴き出した。
漁港に戻った後、俺たちは村民たちから質問攻めにあった。
しかし、泡足が休み明けに説明する。と、見栄を切ってくれたおかげで、何とか事なきを得た。疲れて泥のように重たくなった足を引き摺って、何とか家まで帰った俺は、それから二日間も眠り続けていたらしい。そうして、すっかり不細工になった顔を鏡に映して整えていると、洗面所の扉が控え目に開かれた。
「なんだい」
心配そうに覗き込む妻を呼ぶと、彼女は緩く首を横に振り、柔らかく微笑んだ。
「お雑煮食べる?」
「食べる」
腹の虫も一緒になって応えると、妻は花が綻ぶように笑った。
一週間はあっという間だった。泡足がくちなし村の公民館に組合長らを呼び集め、神稚児祭りの危険性(無論、大麻栽培や子ども達が大麻を食べていた事実は伏せられた。代わりに、夜の海を渡る危険や、無人島で一晩過ごす際に監視が行き届かない不安など、安全管理の問題を全面に押し出した内容になっていた)を訴えると、早速、対策会議を開くことになった。
神稚児祭りは『稚児選り』『見渡』『祈祷』の三行程はそのまま、祈祷を本社ではなく分社で執り行うことが決まり、内容も、分社で祝詞の復唱を終えた子ども達が、公民館を借りて一泊する。という、課外授業よろしくの内容に変更された。そのほかにも細かい変更がいくつかあった物の、いずれも些細な事なので割愛する。
跨道だが、彼は卒業を半分諦めていたものの、完全に諦めた訳では無かった。卒業論文のテーマを『くちなし村神稚児祭りから読み解く信仰と共同体意識』から『山野部起伏等に由来する物理的電波及び情報障害に対する民俗意識の適応』という、よく分からない物へと変えて、論文を作成する事にしたそうだ。
それがどういった評価を受けるのかはさておき、跨道自身が納得して取り組める研究テーマを見つけたなら、応援するしかないだろう。
ビャクシンの木が見守る泡島神社分社前のバス停に、乗り合いバスがやって来るまでの間。論文の完成やら、卒業やら、就職やらと気をもむ俺に向かって、跨道は望月と自分の研究ノートを差し出し、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
『こっちはお任せします。煮るなり焼くなり。お好きに処分してください』
『処分ってお前……。大事なノートじゃないか。置いてっちまって良いのかよ』
『教授は惜しむでしょうけれど、僕には必要なくなりましたから。でも、きっと、いつかどこかで何かの拍子に、役立つかもしれません。立たない方が嬉しいですけれど』
『うにゃうにゃと何言ってんだ。まあ、置き土産だと思って受け取っておく』
『いらなければ、二冊とも捨ててしまって構いません。それじゃあ』
俺は些か不安に感じながら二冊のノートを受け取り、遠ざかる乗り合いバスを見送った。
そうして、跨道が都市大学へ戻った後。泡足が絵空事のように提案した『泡島ダイビングリゾート構想』が本格的に動き出す。
ダイビングショップの全面協力を得て空恐ろしいほど迅速に、しかもとんとん拍子に始まった、くちなし村発の大プロジェクトだ。俺は泡足の推薦を受けてしまい、対岸の火事という訳にもいかず、このプロジェクトに加わった。そうして気づけば、俺の肩には『泡島ダイビングリゾート経営戦略チームリーダー』という、仰々しい肩書がくっつくことになってしまったのだ。
三月の海。
俺は泡島の周辺が観光リゾートとしてどれくらい価値がある物なのか、実際にプロダイバー一人を船に乗せて運び、潜って貰った。
海面に、小さな泡がぽつん、ぽつん。と、浮かび上がってくる。規則正しく浮かんでは消えていく泡の軌跡を目の端で追いかけていると、不意に無数の泡が湧き出し、弾けた。しばらく潜っていたダイバーが、息を荒らげて顔を出す。
「網代さん! この海はヤバい!」
「なんだい。なにがどうヤバいんだ。砂地だから見どころがないか?」
ダイバーに手を貸して船へ乗せると、彼は両腕をかかえるようにして擦った。
「そうじゃなくて……。海底に死体が転がっているんだ」
「死体だって?」
ダイバーは全身を震わせて小刻みに頷くと、海の底を指さした。
「最初は、岩礁かと思ったんだ。でも、近くで見たら違った。あれは岩礁なんかじゃない。石の中に埋められた人間の死体だ」
「冗談だろ……」
「冗談でこんな気持ち悪い事を言わないさ! 疑うならサルベージしてみればいい。ポイントは教える。でも、潜るのだけは、他のダイバーに頼んでくれ。俺はごめんだ!」
これから観光地にしようって海に、死体が沈んでいるなんて聞かされたら、確認しない訳にはいかない。
俺はすぐさま無線で漁港に連絡し、サルベージ船と新しいダイバーを手配した。
轟々と吹きすさぶ春の嵐が落ち着いた海。風は凪。水温は低。だが、太陽は輝いている。
俺と泡足は海図を広げ、小型起重機を載せた台船の上にいた。赤錆びた重機がワイヤーを垂らし、海底のダイバーからの合図を待っている。泡足が不安げに眉を歪ませた。
「本当に沈んでいるのでしょうか」
「嘘であって欲しいね。ここらはいくつも岩礁が沈んでいる。全部あげてたらキリがない」
海図に印した点を指さす。
「ただ、前に潜ったダイバーの話じゃあ、このポイントにある岩礁は確実だとさ」
「夏の試験開業は諦めましょうか」
「まだそうだと決まった訳じゃない。ったく、気の早いダイビングショップの連中が広告張ってなければ、夏に試験開業するなんて馬鹿な決定しなかったのに……」
ダイバーが海面に顔を出して、腕を振った。
「よぉし。あげてくれ」
俺の呼びかけに重機が唸り、軋んだ音を立てながらワイヤーを巻き上げる。台船が波とワイヤーの反作用で揺れ動くと、足元から金属の擦れ合う甲高い音が響き渡った。
海底から姿を現した岩礁は、貝と海草でびっしりと覆われており、一見してすぐに死体だとは分からない。むしろ、ダイバーがどうしてこれを死体だと思ったのか分からず、首を傾げてしまう。死体から漂うべき腐臭も、磯臭さに隠れてあまり強く感じられなかった。ただ、所々に網目らしい物や、瓦礫の隙間に、この近辺では珍しい珊瑚の死骸などが見つけられるだけだ。
泡足も首を傾げている。
「ただの石にしか見えませんね……」
「ああ。触れば分かるだろう」
俺は泡足に断ってナイフを握ると、岩礁を突いた。硬い手ごたえ。だが、妙にしなる。
「石にしては妙な感触だ」
ナイフを滑らせて表面を覆う海草を取り払うと、網目らしい模様が目に入った。刃を立て、押しても引いても断ち切れない。こびりついた貝の死骸が邪魔をしているのだ。
「カッターみたいなのはあるか?」
「向こうにあったはずです」
泡足が台船の工具箱からワイヤーカッターを持ち出し、網を切り裂き、広げた瞬間。彼はワイヤーカッターを取り落とし、鼻と口を覆った。
風に乗り、磯臭い腐臭が舞い上がる。
頭に珊瑚の死骸を被り、海草の着物を着た、ぶよぶよとしたゼリー。いや、ヘドロ状に融解したホヤと、何かと、所々白骨化した遺体が目を覚ました。
いや、それは錯覚だ。肉の一片も残っていない小さな骸骨に、目玉はないのだから。ぱちり。と、伽藍洞な瞳と目が合う。
誰かが笑った。ような気がした。
周囲を見渡すと、泡足が口元を抑えたまま台船の縁まで走り、嘔吐していた。ゴーグルを脱いだダイバーが尻餅をついた拍子に、予備の酸素ボンベをひっくり返している。それらの喧騒を遠くに聞きながら、俺は小さな遺体に目を向けた。
息を呑む。
そいつは確かに笑っていた。
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