見渡 それから泡島へ


 大晦日の正午過ぎ。泡足は神稚児と接する跨道の様子に、失望した眼差しを向けていた。

 跨道美果に学者らしい素質がないことは明らかだろう。傍観と観察が彼の基本姿勢であり、物事に対する主体的な熱意が欠けている。学者の素養として、前者は立派な物だ。だが、後者は致命的な欠点に違いない。そして、今やその美点さえも疑わしくなり、欠点だけが形となって表れている。

 跨道は晴れ着を見せびらかして笑う神稚児に向かって拍手を贈り、褒め讃えているだけだった。そこには研究者然とした冷徹さも、傍観と観察を主体にした分別もない。ただ、仲良くなった近所の子を祝福する年上のお兄さんがいるだけだ。

 望月が去ってから過ぎた七年もの時間は、いつの間にか、自分たちが抱く学者へのイメージを美化し、誇張してしまったのかもしれない。泡足の口から溜め息が零れる。今更、浅慮を悔やんだ所で仕方がないが、約束してしまった以上、跨道には神稚児祭りの始終を見届けてもらうしかないだろう。

「神稚児様。そろそろ見渡へ参りましょう」

 しかし、華恵はもじもじと足を揺らすばかりで、なかなか動こうとしない。

「神稚児様。さあ、そろそろ見渡へ」

 泡足が急かすと、華恵は観念したように胸の前で手を組み、祈るように言った。

「ねえ かんぬしさま。わたし、お布団のところに ねねが いるの。あの子、つれてっていい? おねがい」

「ねねはお連れできません。あなたは選ばれた方。お願いを叶える人であり、願う側ではなくなったのです」

「でも、ねねは おとなしくて とってもやさしい ねこなの。いっしょじゃないと ねむれないわ」

「猫なんて、もってのほかです」

「でも、ねねは ぬいぐるみよ。それでも、だめ?」

「いけません……。華恵さん。どうか、今夜だけですから……。それに、もし、暗い夜の海に ねねが 落っこちたりしたら、二度と会えなくなってしまいますよ」

 畏まった雰囲気を脱ぎ捨て、泡足が腰を屈めて話すと、華恵はようやく首を縦に振って諦めた。

 泡足は神稚児を先に進ませ、付き従った。網代勘一郎の娘、華恵は優秀な子だった。聡明だったといっていい。一を聞いて十を知るというタイプではなく、一を聞けば一を。二を聞けば二を。きちんと理解する子どもだ。人当たりも良く、好きなことは好き。嫌いなことは嫌い。と、はきはきした物の言い方をする。

 すっかり神稚児になった華恵は同級生四人が担ぐ輿に乗りこむと、厳かに、しかし得意げに祝詞を唱えた。

「見渡へ参りましょう」

 子ども神輿が村を練り歩く。それほど広い村ではないが、起伏が激しい。坂道も多い。年々低下している子ども達の体力では、夕暮れまでに村を回り切れるかどうか。泡足は子ども神輿に付き従って歩きながら、休憩を挟みつつ、見渡を進めた。

 はじめこそ楽しんでいた子ども達だが、三分の一も回り切らない内に疲れ、村民の姿がまばらにも見えない小道を歩く時には、すっかり元気をなくしていた。休憩の間には子ども達の口から漏れる不満が聞こえる。見渡の再開を泡足が告げると、一人の男子が肩を擦りながら呻いた。

「ちぇ。まだ おわらないのか。かたがいてぇよ」

 小さく零れ落ちた不満の声を、別の子が拾い上げる。それも励ますようにではなく、首を縦に振るようにして。

「おれもだ。おい、だれか かわってくれよ」

 だが、変わろうという手は挙がらない。男子も女子も関係なく、誰もその役をやりたがらなかった。

「わたしが代わろうか」

 華恵が言うと、子ども達は眉間に皺を寄せて睨みつけた。すぐさま泡足が四人指名して担がせる。

「これから公民館前を通って、漁港へ向かいます。村一番の大通りですから、きっと皆さん待っていますよ」

 子ども達は渋々ながら自分たちを励まし、華恵を乗せた輿を担いで歩き出した。

 泡足の予想は的中し、通りにはたくさんの村民が集まっていた。彼らは神稚児の到来を喝采して迎えると、輿を担ぐ子ども達の袂にお菓子をいくつも押し込んだ。そして、口々に神稚児を讃える。

 華恵は、普段見上げる高さにある大人たちの顔を、彼らと同じ目線で見た。

 肩越しに振り返ると、白粉を塗りたくった泡足の顔がある。顔に深く刻まれた皺は、白粉を塗っても隠しきれていなかった。

「ばらまきや。神稚児様のばらまきや」

 泡足に促された彼女は笑顔を作り、貝殻を詰め込んだ袋を開く。両手をしっかり開いて掴んだ貝殻は大した数じゃなかったが、彼女は何度も繰り返し、貝殻をばらまいた。

 輿が進む。人が動く。貝殻がばらまかれる。人が屈み、消えていく。街灯と松明の明かりが入り混じった道を、神稚児が見渡る。繰り返している内に、袋は空になった。

 漁港では組合長が待っていた。彼は子ども達を労い、甘酒を振る舞うと、子ども神輿を倉庫へ片付けつつ、泡足と並んで船に向かった。

 残す神事は泡島神社本社での祈祷のみ。それがすめば、くちなし村をはじめ、人々には七年間の平穏が約束される。

 組合長と泡足は豊漁祈願の網や旗、提灯、替えのロウソクやライターなど、一切の道具が船に積み込まれている事を確認していく。不意に、泡足の後を追っていた跨道の足元で小さな破砕音が鳴った。どうやら、乾いた貝殻を踏んだらしい。反射的に顔を上げた組合長と泡足が、跨道を睨みつける。だが、跨道は胸に手を当てて驚くばかりで、緊張感がなかった。

 組合長が顔を戻し、泡足に囁く。

「あれ、本当に連れて行くんです? いくら学者様だからって、神聖な神事を見せて大丈夫ですかい?」

「ええ。約束しましたから。それに、学者様だからこそ相応しいのかもしれません」

 組合長は微かに唇を尖らせた。

「神主様のお考えじゃ、俺が口を挟むわけにもいかんでしょう」

「あれは用意してくれましたか」

「あれ? ああ。鉈なら包んで、デッキの屋根裏に張っておきましたよ。でも、三メートルも伸びた草を刈るなら、もうちょっと頼りがいのある方が良かないです?」

「子ども達がいるんですよ。そんな物は持っていけません」

「そりゃあそうだ。ま、とにかく気を付けてくださいね」

 組合長は泡足の肩を撫でて励ました。

 船のエンジンが回り出す。組合長は吊り下げた灯光機のスイッチを入れてから、陸に板橋をかけ、子ども達に呼びかけた。

「そら! 出港するぞ」

 子ども達が船に乗り込み、代わりに組合長が陸へ上がる。板橋を甲板に蹴り戻した組合長は、遠ざかっていく船の明かりをぼんやり見送った。


 泡足は木製のポンツーに船尾を寄せると、船尾から二本ロープを投げ、それぞれアンカーに結び付けた。船の縁から板橋を渡し、泡島に上陸する。子ども達が続けて島に上陸した。

 だが、跨道はなかなか船を下りようとしない。海に向かって顔を突き出し、時折身体を震わせている。泡足は船に戻り、ライトに照らされた彼の後姿に声をかけようとしたが、くぐもった呻き声を聞いて躊躇った。

「跨道さん。私たちは先に行っていますよ」

「あ……。えぅ……」

「祈祷は夜中に行いますから、まだ大丈夫ですよ。養生してください。島の中心に向かって道なりに行くと、拓けた場所があります。そこへいらっしゃい。懐中電灯はこれを。それから、申し訳ありませんが船のライトは消させてください」

 跨道の腕が持ち上がり、落ちる。泡足は小さな鼻息を吐き出すと、ライトを消して船を下り、子ども達と一緒に奉納品を抱えて、島の奥へ消えていった。


 星明りの下、船酔いに襲われていた跨道は微かな足音を聞いて振り返った。彼は目を閉じ、耳を傾ける。足音は船に近づいてくるようだ。彼は懐中電灯を手に取ると、デッキの陰に移動し、息をひそめて待った。

 足音は、まるで夜道が見えているかのように迷いなく近づいている。微かに息が弾んでいた。足音の主は板橋を渡って船に乗り込むと、透き通った声で跨道を呼んだ。

「こどうさん?」

 星明りに照らされていたのは、凪咲だった。彼女は声のように透き通った指で縁を掴みながら、華奢な身体を船首に向ける。

 跨道は懐中電灯でデッキを照らすと、手を振るように振った。

「やあ、凪咲ちゃんじゃない。こんばんは。お祭りはどうしたの?」

 跨道の呼びかけに、凪咲はデッキを回り込んで答える。

「おてあらいにいきたいって、にげてきた」

「そっか」

 それっきり口を閉じた跨道を見下ろし、凪咲は丸まった膝を抱いた。

「どうしてって、きかないの? こどうさん、がくしゃさま なんでしょう?」

「いやぁ。学者様なんてとんでもない。僕には向いていないって痛感したよ」

 跨道はけらけらと笑い、凪咲のように膝を抱いて丸まった。

「思ったより楽しくないからね。慣れないことして船酔いはするし、本を読んだり書いたりしなくちゃいけないから、首だって凝っちゃう。民俗学者なんて、探偵やジャーナリストよりも性質が悪いや」

 跨道は顎を高く上げ、左右に揺らした。途端、首の骨が鳴る。

「すごいおと」

 くしゃり。と、顔を丸めて凪咲が笑った。そして、ぽつりと呟く。

「わたしも、たのしくないって ちゃんといえれば よかったのに」

 凪咲の顔が星明りに照らされる。雲間から差し込む細い月明かりが、彼女の白い顔だけではなく、夜闇に沈んでいた船と、全身を浮かび上がらせた。

「きかないの?」

「ん。なにかあったの?」

 首を傾げる跨道に、凪咲は膝に顔を埋めて答える。

「わたし、しけんで うそついたの」

「えっ」

 凪咲は顔を伏せたまま続けた。

「おはなしもんだい。おともだちのひとりが、一週間 がっこうを おやすみしました。せかいを一周して いたからです。でも、みんなはしんじていません。だれかが、おともだちを嘘つきだと笑い、みんなも笑いました。あなたは、どうおもうでしょう?」

 跨道が答えずにいると、凪咲は微かに顔を上げ、不貞腐れる様に唇を尖らせた。しぶしぶ、跨道は訊ねる。

「うぅん……。世界一周してきたその子と僕は、親友?」

「わかんない」

「嘘つきって笑ったのは、おともだちの一人?」

「わかんない」

「僕にとって、学校は楽しい場所?」

「それも、わかんない。ただ、かんぬしさんは 感じたままを答えてください。って」

 凪咲の返事に、跨道はあっけらかんと言った。

「何も感じないかな。世界一周して凄いなぁ。くらい。凪咲ちゃんはなんて答えたの?」

「わたし、ほんとうは たのしくない って思った。でも、みんなが笑っているなら、たぶん たのしいのかなって思って、笑うと思う。って言ったの」

「それがどうして嘘なの?」

「だって、うそだから」

 凪咲は小さく息継ぎをすると、肩を震わせ、嗚咽を噛み殺した。

「うそついたから わたし、えらばれなかったの。みんなは、わたしが ことしのかみちご だって。パパと、ママも、先生も、きっとわたしだ って。みんな、そういっていたの。だから、わたしじゃないって 知って、がっかりしてた。でもわたし、華恵ちゃんが かみちご になって、すごくうれしかったの。さっきも、おめでとうって、言ったわ。そしたら華恵ちゃん、困った顔してた。わたし、なんだかこわくなって……」

 跨道は震える凪咲の背中に、脱いだ外套を被せて擦った。

「だから、初めて会った時に『神稚児はもう決まっているの』って、教えてくれたんだね」

 小波が耳を撫で、船が揺れる。そうしている間に、凪咲は深い眠りに沈んで行った。

 跨道は懐中電灯を点けると、デッキの中を覗き込んだ。船室に通じる扉、壁からぶら下がる無線機、非常用のライフジャケット、微かに揺れるキーホルダーのほかに、目立った物は見当たらない。

「しめた。鍵が付いたままだ」

 跨道は鍵を手に船室の扉を開くと、ソファベッドに凪咲を寝かせた。


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