決意
一人、公民館から自宅へと歩いていた俺は、気づけば漁港にやって来てしまった。我ながら、前後不覚の足取りに苦笑いが零れる。きっと、習慣という奴に違いない。
俺は気分が悪くなった時、必ず海を訪れるようにしていたからだ。こういう気分の時、漁師ほど気晴らしに困らない仕事はない。船に乗り込み沖へ出て、釣り糸を垂らしながら人目を気にせず好き放題叫び、歌い、何なら小便だって出来る。しばらく船着き場の縁をふらふら歩いていた俺は、陸のアンカーに硬く結ばれた縄を掴み、第一宝臨丸を引き寄せた。
小波に揺れる船上へ飛び移り、徒に舵を切る。胸の奥から虚しさが込み上げ、悪態になって口から出て行った。
「ああ、くそ。禁漁期め! お前さえいなければ、俺は沖へ出ていけたのに!」
冬の風に乗った一羽のカモメが、宝臨丸のデッキに小さな影を落としている。
「畜生! おこぼれなんかねえぞ! あっちへ行け!」
腕を振って叫ぶと、カモメは一鳴きして返し、平然と中空を漂い続ける。無性に悔しくなった俺は、船室に飛び込んだ。そして、仕舞っておいた釣り竿を一本持ち出し、カモメに向かって振り回す。
「この野郎、人を馬鹿にしやがって! 魚が欲しけりゃ自分で獲りに行け!」
どうやら渾身の叫びに根負けしたらしい。ようやく、カモメは長く鳴いて沖へと飛んで行った。遠ざかっていくカモメの姿を目で追いかけていると、波に変化はないのに、船が大きく揺れた。樽浮きが投げ込まれたかの様な、鈍い音が耳を震わせる。船首に顔を向けると、尻餅をついた格好で転がる跨道がそこにいた。
「いったぁ……。意外と揺れているんだなぁ」
「お前、勝手に人の船に乗り込んで何してんだ」
俺は座り込んだまま尻を撫でる跨道の腕を掴み、デッキの手すりを握らせた。身体を安定させた跨道は恥ずかしそうに愛想笑いを浮かべると、小さく頭を下げた。
「謝りに来たんです」
それから神妙な面持ちになり、ぽつり。と、呟く。
「さっきは、ごめんなさい」
ごめんなさい。幼い言葉で謝られた瞬間、俺は、跨道がただの学生に過ぎない事を思い出した。跨道の謝罪が続く。
「神稚児祭りを、悪いお祭りのように言ってしまいました。色々、気になる所があったとはいえ、網代さんを傷つけるようなことをしてしまって……」
こいつが神稚児祭りを調べているのは卒業論文をまとめる為であって、決して、俺たちの祭りを否定したい訳じゃない。ましてや、神稚児祭りが中断されるとか、村人が参加できなくなるなんて事態は避けたかったはずだ。
俺は跨道の謝罪を遮り、頭を下げた。
「それ以上、謝らないでくれ。惨めな気分になる。あんたはただ、祭りにおかしな部分を見つけて、それを教えてくれただけだ。俺の方こそ、おとなげなかった」
驚くほど、素直な言葉が口から滑り落ちる。俺が跨道に感じていたままならない気持ちは、言葉にしてしまえば、それだけだ。
跨道は微かに頬を緩め、首を伸ばした。彼はわざとらしく独り言を呟いてから、陸へ上がる。
「お祭りの前の本社を見たかったのですが、そろそろ分社に向かわないと。泡足さんとの約束に遅刻してしまいます。神稚児の着付けやら、見渡直前の様子やらを解説付きで見られるなんて、楽しみだなぁ」
外套の裾を風に膨らませながら、跨道は去って行った。
船の上に残った俺は、跨道の独り言を口の中で繰り返す。祭り前の本社。見渡直前を解説付きで見る。つまり、時間はまだあるって事だ。その時、俺は凄まじいアイデアを閃いた。稲妻のように迸る電流。脳裏を焼いた一瞬の煌めき。起死回生の一手。どれほどの言葉を尽くしても表現叶わない。
俺は船から陸へ跳び移ると、家に駆けこみ、倉庫に仕舞い込んだキャンプ用品と、未使用の使い捨てカメラを引っ張り出した。
跨道美果は当時を振り返ってこう語る。
『実はあの時、卒業は半分諦めていました。卒業論文は別のテーマにしよう。と、決心していましたから。だから、泡足さんに会いに行ったのは、謝罪と、感謝を伝える為だったんです。でも、思わぬ形で引き留められました。彼は切り出せないでいた僕に、せっかくですから本社での祈祷を見ていきますか。と、そう言ったんです。神稚児祭りの全貌が分かるかもしれない。それはもう、卒業論文は関係なしに惹かれる提案でした』
跨道美果は語った通り、卒業論文のテーマを変えるから村を出る。と、泡足に伝えなかった。彼はその後、神稚児の着付け、見渡、本社での祈祷に至るまで、泡足と共に行動したそうだ。
さて、キャンプ道具は一揃い船へ積み込んだ。怪訝な顔をする妻には言い訳と、泡足への言伝も託した。
漁港の船着き場は暗く、まばらに設置された街灯と、規則的に明滅を繰り返す灯台の灯り。それから、細い月と、星の明かりが頼りだ。俺は第一宝臨丸に乗り込むと、陸を繋いだロープを手繰り寄せ、結び目を解いた。ロープを回収している内に、船はゆっくりと陸から離れていく。エンジンが唸りを上げ、スクリューが回り出す。
恐怖は感じない。夜の海に繰り出すのは慣れていた。
風は無く、波は静かそのもの。潮目の変化も比較的穏やかな月が昇っている。俺は気分よく口笛を吹きながら、船を沖合いに浮かぶ泡島へ向かって走らせていた。いや、気分よくというのは語弊がある。どれほど屁理屈をこねて言い訳をつくろっても、自宅で謹慎していろという泡足の言いつけを無視した。見渡で立派に勤めを果たすだろう娘の晴れ姿を見られない。それらの事実は歴然とした事実のまま、そこにあるからだ。だが、おかげで俺は、自分の胸に巣食った不可解な違和感の正体を探ることが出来る。その為のチャンスを手に入れた。
夜の闇に紛れて泡島に近づいた俺は、細く絞ったサーチライトで島を照らしながら、その周りを一周した。泡島というのは、名前通りの印象を与える島だった。
丸みを帯びて膨らんだ島全体に、鬱蒼と生い茂るビャクシンの木。陸側には木製のポンツーが浮かんでいる。更にライトを絞り、目を凝らして視ると、ポンツーの向こうに獣道らしい物を見つけた。いったんライトを消し、沖側に回る。再びライトで照らして視ると、そちらは断崖になっており、波で削られのっぺりとした岩肌と、海面から無数の大岩が突き出していた。島から剥がれ落ちたのだろう大岩は、船首を立てて沈んだ貨物船のように巨大な物から、小さい物まである。サーチライトを海底に向ける。小さいが、決して無視できない大きさの岩礁があちこちに沈んでいた。
少し船を移動させ、岩と岩の隙間を探る。底には何も見えない。側面からの波と岩との接触に気を付ければ、座礁する心配はなさそうだ。念の為、海底ソナーを操作して底を探る。すると、投錨しようとした地点に巨大な海溝がある事に気づいた。
「あっぶねぇ。そのまま深海に繋がっているじゃねぇか」
船を動かし、大岩と大岩の隙間を探る。はっきりと底は見えないが、微かに白い砂地のような物が見えた。ソナーに目を向けると、海底までは約四mらしい。
俺は大岩の隙間に錨を投げ入れた。幸い今の所、潮の流れは沖から陸方向に向かっている。船をぶつけるかもしれないが、流されることはないだろう。俺はロープを手頃な岩に投げ掛けると、出来るだけ船がその場から動かないよう固定した。
そして、ウォータージャケットとヘッドライトを着て、浮き付きのロープで縛った鞄を抱しめる。意を決し、海へ飛び込んだ。
島に沿って数十メートルほど泳ぐと、木製のポンツーが見えてきた。鞄を投げ、上陸する。大きく吐き出した息が、木々に吸い込まれていく。夥しいビャクシンの森だ。剥き出しの木目に浮かんだ模様が、ある所では人の目のように、指のように、口のように見える。
俺はヘッドライトを消し、島全体を見渡した。いつぞ、跨道が鳥居も見えないと言ったが、上陸してみると実感する。ここはまさしく異世界だ。理性が支配する場所ではない。完全に人間社会から隔絶された孤島で、子ども達はどんな祈りを捧げるのだろう。俺は一体、どんな祈りを捧げたのだろうか。時間はある。だが、機会は少ない。華恵に迫る危険がどんなものか。確かめて、排除しなければいけない。煩雑な思考を、髪にまとわりついた海水と一緒に振り払う。
「余計なことを考えるな。いいか。華恵を守る事だけ考えろよ」
自分に言い聞かせながら、俺はビャクシンの森に踏み込んだ。
森の中に、生き物の気配は皆無だった。人を襲う毒虫は地中に深く潜り眠っているらしく、落ち葉をひっくり返したくらいでは物ともしない。木の間では海鳥たちが休んでいたが、俺と目が合うや、まるで会釈をするように伸ばした首を折り畳む。薄気味悪いのはビャクシンの木目と、所々に暗い闇を潜ませる洞くらいだ。
「なんだ。何もない島だな」
思わずそんな感想が零れ落ちるほど、泡島には何もなかった。しばらく森の中を探索すると、俄かに星明りが降り注ぐ。ビャクシンの木々が無くなり、拓けた場所に出たのだ。
そこには、腰の高さほどまで成長した草が生えていた。鳥が運ぶ種の他には種が飛んでこないせいか、辺り一面、同じ草だらけだ。場所によっては見上げるほど大きく成長した物もある。
青臭い香りを漂わせる草をヘッドライトで照らして見たが、緑色の大きい紅葉みたいな形をしているなぁ。という事のほかには、何も分からなかった。
ふと顔を動かした拍子に、土が光った。鬱蒼とした木々や、腰まで育った草が自生している様な場所で、そこだけが妙に輝いて見える。近づいてみると、輝いて見えたのは錯覚ではなく、本当に土が光っていると分かった。土の上に転がった緩効性肥料の粒が、ヘッドライトの光を反射させていたのだ。
「なんでこんな所に肥料なんか。一体何を育てて……」
育てているとしたら、この草だろう。俺は一葉摘み取り、星明りに照らしてみたが、やはり分からなかったので、溜め息を吐いてポケットの奥に押し込んだ。
拓けた場所の側に一際大きなビャクシンの樹を見つけた俺は、鞄を背負いなおしてよじ登った。枝ぶりが良く、ヘッドライトの明かりだけでも簡単に登れる。ちょうどよく伸びた枝に腰を下ろしてみると、眼下に広がる葉の隙間から拓けた場所が見え、少し身体を捻ればポンツーが見えた。
「ここなら丁度良さそうだ」
俺は背負い鞄を下ろして枝に引っ掛けてから、虫よけと寝袋を持って地面に降りた。
あっという間に朝日が昇る。俺は木に登り、丸めた寝袋を鞄と一緒にまとめておくと、首を回した。泡足の船は見えない。どんなに早くても、見渡が終わる夕方までは来ないはずだ。
「さっさと済ませよう」
華恵を襲う可能性がありそうなものを、見つけ出さなければいけない。気合いを入れてビャクシンの森に踏み込んだ俺は、夕方までの間、歩いて行ける範囲を写真に撮りつつ、全部見て回った。夕暮れが近づき、空が赤々と燃える頃。
俺は拠点に戻り、呆然と独り言ちた。
「嘘だろ……。危ない物なんか何もないぞ……」
インスタントコーヒーをお湯に溶かしながら、振り返る。
手に入れたのは拓けた場所で見つけた、よく分からない緑の草と、ビャクシンの森で野生化した果物の実が一つ。その果物も、舌先で触れた途端に食べられた物じゃないと分かるものだ。だが、眠気覚ましくらいにはなるだろう。と、軽い気持ちでポケットにしまった。
草の陰で見つけた鍵のない物置小屋を覗いても、あるのは肥料袋と錆びついた鎌、箕が一つ、ペットボトルの水と樽桶だけ。毒蛇やイタチといった動物がいる気配は勿論、糞や抜け殻といった痕跡さえ見当たらなかったのだ。
「気のせいだったのかなぁ。いや、こうなったら覚悟を決めた。祈祷まで見届けてやるぞ」
決意と共に、コーヒーを一気に呷る。咽た。
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