●第5章:互いを知る夏の日

 八月の後半、会社は夏季休暇に入っていた。彩花は久しぶりに、自分の時間を過ごしていた。クーラーの効いた部屋で、積み重なった本を読んだり、時には友人とランチに出かけたり。けれど、どこか落ち着かない自分がいることも確かだった。


「結城さんって、休暇中は何をして過ごすんですか?」


 休暇に入る前、颯真にそう尋ねられたことを思い出す。


「そうね……特に予定は」


 言いかけて、彼女は自分の生活を振り返っていた。仕事以外の時間を、どう過ごしていたのだろう。記憶を辿れば辿るほど、彼女の人生が仕事一色に染まっていたことを実感する。


「私って、本当に仕事しか知らないのかもしれない」


 ソファに深く身を沈めながら、彩花は溜息をついた。外からは蝉の鳴き声が聞こえる。真夏の陽射しが、薄手のカーテンを通して部屋に差し込んでいた。


 そんな休暇最終日の夕方、颯真から電話がかかってきた。彩花は画面に表示された名前を見て、思わず動悸が早くなるのを感じた。


「結城さん、お時間よろしいですか?」


 受話器から聞こえる颯真の声は、いつもより少し緊張しているように聞こえた。


「ええ、大丈夫よ」


「明日から仕事が始まりますが、その前に少しお時間をいただけませんか?」


 彩花は一瞬躊躇った。けれど、この数日間、どこか落ち着かなかった理由が、この電話にあったのかもしれないと思い当たる。


「ええ、いいわよ」


 待ち合わせた場所は、都内の閑静な公園だった。真夏の陽射しは依然として強いものの、木々の間を吹き抜ける風が心地よい。公園内の小さなカフェで、二人は向かい合って座った。


 颯真は、いつもの仕事場での姿とは少し違って見えた。白のリネンシャツに、ベージュのチノパン。カジュアルでありながら、品のある装いだ。


「実は、僕のことを知っていただきたくて」


 アイスコーヒーを前に、颯真は静かに話し始めた。


「僕が育った家のことや、どうして広告の仕事を選んだのか。全部お話ししたいんです」


 颯真の瞳には、真摯な想いが宿っていた。それは単なる上司と部下の関係を超えて、一人の人間として彩花に向き合おうとする意思の表れだった。


「私も……同じよ」


 彩花も、ゆっくりと口を開いた。これまで誰にも話してこなかった、自分の物語を。


 颯真は両親が共働きで、幼い頃から祖母に育てられたこと。その祖母が、広告や宣伝の仕事に携わっていた人だったこと。祖母の仕事を通じて、人々の心を動かすことの素晴らしさを知ったという。


「祖母が残してくれた広告の企画書や、スクラップブックを見るのが好きでした。一つの言葉や映像が、誰かの人生を変えるかもしれない。そう思うと、胸が躍るんです」


 颯真の目が輝きを増す。その純粋な想いに、彩花は心を打たれた。


「私は……」


 彩花も、少しずつ自分の話を始めた。両親との関係、学生時代の思い出。そして、これまで誰にも話せなかった、恋愛に臆病になってしまった理由。


「私、人を信じることが怖くなってしまったの」


 その言葉に、颯真は静かに頷いた。


「でも、信じることを諦めてしまったわけではないんですよね?」


 その言葉に、彩花は顔を上げた。


「だって、結城さんは今でも、誰よりも人の気持ちに寄り添おうとする人だから」


 颯真の言葉は、彩花の心の奥深くまで届いた。


 二人の会話は、日が暮れるまで続いた。木漏れ日が西に傾き、蝉の声が次第に弱まっていく。その間、二人は互いの人生を、少しずつ、でも確実に理解し合っていった。


 帰り際、夕暮れの公園を歩きながら、颯真が言った。


「結城さんのことを、もっと知りたいです」


 その言葉に、彩花は立ち止まった。街灯が一つ、また一つと灯り始める。


「私も……あなたのことを」


 言葉の続きは、夏の風に消えていった。けれど、二人の心には確かな温もりが残されていた。


 その夜、彩花は久しぶりに日記を書いた。


『今日、初めて誰かに本当の自分を話せた気がする。怖かったけど、不思議と心が軽くなった。明日からまた仕事が始まる。けれど、きっと何かが変わっているはず』


 窓の外では、花火大会の音が遠くで鳴っていた。夏の終わりを告げるような、けれど新しい何かの始まりを予感させるような音だった。

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